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12月 16 2018

徳の足りなさ

昨日は朝から出て行って、金山の方から瑞穂運動場の辺りまで回っていたんですが、皆さん同じような態度の人ばかりでしたね。

「このままでは本当に滅びますよ。もう心を入れ替えたらどうですか?」とか「本当の神の教えをいつまでも無視していて大丈夫ですか?車がドンドン減っていますよ」とか、いって回ったんですが、無視しているか、キレ出すような人たちばかりで(こういう人たちはもう怖くて仕方がないのでしょう)まともに話をきく人などいなかったですね。

この車がガラガラの状況では(また昨日は土曜日で一段と道路がすいていましたから)私の話を真剣にきくなら、もう頭を下げるしかなくなるからです。

それだけは嫌だという人ばかりです。(苦笑)それではまともに私の話はきけないでしょう。

とはいえ、今のまま突っ張り続けるなら、そういう人がドンドンいなくなっているのです。

もう突っ張るのも限界にきているのではないですか?特にトラックなど激減も激減、本当に減っているからです。

私が見ていないところで、頭を下げる人もずいぶん増えてきているようです。(なんか、そんな感じですよ)

何で、見てないところで頭を下げているのか意味が分かりませんが(見ていないところでも、一応そういう態度を取っておけば、天から感謝していると思われるとでも思っているのでしょうか?)そういう態度はあまり意味がありません。(横柄な態度よりはいいという程度です)

よい態度を取るなら、堂々とされたらどうでしょう。その方がよほど徳になるからです。

釈尊在世当時のインドの人々は坊さんを見ると布施をするという習慣がありました。

その当時は、どれだけ貧乏な人でも(それこそ今日、明日の食べる物に困るような人たちでさえです)自分の食べる分がなくなっても、坊さんが歩いているのを見ると、その食べ物を坊さんに布施するという人までいたのです。

当時のインドの人たちは、それだけ坊さん(神の教えを説く人)を尊び敬っていたからです。

まあ、そこまでしろとはいいませんが(苦笑)少しくらい、この当時のインドの人たちを見習ったらどうでしょう。

そうすれば、起きている悪いことも収まってくるからです。

これだけ悪いことが日常茶飯事に起きているということは(こういう言い方も変ですが、これだけ悪いことが起きている国は〔天が天罰をくだしている国は〕日本くらいでしょうから)その国の人々が、相当、徳のないことをしているからです。

では、徳になることをしないといけないということになります。

そうしないと、その国に起きている災いは(なんせ、今年の漢字まで「災」ですから)止まらないということになります。

では、やるしかないのではないですか。その国の人、一人一人が徳をえるようなことをです。そうすれば、その国に起きている災いも鎮まってくるからです。

その国の人々のあまりの徳のなさが、そのような多くの災いを招いているからです。

その徳をえる一番の方法は、神の教えを説いている人に布施するということです。

それが一番徳になります。

それはそうでしょう。本当の神の心を伝えている人に布施などすれば、その人が一番、神のことを分かっているということになりますので、その人に布施するということは、神にそのまま布施することと同じであるからです。

では、それが一番徳になるでしょう。それは神に直接布施するのと同じことであるからです。

それなら、神社やお寺、仏壇に供え物や布施をすればよいではないか、と思う人もいるかもしれませんが、それは意味がありません。

間違った信仰に供え物や(だいたい、この供え物ということがすでに間違いです。生きていない人に供え物をしたところで意味がないでしょう。それを食べられるわけではないのですから。本来は、供え物は生きている人に食べ物の布施として与えないといけないのです)布施をしたところで、徳になるわけがないからです。

だから、そのような間違った信仰をしている人たちにもボンボン災いが起きているのです。徳にならないことばかりしているからです。

別に困っている人に布施したり、それこそ災いが起きたところに寄付したり、ボランティアに行ったりすることも、たしかに徳にはなりますが、それでは足りないということです。

それで足りているのなら(そのようなことをする人は多いのですから)これだけ日本に災いが起きるわけがないからです。

それではぜんぜん徳が足りないから、これだけ日本に悪いことが起きているのです。

では、その足りない分をどこで補うのか?ということになります。

だからそれは、本当の神の教えを説いている人に布施する以外にないということです。それだけ本当の神の教えを説いている人に布施するということは、大きな徳になるからです。

この辺りの人たちなど、特に徳が(別にシャレではありません)足りません。だから、これだけひどいことが起きているのです。(この辺りの人たちは、本当の神の教えを説いている人に嫌がらせをしているのです。それでは逆にドンドン徳がなくなります。だからドンドン悪いことが起きてくるのです。自分の徳を自分でドンドン減らしているからです)

その悪いことを止めたいのであれば、それは徳をえることしかないのです。

では、本当の神の教えを説いている人に堂々とよいことをするしかないのではないですか。それ以外で、その災いを止める方法は(多くの徳をえる方法は)ないからです。

悪いことを止めたいのであれば、徳をえるしかありません。

徳をえるよい行いはコソコソするのではなく堂々とやってください。そうすれば、災いなど起きなくなるからです。

(ここに書いてあることは真剣に読んだ方がいいですよ。本当にそうすれば災いは止まるからです。このまま態度を変えようとしなければ〔また中途半端な態度しか取らなければ〕こちらの人たちの多くがいなくなるかもしれません。〔本当にそんな感じですし、トラックの運転手などそうですし〕もう少し徳をえる行いをされたらどうでしょう。〔金儲けばかりしているのではなくです〕それが一番、災いが起きない方法であるからです)

