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2015年2月

2月 28 2015

釈尊やキリストと同じ奇跡

昨日は、家の前の道路で水道工事(そういう予定の紙をすでにもらっていたものですから)がありましたので、どうせうるさくてブログも書けないだろうと思い、午前中から出かけました。(そうしたら、昨日は工事をしていなかったそうです。予定が変わったんでしょうか?)

久しぶりに野間に行ってきたんですが、面白かったですね。

野間について駅から出て歩き出したとたん、いろいろな鳥が寄って来ました。寄って来るといっても、それほど近くまで来るのではありませんが、ちょっと離れた辺りにあちこちからたくさん鳥が飛んできます。

すずめはもちろんのこと、カラスや鳩、トビ(多分ですが、よく鳥の種類が分からないもので)ムクドリなど、可愛いものです。

どの鳥もみな私のことを知っているようです。本当に不思議です。

野間は人もそれほどいません。何かホッとした時間でしたね。(笑)

動画もいくつか撮りましたが、このような面白いことも昨日ありました。

昼になったので、私はコンビニに握り飯を買いに行ったのですが、そのコンビニの前には田んぼが広がっていました。

そのコンビニの近くまで私が行くと、その前にある田んぼの中から「ギャーギャー」凄い鳴き声がします。

ところが鳴き声がしている方を見ても、何が鳴いているのか分かりませんでした。(逆光で見にくかったこともありますが)

何かの鳥が鳴いているんだろうとは思いましたが、聞いたことがない鳴き声です。あまりにギャーギャーうるさかったので、私が田んぼの方を見ながら「何がいるんだ、姿を見せろ」とかいってキョロキョロしていたら、急にその田んぼにいた鳥がこちらの方に向かい飛んできたのです。

ちょっと驚きましたが、多分トビだと思います。(家の近くにはいない鳥であることは確かです。だから鳴き声を聞いたことがなかったんですね)

トビの色と田んぼの枯草の色が同じような色で、そうして逆光でしたので、どこにいるのか分からなかったのですが、その場面も動画で撮りました。(ビデオを構えて、もう一度飛べといったら、本当にまた飛び上がったものですから撮れたのですが)

しかし、そのトビたち(数羽のトビが田んぼの中にいました)は面白かったですね。飛べといって飛び上がったこともそうですが、私がそのトビたちを動画で撮って「撮ったたで、もういいだろう」といってコンビニに行き、握り飯を買って出てくると、先ほどまであれほど「ギャーギャー」鳴いていたトビたちが少しも鳴きませんでした。

私が前を歩いて行くのをポケッとした顔で見ているだけでした。

先ほどまで、あれだけ騒いで鳴いていたのは一体なんだったんだと不思議でした。(動画を撮るだけ撮ったら静かになるなど、まるで動画を撮ってくれといわんばかりの態度でしたね。〔笑〕)

海岸に行けばカモメがいて、私のすぐ近くまで何羽も飛んできました。所々で、集団ですずめたちがいて、大騒ぎをしていました。そのような場面は動画に撮ってあります。

最後に野間駅の近くにある、野間大坊(のまだいぼう)というお寺に行ったのですが、この寺は源頼朝の父(義朝)の終焉の地として有名ですが、その寺の本尊は阿弥陀如来でした。

本堂に阿弥陀如来がまつられていましたので、その阿弥陀様も撮って(この前のブログに書いたのですが「これがキリストだそうです」といいながらです。〔笑〕)野間大坊から出てくると、すずめやらムクドリやらいっぱい寄ってきて、飛び回っていました。

その場面も撮りました。

私がどこに行っても鳥たちがたくさん寄って来ます。不思議なものです。

しかし、世に法を説く人が現れると、このような奇跡は現れるのでしょう。

釈尊が法を説かれる時は、鳥や動物たちも寄って来て釈尊の説法を聞いていたといわれますが、釈尊の時だけではなく、キリストが法を説かれた時も、きっとそのようなことが起きていたと思います。

あの山上の垂訓(さんじょうのすいくん)として後世に遺る(「心の貧しきものは幸いなり、天国はその人のものなり…」で有名なです)ガリラヤ湖のすぐ近くの小高い山で法を説かれた時も、法を説かれているキリストの回りには、鳥たちが来ていたのではないでしょうか。

ガリラヤ湖にも、たくさんの魚が寄って来ていたのではないでしょうか。

そのような鳥や魚たちの不思議を、当時の人たちはただ気づかなかっただけなのです。

その釈尊やキリストと同じ奇跡が起きている者がいるのです。

その者への態度、改めなくてもよいのでしょうか。

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2月 26 2015

約束を果たすことの大事さ

名古屋のこの状況を怒っている人も多いんですが、ちょっと考えてみてください。

もし、名古屋に私がいなくて、普段とさほど変わらない生活をしていたらどうでしょう。

毎日、会社や学校に行き、楽しい時もあれば、面白くない時もある(むしろそのような時の方が多かったでしょう)人をねたんだりひがんだりして、あの人はこういうところが悪い、この人はこういうところが悪いと陰口を平気でいっている。

