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2013年1月

1月 31 2013

唯物無神論と唯心有神論の違い

もう少し多くの人が、心の部分を深く考えていただければ、私のやっていることも、もう少し理解してくれた人も多いと思うのですが、いかんせん唯物無神論の時代が長かったせいで、心の部分がおろそかになり、その心自体よく分かっていない人が多いようですので、唯物無神論と唯心有神論の違いを少し書いておきましょう。

唯物無神論は人の心のことまで考えていません。とにかく、人間は死んだら終わりなんだから、今がよければそれでいい、人生など長いようで短いのだから、物金力があって自分が好きなように過ごした者が勝ち、それなら自分のために苦労はしても、人のために苦労することは損だし、厳しい環境より甘い環境の方が楽でいいし、自分の腹の中はどうでも、表面上だけあわせてやりすごせばそれでいい、という考えなのです。

そのような唯物無神論のところに持ってきて、自由平等という思想まで入っています。自分さえよければいい、という考えがより強くなるということです。

これを唯心有神論に変え、自由平等を愛と調和に変えるとどうなるでしょうか?

唯心有神論では、人はこの世限りではありません。人は永遠不滅であり、輪廻転生(生まれ変わり)していろいろな国に生まれ、そこで心の勉強をしていくのである。従って、また、この永い輪廻転生の間で、どこでどのような人と、どのような縁に巡り合うのか分からないので、今、自分のことだけ考えるのではなく、周りの人たちのことも考え、共に成長していこう。自分だけでなく、周りの人も成長してくださることが(永い輪廻転生の間には、また、そのような人たちと縁を持ち、勉強することになるかもしれないのですから)先々の自分も幸せにすることでもあるのだし、自分だけでなく周りの人の成長もあって自分も成長するのである。自分だけがよくなるのではなくて、周りの人ともどもによくならなければ意味がない、と考え、今だけ、自分だけという短絡的な考えはなくなります。

それに神を信じているわけですから、いつも神に観られているので、恥ずかしい行いはできないし、どれだけ苦しい立場になっても、最後には神が助けてくださるのだから、神を信じて生きていけばいいということになります。(つまり頼れる存在が常にあるのです)

それに愛と調和ということを主に考えますので、相手のことを思いやり、相手と張り合うのではなく、相手の足らないところを自分が足してやろうという気が出てきます。(当然ですよね、自由平等と逆の考えなんですから。自由とは相手のことを考えない〔自分を主にして自分の好きにやりたい〕ということであり、平等とは相手と張り合うということですもんね)つまり、適材適所、自分の役割を自分で悟って果たすということになりますので、当然調和して自分の力も発揮できるということになります。

そのような考えになれば、少々苦労しても、相手が喜ぶのであればそれも嬉しいし(愛がありますので)自分もそうすることで成長していけるのですから、それもまた嬉しい。今だけではない、この先も人としての修行がずっと続くのであれば、甘えたことばかりいっては損だ、少々(自分のため人のためとわず)苦労しても、自分が成長できるならその方がよほど得だと、唯物無神論、自由平等論者とは、まったく逆の考えになるのです。

現在の人たちは、まだまだ唯物無神論・自由平等論者の人の方が多いのですが、どうですか、皆さん、どちらが人として幸せだと思いますか?どちらが人として成長していけると思われますか?

私はどう考えても、唯心有神論の方が人として幸せであると思うし、成長していけると思いますが、このブログを読んでる方々はどのように思われるでしょうか?