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12月 14 2018

おかしな宗教

前回のブログを見て怒っている人がこの近所はたくさんいましたね。

なぜなら、この近所の人たちは地獄霊に憑かれている自覚のある人がたくさんいるからです。(私がいろいろ教えてあげたので、この辺りは自分に地獄霊が憑いていることを知っている人が多いのです…ほんと怖いです)

そういう人には前回のブログは面白くないでしょうね。死ぬ間際に(地獄霊など憑けていると)地獄霊が迎えに来ると書いてあるからです。

しかし、事実は事実です。(その地獄霊につれられ地獄に堕ちるのです)それが嫌なら、その地獄霊を祓えばいいのです。今のうちにです。(他の地域の人たちもいませんか?自分に地獄霊が憑いている自覚のある人がです。そういう人、本当にやばいですよ)

そうはいってもなかなか難しいでしょうね。

この近所の人たちは長年地獄霊を憑けている人が多いようです。長年、地獄霊をつけているということは、その地獄霊と同じ考えをずっと持っているからずっと憑いているのであり、そういう長年の考え方は、そう簡単に変えられるものではないからです。

地獄霊と同じ考えだなど終わっていますが(ほんとゾッとしますが)そういう考えだからいいことが起きないのです。

危ないことがずいぶん起きだしています。(この辺りだけではなく全国的に)丁度よいではないですか。真剣に、そのようなおかしな考えを反省されてはどうでしょう。

そうしないと、近いうちに本当に地獄霊と一緒に地獄に堕ちていかないといけなくなりそうだからです。

この辺りはずいぶん車も減ってきています。しかし、トラックの運転手連中など本当にどうするのでしょう。

もう七~八割がた走っているトラックが減っているのです。ということは、それだけの運転手に何か起きたということになります。

では、このままほっとけば残りのトラックの運転手にも確実に何か起きるのではないですか。

だって、七~八割の運転手に何か起きて、残り二~三割の運転手に何も起きないなど考えられないからです。

結局、全員に現れるのではないですか?このままではです。

ずいぶん怖い話なんですが(ほんと、運転手の皆さん、怖くはないのですか?この状況では全員に何か起きそうなんですが…〔汗〕)何も起きていない運転手の方が、何か起きている運転手よりぜんぜん少ないのです。

では、残りの運転手にも近いうちに同じようなことが起きてくるのではないですか、今のまま考えを(心と行いを)変えようとしなければです。

皆、同じような考えであるから、同じようなことが起きているはずだからです。

そうですよね。だって、そういう人たちとぜんぜん考えの違う私には次々に奇跡が起きているのです。

では、考え方の違いが(心と行いの違いが)起きてくることの違いなのではないですか?それ以外、考えれないからです。

それとも他に何か理由があるとでもいうのでしょうか?

運転手がいなくなっているのはお前のせいで、日本中で天変地変が多発し出したのもお前のせい、だからお前だけ奇跡が起きているのだと、すべて私のせいにし続けている「唯物無神論、お前のせい教」の信者の皆さんは(凄い新興宗教が流行り出したものです。〔苦笑〕)そうやってすべて私のせいにし続け、ドンドンいなくなっているのでしょうが、そう思わない人たちはどうなんでしょう。

そういう(マンガのような)おかしな信仰を続けていると、ドンドン不幸になりますが、それでもまだ、そういうおかしな宗教の信者の人たちのいうことをきいて、すべて悪いことを私のせいにし続けるのですか?

この辺りの人たちにそんなこといっても無駄ですかね。すべてお前のせい教の信者さんたちばかりであるからです。(ほんとこの辺りはよく流行っています。そういうおかしな宗教がです…こちらは大迷惑なんですが。〔苦笑〕)

しかし、そんなおかしな考えに支配されていれば、ドンドン不幸になっていきます。

だから、そのような人たちがいなくなっているのでしょう。大間違いな考えでいつまでもいるからです。

大間違いの考えでいれば、不幸になるのが道理なのです。

今の考えのままでは、特別この辺りだけではありません。日本中の人たちがドンドン不幸になっていきます。(実際なっています。天変地変や様々な不幸な現象が次々に起きてです)

日本中の人たちがいつまでたっても大間違いな考えを理解しようとしないからです。

だってそうでしょう。この辺りだけではなく、他の地域の人たちも似たような考えの人たちは多いのです。

他の地域の人たちは「唯物無神論、責任転嫁教」です。神などいない、そうして悪いことはすべて責任転嫁。この辺りの人たちは、その責任転嫁を私のせいにしているだけ。大して考えは変わりません。

そういうおかしな信仰を続けているか、あとは、間違った信仰をし続けている人たちばかりです。

そういう人たちが、ドンドン不幸になっているのです。

だから、いつまでもおかしな宗教にはまっていては不幸になりますよ、といっているのです。この辺りは、それが特に顕著であるからです。

こちらの正しい信仰(正法神理)をしている私たちには不幸どころか、次々に奇跡が起きているのです。

それでも考えを変えようとはしないのですか。特にこの辺りの人たちなどです。

この辺りは、目の前でドンドン人が(車が)いなくなっていっていますからね。怖くはないのでしょうか?実際の話です。(まあ、運転手連中は無理するんでしょうけど、女性や子供たちはどうなんでしょう。〔また、そこらへんがひねくれたのが多いんですが…苦笑〕今のまま考えを変えないのなら自分もいなくならないといけなくなりますが…)

