1月 31 2013
唯物無神論と唯心有神論の違い
もう少し多くの人が、心の部分を深く考えていただければ、私のやっていることも、もう少し理解してくれた人も多いと思うのですが、いかんせん唯物無神論の時代が長かったせいで、心の部分がおろそかになり、その心自体よく分かっていない人が多いようですので、唯物無神論と唯心有神論の違いを少し書いておきましょう。
唯物無神論は人の心のことまで考えていません。とにかく、人間は死んだら終わりなんだから、今がよければそれでいい、人生など長いようで短いのだから、物金力があって自分が好きなように過ごした者が勝ち、それなら自分のために苦労はしても、人のために苦労することは損だし、厳しい環境より甘い環境の方が楽でいいし、自分の腹の中はどうでも、表面上だけあわせてやりすごせばそれでいい、という考えなのです。
そのような唯物無神論のところに持ってきて、自由平等という思想まで入っています。自分さえよければいい、という考えがより強くなるということです。
これを唯心有神論に変え、自由平等を愛と調和に変えるとどうなるでしょうか?
唯心有神論では、人はこの世限りではありません。人は永遠不滅であり、輪廻転生(生まれ変わり)していろいろな国に生まれ、そこで心の勉強をしていくのである。従って、また、この永い輪廻転生の間で、どこでどのような人と、どのような縁に巡り合うのか分からないので、今、自分のことだけ考えるのではなく、周りの人たちのことも考え、共に成長していこう。自分だけでなく、周りの人も成長してくださることが(永い輪廻転生の間には、また、そのような人たちと縁を持ち、勉強することになるかもしれないのですから)先々の自分も幸せにすることでもあるのだし、自分だけでなく周りの人の成長もあって自分も成長するのである。自分だけがよくなるのではなくて、周りの人ともどもによくならなければ意味がない、と考え、今だけ、自分だけという短絡的な考えはなくなります。
それに神を信じているわけですから、いつも神に観られているので、恥ずかしい行いはできないし、どれだけ苦しい立場になっても、最後には神が助けてくださるのだから、神を信じて生きていけばいいということになります。(つまり頼れる存在が常にあるのです)
それに愛と調和ということを主に考えますので、相手のことを思いやり、相手と張り合うのではなく、相手の足らないところを自分が足してやろうという気が出てきます。(当然ですよね、自由平等と逆の考えなんですから。自由とは相手のことを考えない〔自分を主にして自分の好きにやりたい〕ということであり、平等とは相手と張り合うということですもんね)つまり、適材適所、自分の役割を自分で悟って果たすということになりますので、当然調和して自分の力も発揮できるということになります。
そのような考えになれば、少々苦労しても、相手が喜ぶのであればそれも嬉しいし(愛がありますので)自分もそうすることで成長していけるのですから、それもまた嬉しい。今だけではない、この先も人としての修行がずっと続くのであれば、甘えたことばかりいっては損だ、少々(自分のため人のためとわず)苦労しても、自分が成長できるならその方がよほど得だと、唯物無神論、自由平等論者とは、まったく逆の考えになるのです。
現在の人たちは、まだまだ唯物無神論・自由平等論者の人の方が多いのですが、どうですか、皆さん、どちらが人として幸せだと思いますか?どちらが人として成長していけると思われますか?
私はどう考えても、唯心有神論の方が人として幸せであると思うし、成長していけると思いますが、このブログを読んでる方々はどのように思われるでしょうか?
ここに書いたのは、唯心有神論の一部分にしか過ぎません。(それでも唯物無神論とはかなり違います)
法は、この唯心有神論を説くのです。(それに当然、愛と調和を説きます。釈尊、キリストの教えを知っていただければそれは分かります)
唯物無神論のような、自分さえよければいい、死んでしまえばそれでお終い、本当の頼るべきもの(神)がない、こんな狭く小さく短絡的な考えなど間違いなのです。
本当に正しい考えとは唯心有神論なのです。唯心有神論こそ正しい教えなのです。
いつまでも唯物無神論など信じていれば、人としての本当の幸せなど分からないし、人としての成長もないのです。
私たちが本当に信じなければならないのは“唯心有神論”なのです。