ここに書いたのは、唯心有神論の一部分にしか過ぎません。(それでも唯物無神論とはかなり違います)

法は、この唯心有神論を説くのです。(それに当然、愛と調和を説きます。釈尊、キリストの教えを知っていただければそれは分かります)

唯物無神論のような、自分さえよければいい、死んでしまえばそれでお終い、本当の頼るべきもの(神)がない、こんな狭く小さく短絡的な考えなど間違いなのです。

本当に正しい考えとは唯心有神論なのです。唯心有神論こそ正しい教えなのです。

いつまでも唯物無神論など信じていれば、人としての本当の幸せなど分からないし、人としての成長もないのです。

私たちが本当に信じなければならないのは“唯心有神論”なのです。

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1月 30 2013

起きる現象の本当の意味

しかし、驚きましたね、私がやっていたことを法を理解している人以外の人が、あまりよく理解していなかったという事実は。

分からなきゃいえよ(笑)と思うんですが、メールくれる人も、法が分かった人しかくれなかったものですから(法をまったく勘違いしている、どこかのオジちゃんやオバちゃんも含めてですけど)このブログを読んでるほとんどの人が、私がやっていることの意味がよく分かっていないとは思いませんでした。

ということは、私に嫌がらせしている人、ねたみやひがみからしている人もいますが、その大半は、私が悪いことをしていると思ってやっているんですね。それで私も何でこんな恐ろしいこと平気でしているんだろう?という疑問が解けました。

嫌がらせしている人にいっておきますが、その考えまったく違っています。逆なのです。私ほど世の人々にとってよいことをしている者はいないのです。だから私にちょっかいをかけると恐ろしいことが起きるのです。

結局、私が悪いことをしていると思い込んでいる人たちは、人のよくない噂や(いってはいけませんが、人のやることの悪口しかいわない人たくさんいますから)その現象だけを見てそう思っているに過ぎず、起きている現象の本当の意味を知らないのです。

私が行っていることの意味を、理解している人がほとんどいないと分かった現在、それでは困りますので、その本当の意味を詳しくこれから説明します。(本当はこういうこと書きたくないんですが、やってることの意味が分かっている人が少なければ仕方ありません。少々手前味噌になりますがそこはご容赦ください)

まず、考えていただかねばいけないのは、なぜ今こんなことが起きているのか?ということです。

それはおまえのせい、と思ってしまうと、そこで考えが止まってしまうのですが、仮にそれが私のせいだとしましょう。

ということは、私はそのようなことを起こせる能力(地震を起こしたり、大雨を降らせたり、または人を病気にさせたりという能力)があるということを、皆さん認めているということになりますが、そこはそれでよろしいですね。

そのように考える人が多いのであれば、一年前の皆さんと今の皆さんでは、今の皆さん、考えが大いに進歩しているということになりますが、それはお分かりになっているのでしょうか?

分かっている人ほとんどいないと思います。そこを理解していただけないから私のやっていることが悪く見えるのです。

一年前までの皆さんは(仮に一年と年数を区切ったに過ぎません、私を知る前の皆さんは、という意味です)この世のこと以外は考えられなかったのです。それが私を知ったことにより、多くの皆さんがこの世のこと以外のことも考えるようになり、神やあの世の存在も信じるようになったのです。

そうではありませんか?それとも、こういう異常なことを次々に起こす悪魔のような男が、この世だけの中で、そのようなことを次々に起こしていると思われますか?では、今起きている私のせいといっている、多くの異常現象を科学的に分析して皆に分かるように説明してください。そんなことができる人一人もいないと思います。

では、神を認めざるをえないし(要は神の力を認めざるをえないでしょう、といっているのです。それとも私の個人的な能力だけでこんなことできると思いますか?一人の人間の力だけであれもこれもやれるわけありません)少なくともこの世はこの世だけでなく、他の世界(異次元の世界)もあるのではないかと認めざるをえないはずです。(今起きていること、この世だけで説明がつかないんですからね)

私を知る前の皆さんはこの世がすべてという“唯物無神論”の人が大半でした。それが私を知ることにより“唯心有神論”の人が大半になったのです。

そうではないでしょうか?