まあ、どれだけいってもおかしな宗教をやめない(考えを変えない)人たちばかりです。

いうだけヤボかもしれませんが、これだけのことがもう普通に起きています。考えを変えないのなら、そういう(いつ不幸が起きてもよいという)覚悟だけはしておいた方がいいでしょう。

死期が近づいてくればどうなるのかは前回、書いておきました。

霊視が出来るようになり始めたら(だから、死んだ人とか、天使や悪魔が見え始めたら)自分の死期が近いということを悟って、この世に思い残すことがないよう、自分の身の回りのことはしておいた方がいいでしょう。

もうこの辺り、そういう人たちがこれからドンドン増えてくると思うからです。(残念ではありますが、この状況ではそう思わざるをえません)

いつあの世に帰ることになってもよいよう準備だけはしっかりしておいてください。そういう潔い考えが少しでもあるなら、死んだ後(地獄に堕ちても)多少は(多少かよ。〔苦笑〕)救われるのが早くなるからです。

(いつまでも、グダグダ責任転嫁しているのが一番いけませんから。もうこれほどのことがこの辺り起きだしたのですから、不幸ばかり起きている人たちは潔く往きましょう。これほどのことが起きだしているのに、それでも考えを変えないのなら、それも仕方がない話だからです。不幸が次々に起きている皆さん、地獄に堕ちても元気でやってください。〔もう本当にそういう状況ですから〕しかし、もし〔もしです〕心を入れ替える人がいるのなら〔私もくどいんですが〕いつでも連絡ください。なんせこちらは次々に奇跡が起きているからです。死ぬ間際のこと、死んだ後のことまでちゃんと教えてくれる。本当に正しい宗教は有難いですね。〔苦笑〕)

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12月 13 2018

天使との対話

今年の漢字は「災」だそうですね。今年は多かったですからね。災害がです。

しかし、最近は毎年、災害が多いんですが、今年は特にということでしょうか?

私的にも「異」ですからね。異常気象や異常現象の異です。(こちらは異常なことばかり起きていますから)なんか、私の場合は毎年こんなような漢字ばかりですが(苦笑)今年は特に災害が多かった記憶はありますね。

なんせ、あの異常猛暑を考えるなら、九月くらいまでは、毎日のように災害が起きていた感じですから。(大雪に地震に西日本豪雨に異常猛暑に台風、今年だけでも数え切れないくらい起きましたから)

災害ばかりでなく、こちらのような現象まで全国的に起きてきたら(日本中で走っている車が減りだしたら)大変なことになるでしょうね。

せめて、このブログを見ている人たちは正しい祈りくらいは知っておいたらどうでしょう。

そうしないともうかなり危ないからです。(これから正法の世が深まっていきますから。神から遠い心の人たちはドンドンやられていきます。こちらがそうですから)

前回、前々回、書いたような正しい祈りを知っているのなら、どんな問題でも解決の道がついてきます。

正しい祈りは、天上界の方々(守護、指導霊)が正しく導いてくださるからです。

例えば、ストーカーなどされて困っている人でも、そのストーカーを正しく祈れば、ストーカーをしている人も、段々、ストーカーをしたくなくなって自然にやらなくなる(または、病気などしてストーカーなどしていられなくなる)ということです。(そのストーカーを憎んだり、怒ったりするのではなく、愛をほしがっている哀れな人だと思って、祝福の祈りをしてあげればいいのです。「あなたも神の子です。神の子として恥じない立派な態度をとってください。神よ、どうぞこの方に光を与えください。安らぎをお与えください。この方が幸せな生活をしていかれますようお導きください」と、その人の幸せを祈ってあげればいいのです。〔もちろん心からそう思って祈らないといけませんが〕)

私も集団ストーカーにあっていますが(苦笑)そのような祈りをストーカーをしてくるすべての人々にしています。(多少、祈り方が違いますが。〔笑〕)すると、そのような人たちに次々に現象が現れ、そういう人もずいぶん減りました。(正しい祈りをされて、内面〔自分の守護、指導霊〕から、そういうことはするなという導きがあるのに、それを無視していると、けがをしたり病気をしたりします。この辺りの人たちは、内面からの導きを無視しているのでしょう。だから、病気になる人が多いのです。守護、指導霊のいうことをきかないからです)

祈れば必ず結果(現象)が現れる。これこそ正しい祈りなのです。

正しい祈りは本当にあの世の天使たちと対話が出来るのです。(高橋先生がいわれるようにです)だから、そのような様々な現象が現れてくるのです。

あの世の天使たちが私たちの祈りをきいて本当に動いてくださるからです。

これこそまさに天使との対話ではないでしょうか。

本当の神の教えを説いている者のところには、本当の光りの天使たちがたくさん集まってきます。(それは釈尊しかり、キリストしかりです。仏典や聖書に書かれてあります。釈尊やキリストの回りにはいろいろな天使がきていたことがです)

だから、様々な現象が現れるのです。その天使たちの力が現れてくるからです。(こちらは天使だけではなく、龍まできていますから)

だから、お寺や神社でしている祈りなどいくらやっても意味がないのです。

間違った祈りでしかないからです。

間違った祈りでは天使などきません。それどころか間違った祈りを一生懸命していれば悪魔や動物霊が寄ってくるのです。

欲望のまま祈るからです。

神を召使のように考え、あれがほしい、これがほしいなどと祈っていたら(欲望まるだしでです)それは、そういう霊たちが集まってきます。

思えば思われるで、そういう(欲望の)思いを強く持つなら、そういう欲望まみれの霊が集まってくるということを知ってください。(欲望の念が欲望を持つものたちを集めるのです)

だから、パワースポットなど行って、そういう欲望の祈りをして気分が軽くなったなどといっている人は、大きな勘違いをしているのです。

そんな祈りしかせずにいれば、そういう霊が寄ってきて、場合によっては、その祈った人に、その霊が(地獄霊かまたは動物霊が)憑いてしまいます。そんな霊に憑かれてしまえば、かえって心が重くなります。

勘違いして(本当は心が重くなっているのに)心が軽くなったと思い込んで、その後、運の悪いことがよく起きるようになってしまったのなら(そういう人たくさんいませんか?)そういうところで、間違った祈りをしておかしなものを憑けてしまったと早く自覚され、そのおかしなものを早く祓うことです。

そうしないともっと悪いことが起きてくるからです。

それでおかしな霊能者にでも頼みに行くとよけいおかしなものが憑いてきます。そういう時にも正しい祈りが大切なのです。自分の心をしっかり正し、そうして、自分の守護、指導霊に頼まれることです。

「守護、指導霊様、もし、自分におかしなものが憑いているようなら、そのものをお祓いください」とです。もちろん、その時に間違った祈りをしたことを反省せねばいけませんが。

正しい祈りを知っているのなら、そういうことがすべて自分自身で出来ます。

だから、正しい祈り(天使との対話)を知っているということは、大事なことなのです。本物の光の天使の力をいつでも借りることが出来るからです。(私などしょっちゅう借りていますから。〔笑〕)

しかし、どちらにしても、その本物の光りの天使の力を借りるには、常に自分の心を正していないといけません。

だから、反省を忘れてはいけないのです。

よく反省するのであれば、自分の間違いは正されていくからです。

いつまでも、同じ(間違った)態度を取り続けている皆さん。どうせ取り続けるなら正しい態度を取り続けてはどうでしょう。

そうすれば、ずっと奇跡が起き続けるからです。

(いま現在は間違った態度を取り続けている人たちばかりです。それではずっと悪いことが起き続けるのも道理でしょう)

追伸…行者の末路は哀れ、といわれるわけもこれでお分かりいただけると思います。

残念ではありますが、あのような(肉体行をする)行者の人たちは正しい祈りをしていないからです。(肉体行をしながら、ああなりたいとか、こうなりたいとか、こうなりますようにとか、欲望の祈りしかしていないからです。だいたい、肉体行がすでに間違っているのですが〔肉体を痛めつけても執着しか生まれませんから〕それプラス祈りの間違いです。これでは本物の光りの天使はきてくれません)

だから、地獄霊に憑かれてしまって哀れな最後をとげるのです。

そのような自分が憑けている地獄霊も、そうして本物の光りの天使たち(守護、指導霊)も、最後には自分自身の目で確認することが出来ます。

死ぬ間際になれば、そのような霊眼が誰でも開けてくるからです。

だから、死ぬ間際の人たちがよく誰もいないところを見ながら、あそこに人が立っているとか、あの人は誰だとか、天使を見たとか、いっていますが、それは嘘をついているのではなく(また、幻覚でもなく)本当に見えているのです。

あの世の霊たちがです。

死ぬ間際になると、あの世のことを知らせるために、霊眼が開けてくるからです。(誰でもそうなるそうです。死んでいきなりあの世の天使たちが現れたら、それをまったく信じていなかった人たちはパニくるからです。だから、そうならないよう、少しずつあの世の天使たちになれさせるため、死ぬ間際になると霊眼が開いてくるのです)

だから、そういう体験を知っている人はたくさんいると思います。(家族に亡くなる人がいたら、そういう体験を見ている人がいるんじゃないですか?死ぬ寸前の爺ちゃん、婆ちゃんがおかしな態度を取ったとかです。〔何か目を見開いて周りを見るとか、驚いたような顔をして一点だけ見つめて、そうして死んで行ったとかです〕それはすべてあの世の天使たちが見えているからそういう態度を取るのです)

そういうことを考えれば、もはやあの世があるなど常識なのです。なければ、そのような(不思議な)ことが起きることもないからです。

だから、今のうちに天使たちとの対話(正しい祈り)はよくしておいた方がいいのです。

間違った祈りなどし続け、死ぬ時に地獄霊に迎えに来られても困るからです。(苦笑)

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12月 11 2018

この教えの偉大さ

本当に皆さん、引きつった顔をした人が多いですね。そうして細かく怒っています。(最近は怒り方が変わってきました)

昨日でも銀行に入ってATMを操作していたら回り中の人に鼻をすすられました。

半分呆れて(あまりにあちこちの人がそんなちんけなことをしてきましたので)さっさとやることやって「皆さん、ずいぶん熱心に私のブログを読んでいるようですね。分かりました。では、心の汚い人たち、滅びても元気で」と捨てゼリフを残して出てきました。

グダグダグダグダ怒っている暇があるなら、これまでの自分たちの行いをさっさと反省し、この教えに帰依すればいいのです。

そうすれば、そんなにビビることもないからです。

もう、歩いていても、そこらじゅうの人がそんな感じです。(まあ、無理もありませんが。この車の少なさを見ればです)だから、そこらじゅうで「いつまでも心を入れ替えようとしない、心の汚い皆さん、滅びても元気で」といいっぱなしでした。