もしそうだとしたら、皆さんは認めたくはないでしょうが、多くの皆さんの心を成長させたのは私だし(そのような現象により、神の存在やこの世以外の世界まで分かったんですから、大きな成長でしょう)これは近来にない偉業をなしたといわざるをえないのです。このようなことは、これまでの日本で(あるいは世界で)まったく分からなかったことだったからです。

そうではないですか、神の存在を認めていない日本はもちろんですが、アメリカやヨーロッパなど他国でも(神の存在を認めている国でもという意味です)神の存在やあの世の存在は具体的には分からなかったのです。(聖書にせよ、過去から伝わる神話にしても、そのような書物から想像するしかなかったんですからね、神や仏やあの世の存在は。科学的にまだ分かっていませんから)

つまり、他のどの国の人々もそのようなことは、抽象的にしか分からなかったのです。

ところが現在の日本で、多くの人の目の前で起きている現象を見て、神や仏の存在が具体的に想像でき、信じられる人も出てきているのではないですか?これは他国では考えられないことなのです。

私が祈ります、と堂々と宣言し、多くの人の目の前で地震が起き、大雨が降り、巨大な台風まで来たのです。そればかりではありません。私はあのタイの大洪水を引かせるとこのブログに宣言し、そのとおりタイの洪水が引いたのです。これどういう意味があるかお分かりですか?こんなことできる人世界でいません。つまり神の御業(それはすなわち神のお力)を目の前で起こして、神の存在を世に知らしめのたです。

そのような存在を知るのであれば、神の存在は当然信じるとして、仏の存在もあの世の存在も信じていなくても信じざるをえないのではないでしょうか。

つまり、私は、これまで抽象的にしか分からなかった、神や仏の存在を、世界で初めて具体的に知らしめた者である、ということです。

これって偉業ではないですか?

世界のどの国でも、こんなこと起こした人いないのです。そればかりか、日本のような何十年も唯物無神論だった国を、コロリと唯心有神論にかえてしまったのです。この事実は悪いことと考えるより、偉業と考える方が正しいのではないでしょうか。

悪いことも起きているだろうという人もありますが、不幸になった人たちは、そのような現象が起きたことにより、多くの人が神を信じるようになりあの世の存在も理解したのです。そのような人たちは神の存在、あの世の存在を多くの人に知らせるため、身を犠牲にして神に命に従ったと思われないでしょうか?

これは都合のいい考え方ではありません。過去から、そのような存在はあり(神に身をささげる人たち)それもまた、その人たちの心の成長につながるのです。この世の起きた現象だけにとらわれていては、いつまでたっても真の意味は分からないのです。

私に嫌がらせをした人に恐ろしいことが起きるのは、私が人がやっていない偉業をしているからそうなるのであって、そういうことをしていなければ、そんな恐ろしいことが、即座に起きるなど考えられないでしょう。歴史を見てもそれは分かります。キリストや釈尊に、嫌がらせしただけで恐ろしいことが起きたことなどないのです。(殺そうとしたユダやダイバーダッタは別ですけどね)

私を殺そうとまでした人に恐ろしいことが起きたわけではないのです。嫌がらせをしただけで、恐ろしいことが起きた人がいるのです。これは何を意味しているのか?

それだけ私が偉大なことをした、ということです。それを神が認め、天が認めているのです。だから、そのような現象が起きるのです。そうではないという人たちに、一体どんな現象が起きるというのでしょうか?

起きた現象の本当の意味を知る、ということは大事なことなのです。(自分が思っていることと、起きている現象は逆の意味があるかもしれないからです)

今起きている現象の本当の意味を知ってください。

(少々の手前味噌どころの話ではなかったですかね。〔汗〕だから私、本当の意味をちゃんと書くのいやだったんですよ、こんなこと書いても誤解する人が多いですからね。しかし、本当の意味が分かっている人が少ないのなら、書かざるをえません。あまり自分で自分のことをよく書きたくはありませんが、事実は事実としてこれからはしっかり書いていこうと思います…そうしないと神の心が伝わりませんから)

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1月 29 2013

法を知っている者と知らない者の差

まだ誰もご協力いただけませんが、その意味が昨日初めて分かりました。そうして、その意味が分かった時、なぜ天が『法を説いてはいけない』といったのか、その意味も分かりました。

昨日までの私は、この法の正しさは多くの人が理解してくれたはずだし(ブログを読む人がどんどん増えていますので)それに、この法がどれだけ偉大かも次々に起きる奇跡により分かるはずだ、これだけ多くの人が、私のことを知るようになったのもその証拠である、それなのになぜ嫌がらせする人はいても、協力してくれる人はいないのだろうと、不思議でなりませんでした。

それは今始まったことではなく、ずっと前からの疑問であったのです。

本物の神の教えと分かったのなら、勉強するのが当然であって、協力するのが当然であると私は思うのですが、このブログを見ている人の多くは、それをやろうとしないのです。ただ、私のブログを読んでいるだけなのです。それがどう考えても不思議で、そのような考えがまったく理解できなかったのです。

では、興味本位で読んでいるだけの人が多いのかといえば、それもまた疑問で、興味本位ならなぜ毎日、このブログを読む人がこんなに多いのだろう(それは周りの人の反応で分かりました。それに若い子たちのブログを読んでも、私のブログを毎日読んでいるのではないか、と思える子がたくさんいたのです)興味本位でないなら、なぜもっと積極的に勉強しないのだろう、それに私の周りの人たちも、私にこれだけ現象が起きているのに、なぜ嫌がらせするのだろう(ねたみやひがみのはんちゅうを超えてますよね、祈って地震や大雨を降らせる者にそんなことしたら、最悪死ぬかもしれないと思わないのでしょうか?私なら余計なことしませんが…)また、そのような人たちが出てくるのは仕方がないことかもしれないが、これだけ多くの人が私のことを知ったにもかかわず、なぜ協力してくれる人が誰もいないのだろう、と疑問だらけだったのです。

いろいろな心の段階の人がいるので、嫌がらせする人がいるのは仕方がないかもしれませんが、解せないのは協力者も皆無であるということです。なぜ、協力する人が誰もいないんだ?それが不思議でなりませんでした。先ほどもいったように、いろいろな心の段階の人がいるのです。心の低い人はともかく、何で心の高い人も協力してくれないのだろう、私のブログを読んでる人は心の低い人ばかりなのか?

そのようにも思いましたが、しかし、心の低い人ばかりがこのブログを読む(それはすなわち法に縁を持つ)というのもまた解せない話です。

何か足りないことがあるのであろうか、法の偉大性がこの人たち分からないんだろうか、と考えていた時です。フッとあることに気づきました。

それが何気なく考えていた「法の偉大性」ということです。

私が協力をこのブログで呼びかけて、誰もそれに反応しなかったのかといえばそうではありません。数人の方ではありますが、寄付してくれた人もありますし、賛助会員になってくれた人もいます。しかし、この私に協力してくださった方は、すべて法をご存知の方ばかりでした。(園頭先生の弟子であったとか、自分で高橋先生や園頭先生の本を読み、法を理解していられる方ばかりだったのです)ということは、高橋先生や園頭先生の起こされた奇跡や説かれた法のことも、よくご存知の方ばかりということになります。(ということは法の偉大性もよく分かっていられる、ということになります)

ところが、現在私のブログを読んでいる人の大半は法を知らないのです。ということは、高橋先生や園頭先生の本を読んだこともなければ、その起こされた奇跡や法の大事さも知らない人がほとんどなのです。(ということは法の偉大性も分からない、ということになります)

原因はそこにあったのです。

つまり、私に協力してくれた人は、法の偉大性も、その法を説く人の大事さも、すでによく分かっている人たちなのです。(だからすぐに協力してくださったのです)それに反し、私がいくら呼びかけても動こうとされない方たちは、どの人もあまり(というか中には全然)法を知らない人ばかりなのです。