自分たちの深刻な状況をよく理解してほしいからです。(ほんと、そんな態度を取り続けていれば自分たちもじきにいなくなるでしょう。運転手連中のようにです)

もう少し、この教えの凄さ、偉大さを書いておきましょう。そのようにいまだグダグダしている人たちのためにです。

前回のブログで書いた正しい祈りは不思議な奇跡を次々に起こします。

例えば、正しい祈りをするなら、修復不能と思われるような夫婦でも奇跡が起きてよりを戻すということも可能なのです。

最近はすぐに別れる夫婦も増えていますが、せっかく夫婦の縁を持ったのなら(そんなに簡単に夫婦となるわけではないのですから。過去、様々な縁を経て今生夫婦となっているのですから)とことん一緒にいたらどうでしょう。

その方がよほど心の勉強となるからです。

まあ、結婚していない私がそのようなことをいうのもなんですが、一つ、二つ、正法誌から園頭先生が指導された夫婦の体験談を書いておきましょう。

1987年、三月号より抜粋。

<丁度この原稿を書こうとしている時、ある人からの手紙が来た。

女心のあやしさは、女が自分の本心を掴みきれないところにある。もちろん、男もそうであるが、まず手紙を紹介しよう。

「先月はお返事ありがとうございました。

先生よりお返事いただく前に主人と別居生活をはじめました。やはり主人の浮気は許せませんでした。浮気して帰宅して子供を抱いたりすることがとても不潔で、ましてや風呂に入られたりすると、もう風呂をきれいに洗ってからでないと入れませんでした。お茶碗もお箸も、主人のさわったものは全て不潔でどうしようもなかったのです。同じ部屋で寝られるのも嫌、下着は全て焼き捨ててしまいました。それに加えて主人の考え方。結局合意の上で主人が家を出て行きました。出て行って一ヶ月が過ぎようとしております。

私は主人を心から好きでした。だから、よその女性と浮気することは絶対に許せませんでした。なのに別れて住んでも、そうすれば心は晴れて明るくなると思っていたのに、心は一向に明るくなれず、今は主人に対して、どこでどのように生活しているのか、家を借りているのか、洗濯はどうしているのか、ひどく心を痛めています。

結局、私自身がダメになってしまいました。子供を思うと申し訳なくて、この寒空で主人はどうしているのかと思うと心配で、私はどうしたらよいのか、とても苦しい思いをしています。

私にとっては、どんな男性が、どんなにやさしく言葉をかけてくれても、やはり私には主人しかないと思うのです。

でも今さら、お互いに許せないと憎みあって別居してしまった以上、主人は戻ってくれないと思いますし、今まで以上に相手の女性と強く結ばれていると思うと、私はなんと愚かなことをしてしまったのかと後悔してやみません。

私はもう許されない罪を犯してしまいました。救われる道はないのでしょうか。

私は主人のことについて、どう子供に詫びたらいいのでしょうか、途方にくれるばかりです。もう救われる道はないのでしょうか。愚かな私にもう一度お力をお貸しください」

憎しみに変わる愛は本当の愛ではないのであるが、そのことが分かるためにはいろいろな経験をしなければならない。最初から愛し合うことを約束した夫婦であってすらも、お互いが本当に分かり合うということはいろいろと時間のかかることである。

別れた後でそうではなかったと気がついて、また一緒になったという夫婦は幸せであるが、そうだったと気づいてももはや一緒にもなれず、愛し合いながらも別々に別れて暮らさなければならないということは悲しいことである。

そうした悲しみを経験しないために、だからこそ賢明な妻は、男が浮気をするのは、妻を愛しているからだということもあるということを知らなければならないのである。男が妻に求めているものがある。それを妻が満たしてくれない時、男はつい他の女性にそれを求める。その女というのは、妻とはまるっきり反対の性格を持った女性である場合が多い。

自分の心も分かってもらえず、妻に出て行けといわれて、下着も全部焼き捨てられた夫は、表面では強がりをいっても心の中では自分の出来心を反省しつつ、心の中では泣いて家を出て行ったことであろう。

こういう時、妻が大きな心で自分を赦してくれたとしたら、その夫はどんなにか感激して変わらぬ愛を誓うことであろうか。

だから、妻は母となることによって成長し人格が完成されていくのである。

新聞や雑誌の人生相談欄には、夫が浮気した場合はすべて夫の不貞をなじって、そんな男とは別れなさいという答えばかりが書いてあったが、本当に別れてしまった妻たちは、それで本当に幸せになったのであろうか。私はそれをきいてみたい。

正法会ではこういう時、どう指導するのか。人間は霊的存在である。人にはそれぞれ守護霊や指導霊がいる。

こういう時、次のような順序で祈るのである。

一、夫のニコニコしたやさしい顔を心の中にしっかり思い浮かべる。あるいは、その夫が、自分の眼前に座っているように思い浮かべてもよい。

二、その夫に対して心の中で、また、少し小さな声を出していえばなおよい。

「あなたは神の子です。私も神の子です。あの時はあのようにいいましたが、しかし、私は心からあなたを愛しているということがよく分かりました。

わたくしのためにも、子供のためにも、あなたは大事な方であるということが、今よく分かりました。すみませんでした。どうぞ早く家にお帰りください」と祈る。

三、次に、夫の相手の女性の人を想念して、次のように祈る。

「私があなたを怨んだことをお許しください。本当は私の愛が夫の心を満たしておりましたら、あなたとの関係も出来なかったのでありました。本当は私が仕えなければならないところを、あなたが満たしてやってくださいましてありがとうございます。同じ女性の立場として、今のままではあなた自身も、こういう関係はよくないと考えていられると思います。