それでは、私がいくらここで呼びかけても動かないはずです。法を知らない人たちは、法の偉大さがまるで分からないからです。法の偉大さが分かっていないので、私が何をいおうとまたどんな現象を起こそうと、もうひとつ深く理解できないのです。

そのような人たちは、高橋先生のことも知らなければ、園頭先生のことも知らないのです。それに、釈尊やキリストは知ってはいますが、それは神格化された釈尊やキリストを知っているに過ぎず、その説かれた法の偉大さを知ってる人は誰もいないのです。(それはつまり釈尊やキリストが偉大であったから、あのような奇跡が起き、後世にその名とその教えが遺った、と思っている人ばかりで、釈尊やキリストが説かれた法が偉大であったから、後世に名を遺し教えも遺ったとは誰も思っていないわけです)

それでは私が何をいっても、またどんな現象を起こそうと理解できないわけです。法の偉大性を理解していないわけですから。

つまり、私のブログを見ている大半の人が、私のことを神の使いとは思わず、得体の知れない奴が、得体の知れないこといい、得体の知れないことをしている、と思っているわけです。正しい教えを知らず、その法の偉大さが分からないからです。だから、法を知っている人(それは法の偉大さを知っている人)以外の人が協力してくれないのです。

それが分かった時、なぜ天が私に「法を説いてはいけない」といったのか、そのわけも分かりました。

それは、まだ法を十分理解していない人に、次々に法を説いてしまっては、その法の理解が深まらず、すべて法を浅くしか理解せぬまま知識だけしかついていかないからです。それではいけないのです。

法は実践しないと、本当の意味は分かってこないのであって、その法を実践してもらうためには、ある程度の法の証明をしたのであれば、その次にやることは、その法の偉大性を多くの人に知らせることなのです。そうして、より深く法を知ってもらい、実践してもらわねばならないのです。

私は、それを飛ばしてしまったのです。次々に法を伝え、現象を現せば多くの人は、この法が本当の神の教えであるということを理解し、協力してくれて、自然に拡がっていくであろうと思い込み、次々と法を伝えて現象を現してしまったのです。

その結果、やることが早急すぎて誰もついてこれない、というのが現状のようです。

私が今やらなければいけないことは、法の証明ではなく、法の偉大さを多くの人に教えなければいけなかったのです。その法の偉大さが多くの人に分かれば、それを実践することの大事さも分かり、それを説いている人の必要さもわかって、自然に布施をしてくれるようになったはずですが、あまりにやることが早すぎで、私のやっていることを深く理解している人がほとんどいないようです。(法を理解している人たち以外は)

これから少しの間は、釈尊、キリストが説かれ、そうして高橋先生と園頭先生が説かれた、この法がどれだけ偉大であったのか、ということを重点的に書いていきたいと思います。

そうして、ここに書いている法の偉大さが多くの人に理解できた時、初めてそこから法は拡がり始めるのではないか、と思います。

それまでは誰の協力を得られなくてもやるしかありませんね。

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1月 28 2013

使命を果たさないことの不徳

ずいぶん強い寒気が入ってきているようで、日本海側など大雪になっているところもあるようです。(名古屋も先ほど雪が降っていました)去年ほどの異常な寒気ではありませんが、今年も例年以上に寒い冬のようです。(温暖化はどこにいったんでしょうか?)

朝方、茨城で震度五、沖縄で震度四の地震が起きたようです。久々ですね、そんな大きな地震が起きたのは。沖縄などこれからプロ野球のキャンプも始まります。プロ野球選手など、すでに移動している選手もいたのではないですか。怪我をしている選手がいないか心配です。

マァ、プロ野球選手もこの神の運動に協力しようとしません。そのようなことが起きても仕方がないでしょう。

ネ、私が前回いったとおりいいこと起きてこないでしょう。誰もこの運動に協力されないと。

まだ、誰もご協力いただいていませんが、ソロソロいただけませんかね、お布施を。あまり都合のいいことばかりしていると(神の運動そっちのけで、自分たちの金儲けばかりしていると)やはり異常なことが起きてきます。(これも前回書いたとおりです)無茶なことをお願いしているわけではありません。いい加減それにお気づきください。