私も夫と別れてみてはじめて、私がどんなに夫を愛しているかよく分かりました。

あなたもどうぞ心から幸せになってくださることをお祈りいたします」

その女性が本当に幸せになっている状態を心の中にしっかりと想念する。

お互いに、夫もその女性も、そうなったことをそれでよいと思っているわけではない。

どちらもうしろめたい心を持っているのである。こういう関係をこのまま続けていても、どっちも幸せになれないということは、それぞれ二人がよく知っているのである。そういうことを感じていても、どちらもそれを表面に出さないだけのことである。

そういう祈りをすると、それぞれの守護霊、指導霊が心の内面から働きかけて、二人の間に気まずくなるような状態をつくり出してしまって、やはりこのままではいけないと思うのである。

そういう祈りをしておいて、

四、夫に直接、または人を介して、帰ってきてもらうように伝える。

五、夫を赦して、また、自分も十分に反省しているのであるから、大きな母の心で夫を受け入れるのである。

私がこういう問題にはじめてぶつかったのは昭和二十九年、まだ鹿児島にいる時だった。その人は鹿児島市の次に大きな市で、タクシー会社と自動車学校を経営して成功されたのであるが、その夫婦は上海で恋愛結婚をして引き上げてこられたのであった。

終戦後の日本内地には、まともな自動車は全くなかった。その人は上海でタクシーをやっていられたのであるが、鹿児島、宮崎、熊本、大分の四県を股にかけて、例えば大分は大分で、使えなくなった自動車を買い集めてはそれをばらしていい部品だけを取り、それを組み立てて走れるようにして売るという仕事をしていられた。

だから、大分なら大分にいかれるとそこに一ヶ月も二ヶ月もいて組み立てる。そうなると、そこで世話してくれる女性が出来て、大分に一人、熊本に一人、宮崎に一人、鹿児島に一人と、四人の女性が出来て、それに子供が六人生まれた。その本妻の人には子供がなかった。生活費もろくろくもらえなかった。

私はその頃、鹿児島本線沿いの湯之元という温泉のある町にいて、その本妻の人は私の家まで訪ねて来られた。

私は、相手を神の子として祈る時、その祈りは必ず相手の魂に通ずることを知っていたので、その四人の女性を怨んではならないこと、その四人の女性が本当に幸福になることを祈ること、そうして、夫に対しては、自分が妻として足りなかった点を心の中で反省して詫びること。夫が帰ってきた時にいつもと変わらぬ顔で笑顔で迎えることを話した。

それから一ヶ月位して、その四人の女性たちは「私は○○の世話になるのはいやになりました」とか「妹が大阪にいますので大阪に行きます」などと、わざわざその本妻の人に告げて別れていかれた。

無理に別れさせようとすると、それぞれ子供もいた間柄であるから手切れ金を要求されてもしかたのないところであったが、それぞれ魂の要求に従って自発的に別れて行くということになって手切れ金は一銭もいらなかった。

そうしてその夫は完全に奥さんの元へ帰ってきた。そうなってある時、その奥さんが来られた。

「うちの主人は上海でタクシーをやっていましたし、動ける車が一台あります。あの町にはまだタクシー屋がないので主人にタクシーを始めてもらいたいと思いますが」といわれるので「ああ、それが一番よいです」といってタクシー屋を始められた。戦後の復興とともに段々大きくなって、昭和三十五年、私が鹿児島を離れる頃には車が三十台いる大きなタクシー会社に成長し、その後、自動車学校もつくられたのであった。

神の子の実相を見つめてする相手への祈りは、必ず通ずるものであることを教えてくれたのは私の妻であったが、そのことはいつかまた書くことにする。

夫婦というものは、いろいろな試行錯誤の中から調和を見出して魂を向上させて行かなければならないものである>

園頭先生は、女性は母となって完成するとよくいわれていました。

妻が(妻という立場だけでなく)夫の母となって夫を成長させるなら、夫はさらによくなっていくでしょう。(だから、妻が母となって夫を教育できるなら、どんな粗暴な男も〔いま問題になっているすぐに煽り運転などするような男でもです〕またどんな甘えているような男でもしっかり教育できるということです。母なら自分の子供をどのようにも教育できるからです)

夫婦というものは(キリストがいわれたように)一体なのであり、同じように成長していかないといけないものであり、一方だけが悪いというものではないのです。

自分も悪いところが必ずあるのであり(だから自分たちに悪いことが起きるのです)そういう自分の悪かったところを反省し、そうして神に(すべての人は神の子であるという神の実相を)祈るなら、必ず奇跡は起きるのです。

そのように(正しく、ちゃんと奇跡が起きる方法を)教えているのは、この教え(正法神理)だけなのです。

この教えの偉大さを少しは理解いただけるでしょうか。

追伸…改正水道法が成立したものですから、うちの河村市長が水道の民営化を検討するとか何とかいいだしましたね。(昨日ニュースでそんなことをいっていました)

おまけに、カジノを、三重県のナガシマリゾートの辺りにつくりたいとか勝手なことをいっているようですし(なんで他県のことを名古屋市の市長が勝手に決めているんでしょう?)ほんと、勘弁してほしいものです。