だいたい私、すでに一千万以上はもらっていないといけないんですからね。嘘ではありません、大分前でしたか、このブログにトヨタが一千万くらい寄付してくれないかと書いたことがありますが、ちょうどその時に天からおまえはもう一千万ほどの金額は寄付してもらっていなければいけない、ということを教えられたのです。だから私はあのようなことをブログに書いたのです。(私はこのブログに思いつきなど書きません。それらしいことを書くのは、必ず何か教えられているか、知らされているから書くのです。安倍総理の時もそうだったでしょう)

それがわずか数万ですからね、寄付された額が。呆れてしまいます。これではいいこと起きないでしょう。(ということは、前に書いたプロ野球選手やゴルフ選手など、誰一人使命を果たしていないということです。そりゃ沖縄に地震も起きます…茨城はやはり関東の人もということでしょう)

これだけ多くの人が自分の使命を果たそうとしなければ、悪いことしか起きないでしょう、ほとんどの人が生まれる前の約束を果たそうとしないんですから。

祈って、地震が起きたり、大雨が降ったりする者に協力せず、嫌がらせするってどう考えてもおかしいでしょう。そういうこと多くの人理解できないんでしょうか?ちょっと不思議でなりませんが、地震や大雨を降らすことが偉大とは思わず、余計なことと思うんでしょうか?それとも妬みやひがみの心が強いのでしょうか?それとも、そんなことたいしたことないと思っているんでしょうか?(なら、おまえやってみろといいたいんですが…)どちらにしても、多くの人が間違った思いを持ち続けているのは確かなようです。

困りましたね、これでは。いつまでたってもほとんどの人が動こうとしないため、神の運動が遅れに遅れることになります。

もう証明の必要はありませんよね。(それともまだ証明が必要ですか?)私は多くの人の前で多くの神の御業を行ったのです。今度はそれを知った人たちが協力する番ではないでしょうか。(そうしないと本当に命を差し出さなければならなくなりますよ)

再度お願いします。ご協力ください。特に私のブログを何年も前から読み続けている人は、一度は協力していただかねばならないのです。そうしなければ、一生よくないことが続くことになります。(それだけ不徳を行っているということです)明らかに考え方が間違っているのです。神の御業を現す者に嫌がらせなどもってのほかなのです。そんなことをすれば何世代にもわたり、罪の償いをしなければならなくなるのです。私に嫌がらせしている人が考えているほど甘いことではないのです。それはすべての人にいえることなのです。すべての人にです。(考え方の甘い人たくさんいます)

キリストや釈尊、あるいはモーゼが出世されても、今私のブログを読んでいる人たちは協力しないでしょう。それがどれだけの不徳か少し考えればお分かりいただけると思います。

そのような愚かなことを、このブログを読んでる多くの人が行っているのです。

何度もいいますが少しで結構です。ご協力ください。

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1月 27 2013

法を伝えることの大事さ

悲惨な結果に終わったアルジェリアの人質事件を見て、日本だけでなく世界各国で、あのような行為は許されない、テロの撲滅を叫ぶ人は多いと思います。

では、どうしたらあのような事件は起こらなくなるのでしょうか?

武装の強化やテロ集団を捕らえろ、などといわれていますが、そういうことも大事ですが、より大事なことは、そのような行為を起こさない心をつくることです。もっと根本的な心の問題を重視した方がいいのではないかと思えます。

それには、本物の神の教えを拡げた方がいいと思うのですが、肝心の本物の神の教えはちっとも拡がりません。嫌がらせはするのに、何で協力はしてくれないのか不思議でなりません。

嫌がらせは即実行するくせに、協力を即実行してくれる人はいません。これではよいことも起きてこないでしょう。ほんと不思議ですね、これだけ現象が起きていて、この教えを本物の神の教えと思わないのでしょうか?それとも本物の神の教えと思っていても、協力などしなくていいと思っているのでしょうか?それとも、そういう考えが一切なく、おまえがムカつくから嫌がらせしているんだ、という子供の発想そのままなのでしょうか?

本当に、私のブログを読んでいる人たちの考えが分かりません。やる気がない人は見ない方がいいといっても、それは聞く気がない(最近は一日にブログ読む人が百人を超えましたので)では、ここに書いてあることを信じないのかといえば、何か起きるとか、何かを祈るとか書けば、即嫌がらせや祈りを邪魔する人が出てきますので、ここに書いたことを信じていないわけではない。人のいうことは聞かないくせに、人のいうことは信じているのです。

それではダメでしょう、どう考えても都合がよすぎるのではないでしょうか?そんな勝手なことをしているから、これだけ異常なことが起きている、といってもそこは信じずに、それはおまえのせい、お前が悪いといっているのです。どこまで都合がいいのでしょうか。(本当に子供の発想ですね)

いいですか、よく考えてみてください。一日百人以上の人がこのブログを読んでいるのです。ではトータルでどれくらいの人が私のブログを読んでいるのでしょうか?

仮にトータルで五百人の人がこのブログを読んでいたとします。その人たちが年に一回一万円を寄付してくだされば年間五百万、五千円だとしても年間で二百五十万はGTS心の研究所にお金が入ってくることになります。

それだけ入ってくるのであれば、私は生活もちゃんとできますし、事務所を借りて個人相談もできます。小さな会場を借りることもできて、そこで座談会や法の講演会などもできるのです。つまり、神の運動ができることになります。だから私は年に一度でいいから寄付をしてください、といっているのです。(それくらいの金額、きれいなお姉さま方でも何とかなるでしょう。海外旅行でのお土産をちょっと減らすとか、化粧品代を少し減らすとか、元がいいんですから、それほど厚化粧しなくてもいいでしょう〔笑〕)

それに、ここに書くブログは、そこらの人が書いている内容ではありません。(それはご理解いただけると思います)昔でいう辻説法を、このブログを通して行っているのですから、よい話が聞けたと思ったら布施してください、といっているだけなのです。

このようにいう私の一体どこが間違っているというのでしょうか?

私が毎回寄付を強要しているとか、金を十万も百万もよこせといっているわけではないのです。お気持ちだけで結構ですからいただけませんか、といっているだけなのです。何で、そのようにいっているだけの私が間違っていて、悪いことが起きるのも皆私のせいなのでしょうか?あまりにそのようにいう人は理不尽でしょう、説法を毎日のように聞いていて、いつまでたっても一銭も払おうとしない人の方がよほど悪いではないですか、どう考えても悪いことが起きるのはその人たちのせいです。

何でこういうことも理解できないのか、不思議で仕方ありませんが、理解しようがしまいが結果は出ています。(出ていますよね、悪いことが起きているのはそのようにいう人たちです)

しかし、いつまでたっても理解していただけないのでいっておきますが、お金を出していただかねば、命を出していただくほかないのです。命を出していただいても法の証明になるからです。(いってる意味お分かりですよね、神の使いのいうことを聞かず、誹謗中傷した人に何か起きれば、その人が本物神の使いであると多くの人が分かるわけであり、それはすなわち法の証明となるわけです)

そのようなことは現在だけでなく、これまでにも行われてきたことであって、それは聖書などの過去の文献に記されてあります。(ということは、そのようなことが起きたということは事実である、ということです)それほど、法(本物神の教え)を知った人の責任は重大であり、法を知ったのであれば、その流布に協力することが当然の責務なのです。

どれだけそれを否定しようと、ここに書かれたことは現実に起きているのです。

否定している暇があるなら、早くその事実を認め、神の運動に協力されることです。そのような人こそ勝利者となり、歴史に名を刻む者となります。

神の教えを知ることの重大さ、拡げることの大事さを知ってください。

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