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12月 09 2018

正しい祈り、奇跡の起こし方

改正入管法、改正水道法、そうして改正漁業法などなど続々とおかしな法案が成立していますが、そのような日本の行く末も心配なんですが、とりあえず名古屋の行く末が心配です。

最近は顔を引きつらせて怒っている人が、相当、多いからです。

歩いていると顔色が悪い人をよく見かけますし、皆さんおかしな病気になっているのではないかと心配なんですが、これだけ車が減ってくると平常心ではいられないというのが本心なんでしょう。(そりゃそうなんでしょうが)

しかし、これほどの現象を私一人のせいにしますかね。よく考えてみてください。

これだけ走る車が減っているということは、皆それこそ病気か何かになっているんですよね。しかも軽い病気などではなく、相当重い病気か、または、最悪、死んでいる、ということも想像できるはずです。

軽い病気か何かで、一時いないだけなら、これだけ車が減ることはないはずだからです。

しかし、ここまで走っている車が減っているということは(昨日もガラガラでした)例えば減り方が激しいトラックなど、そのトラックの運転手が重い病気か、あるいは死ぬ人まで出てきているから、ここまでトラックが減っていると思うからです。

仕事がなくて減っているわけではないんでしょう。(どこも忙しそうですし)それか最近、トラックの運転手連中が大量にやめたとか、そういう理由も考えにくいですし、では、重い病気か何かになって(大けがかもしれませんが)それでトラックに乗れなくなった人が大量に出ていると考えた方が当たっているのではないでしょうか。

軽い病気か何かなら(たいした理由でないのなら)これだけ急激にトラックが減るなどということもないと思うからです。

これだけ車が減って、増えてこない(前のようにならない)のは、何か相当な理由がなければならないと思うからです。(トラックの皆さん、いま起きていることの本当の恐ろしさを正しく理解していますか?相当やばいはずなんですが…よく私にまだブシュブシュやってますね。自分の身は大丈夫なんですか。〔汗〕)

いつまでも現実を見ようとせずにいてよいのですか。これほどの現象が実際に現れているにもかかわらずです。

多くの人たちが次々に重い病気になり死んでいるのかもしれないのです。本当に滅ぼされつつあるのです。この辺りの人たちなど特にです。

それでも本当の神の教えを無視するのですか?

これほどの現象を私一人のせいにし続け、自分たちの行いを正そうとはしないのでしょうか?この辺りで、このブログを見ている人たちはです。(この辺りだけではなく、他も同じであると思いますよ。こちらではこれほどの現象まで起きてきているのです。もう何が〔どんな悪いことが〕どこに起きても不思議ではないからです)

この本当の神の教えを理解しないともう本当に危ないのです。いい加減それを理解されたらどうでしょう。自分たちの無理解な態度が(神に対してです)どれだけ危ない現象を現されているのかということをです。

そのような災いばかりが起きてい人たちの中にいても、私には次々に奇跡が起きています。

なぜ、私には奇跡が起きるのか?

もう少し奇跡も起きないと、これだけ災いが多くては本当に日本が滅ぼされてしまいます。ですから、その奇跡の起こし方を、園頭先生が書かれている正法誌の中から抜粋しておきましょう。

1987年一月号より抜粋

<高橋信次先生のことば

祈りについて

問 祈りについて……。その必要性はありますか。どのような効果があるのでしょうか。

答 あの世、実在界(天上界)では、祈りという想念はありません。なぜないかといえば、行為が祈りとなっているからです。いうなれば、現実の生活と理想とが一つにとけ合っているからです。調和されています。

ところが、人間が肉体を持ち、地上の生活をする段になりますと、現実と理想のくいちがいが、毎日の生活の場において出て参ります。このために、肉体を持った人間は、どうしても祈らずにはいられぬように出来ております。一つには、地上の人間は10%の意識で生活し、天上界は90%の意識で毎日を送るための違いといってもいいわけです。一寸先がヤミですから、祈る心のわくのも当然であります。

さて、そこで、ではその必要性があるのかどうかです。これは大いにあります。

祈る自分は10%の意識です。祈られる相手は、自分を守り続けている守護霊であり、指導霊であります。

想えば、想われるで、守護、指導霊にたいして、絶えず、心を向けていれば、守護・指導霊は守りやすく、指導しやすくなります。守りやすく指導しやすくなれば、その人の毎日の生活は、安心と喜びに満ちてきます。当然の帰結です。したがいまして、10%の意識で生活する地上の人間にとって、祈りは、欠くことのできない生活の重要な行事の一つとなります。

次に祈りの効果です。これは重要です。

祈りの本質は、10%の表面意識が、守護・指導霊の住む己の90%の潜在意識に投げかける光りの橋です。守護・指導霊は、常に10%の意識で修行する現象界の人間にたいして、道を外さぬように見守り、指導していますので、10%の意識が思いを向ければ、祈れば、いつでも手をかし(光りのかけ橋)てくれるからです。

ただ問題は、その祈りが、自己保存のためか、調和のためかによって、大きな差が出て参ります。普通は、誰しも、病気や家庭不和、事業不振が出てこないと祈る気持ちはわいてこないようです。ですから、最初はそれも仕方がありません。しかし、本当の祈りというものは、現実的な幸、不幸ではなく、現在、生かされているそれ自体に感謝することであり、その感謝の想いで、日々の生活を行じることが大切です。

人間は、生かされ、生きていくものです。だが、調和の心で生きていく、という自覚が出た時は、感謝の気持ちが報恩の行為となってきます。いうなれば10%の意識と90%の意識が同通したことを意味します。その時こそ、人は、真の安らぎを得、環境も、健康も整い、天命のままに生きることになります。

天命に生きるということは、自分が地上に生まれてきた目的、使命が分かり、それに向かって生き続けることをいうのであります。

私たちの祈りも、ここまで高めたいものです。

解 説

正法は自力だから祈ってはならないと考えている人がある。

自力だからこそ、祈らなければならないのである。

キリストは「求めよ、さらば 開かれん」「求めよ さらば 与えられん」といわれた。

正しい祈りと、そうでない祈りと、どこが違うかというと、その「求める」心、姿勢が違うのである。

この世とあの世は相互に連係されている。人間は生まれてくる時に、すでに指導霊、守護霊があって、指導霊、守護霊は、求めによって指導しなければならないことに仕組まれているのである。しかし、生きている本人が求めてもいないのに、また、求めていても、その求めていることが、本人の魂の向上にならないと思う場合は、絶対にその祈りは実現しないのである。

求めてもいないのに、一方的に与えることはその人の自由を妨げることになる。それは丁度、腹も減っていないのに、ご飯を食べろと無理矢理に口に押し込むようなものである。

「求める」ということは自力である。赤ちゃんは泣くことによって母親に訴える。泣くとおっぱいがほしいのだなと分かって、おっぱいを与えることになる。泣いて訴えないと母親はおっぱいがほしいのかどうか全く分からない。赤ちゃんは切実におっぱいがほしくなって泣くのである。その「泣く」のは自力である。「祈る」のは自力である。するとお母さんはおっぱいを与える。それは他力である。

だから「自力の極に他力がある」のである。その人が祈って求めると、その祈りが実現することがその人の魂の向上になる場合は、守護霊、指導霊があの世(天上界)から協力してくれて実現するのである。

だから「人間釈迦」第一巻一一九頁にも、次のように書かれているのである。

「正しき生活行為、つまり調和に向かって努めている時には、その願いごと、祈りはたいてい叶えられる。正しき「祈り」は、次元のちがったあの世の天使の心を動かし、その願いを叶えてくれるからだ。

この意味から「祈り」は天使との対話であるといえる。奇跡は、こうした「祈り」によって起こるものである」と。

ここで注目すべきことは、

「つまり調和に向かって努めている時には」と書かれてあることである。

調和に向かってであるから、まだ完全な調和になっていなくてもよいのである。調和に向かって努力していればよいのである。夫婦が調和しようと思う切実な心があって、一生懸命に努力しているが、まだ時々ケンカしていてもよいのである。

クヨクヨ、イライラしていてもいいのである。なにも完全に調和しきらなければ祈ってはならないということはないのである。

泣きながら、悔しいと思っていても祈ればよいのである。

調和に向かって努力する心もなく、ただ欲望だけで祈ることはいけないのである。他力本願がいけないというのは、自分は何の努力もせずにいて、また、切実に必要でもないのに欲望だけで、まるで神仏を、自分の欲望を満たしてくれる下男か下女みたいに思って、あれこれと祈って、祈りをきいてくれるのが神仏の勤めだと思うような心がけがいけないのである。

私の人生は祈りの連続である。もうこれ以上は自分の力ではどうにもならないと思う時ほど真剣に祈った。その祈りの時の心得が、キリストが祈りのはじめにいわれた。

「み心ならば……」ということである。

「その祈りが実現することが、すべての人の幸せにつながることでありましたら、どうぞこの祈りを実現せしめてください。

もし、それが実現することが、ふさわしくないのでありましたら、祈りは実現しなくてもよろしゅうございます」

という心が大事である。それを「全托」というのである。

他力信仰の教団が説いているような、自分は何の努力もしないで、ただ自分勝手な欲望で祈ってあとはお任せするというのは本当の全托ではないのである。

正法は自力だというので、祈ることは何か悪いことのように思って祈らない人があるようである。

正法だからこそ、切実に祈らなければならないのである。

(中  略)

祈ることによって奇跡は起こるのであって、祈りのないところには奇跡も起こらないのである

少しはお分かりいただけるでしょうか。なぜ、私に奇跡が起きるのかということがです。

それは正しい(自分の欲望だけではない)祈りをよくしているからです。

高橋先生は、祈りはあの世の天使との対話であるといわれました。

だから、祈りをよくしているということは、あの世の天使(守護、指導霊)と対話をよくしているということであり、あの世の天使と対話すればするだけ(祈れば祈るだけ)あの世の天使たちはその祈ってくる人を守りやすく、指導しやすくなるということですので、だから、私にはよく奇跡が起きるのです。

園頭先生の人生も祈りの連続であるといわれているのです。そういう人に奇跡は起きてきます。

もう自分ではどうにもならないことが次々に起きだしているのです。こういう時に祈らないで、では、いつ祈るのでしょう。

今ほど正しい祈りが大切な時はないのです。(あの世の光りの天使との対話が大切な時はないのです)

まだ、調和されていないとか、クヨクヨ、ムカムカ、していてもいいのです。正しい方向に向かい(それは調和する方向であり、ケンカする方向ではありません)正しい祈りをされるならです。

その心に(正しい方向に向かっているという)あの世の光りの天使たちは報いてくださるからです。

そのような祈りもしないで、ただ責任転嫁しているだけ、それでは救われようがないのです。

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