しかし、その陰口をいっていた人が目の前に来ると、さも友達のように振る舞う、そのような表面上だけうまく合わせている、そんな心はそっちのけの生活をずっと続けていたのです。

そうして、人はこの世限りの人生であり死んだら終わり、今が楽しくあればそれでよいと、今の自分たちのことしか考えず、神もあの世の存在も少しも信じようとはせず、はかない人生と諦め死への恐怖を持ち続けていたのです。

宗教を信じる人もいましたが、その宗教も救われていると勝手に思っているだけで、実際はたいした奇跡を知ることもなく、間違った信仰を信じ続けていたにすぎなかったのです。

よく考えてみてください。

そんな表面上だけよければそれでよい、そのような人生が本当によい人生であったと思いますか?(しかも、創造主である神の存在も認めず、あの世も認めない、人間は死んだらそれで終わりなどという人生では、半分やけくそのような人生にしかならないのではないですか?人間が死んで終わりというならすべての人に死は訪れるのです。では、すべての人が終わっているということになってしまいますからね)

それでもよいと思う人は、そのような人生が長かったので、それがよい人生と錯覚しているだけで、そんな中身の伴わない、そんな人生がよい人生であるわけがないのです。

そのような人生であれば、心の進歩はほとんど望めないからです。

望めるわけがありません。人間は死んだら終わりだと思っているんですから、では、その間だけ(生きている間だけ)うまくやれればそれでいいということになり、それでは当然、表面上だけうまくやればいい(人の何十年の人生など長いなどといっているだけで、実は短いのですから)心など、どうでもいいということになってしまいます。

心のことを何も知ろうとしなければ、それでは実に浅い人生しか歩めないということになり、おまけに、それではいけないということを教える宗教が、現世利益ばかり教え(それか死後、極楽に往きたければお経を上げなさいくらいの教えです)たいした奇跡も現さないのです。

それでは宗教など迷信としか思われないし、神への敬畏(けいい・敬い畏れること)も出て来ないでしょう。人の心の偉大性さえ分かりません。

このような宗教ばかりでは、多くの人が神の存在もあの世の存在も、人の輪廻転生も信じられるはずがなかったのです。

そのようなことを信じられなけれ、心の偉大性も分からず、何で心を大事にしないといけないのか、心の進歩が大事なのかもまるで分からず、先ほど書いたような、表面上だけうまく合わせているだけの深みのない浅い人生しか送れなかったのです。

もし、私が出て来なければ、多くの人が間違った人生、まるで中身(深み)のない人生を送り、そうして死の恐怖を一生持ち続け、死の間際まで死を恐れ続けて、苦しみながら死んでいくことになったのです。

しかし、私が出てきたことで様々な奇跡が起き、そのような奇跡が起きることで、多くの人が私のいうことを信じて、心が伴わない、表面上だけよければそれでよいという人生は間違いである、神もあの世も存在するのである、人は輪廻転生する永遠の生命なのである、人の心の偉大性、心が一番大事なものである、などということが分かり(信じ)本当の宗教(本当の神の教え)とは、これだけ多くの奇跡が次々に起きるものである、ということまで分かったのであり(ということは前と比べれば、ずいぶん広く深い知識を得たということになります)私を知る前と後では、多くの人がどれだけ意識が変わり、行いが変わったか分からないほどなのです。

これだけ多くの奇跡を行い、多くの人々の目を覚まさせた私が、なぜ、それほど悪者なのですか?

これくらいのことをしなければ、日本の多くの人は目を覚まさなかったのではないですか?唯物無神論という間違った思想からです。

確かに、私がいなかったらこれだけのことは起きなかったでしょう。(例えば、名古屋などもです)しかし、世界中で起きている天変地変など見ていれば分かると思います。

もし、私がいなければ、日本はこの程度のことでは済まなかったのです。名古屋の人でもそうです。私を目の敵にしている人も多いのですが、では、今のような現象と南海トラフ大地震とどちらがよかったのでしょうか?

南海トラフ大地震が起きれば、うんもすんもありません。あっという間にそこらじゅうの家々は破壊され、多くの人命が奪われるのです。その後の生活などどうなるか分かりません。

少なくとも、多くの人がまともな生活などできなくなるでしょう。下手すれば、日本が滅んでしまうかもしれないのです。

そのような状況で、まともな考えが出来ますか?自分たちが悪かったから、このようなことが起きたと反省出来るでしょうか?

百パーセント無理ですね。多くの人が恨みやつらみをいって大地震を憎み、もう食べていくのが精いっぱいという人生しか送れなかったでしょう。

そうして、そのような苦しみ悲しみの中で一生を終える人ばかりだったでしょう。

そういう人生の方が今よりよいというのでしょうか?

いまのような現象であるなら、まだ普通の生活は出来ますし、ちゃんと考えることも出来るのです。

どう考えても、南海トラフが起きるより、今の現象が起きているうちに悟った方がよいに決まっています。

そのような大きな慈悲を(大きな気づきを得るチャンスを)名古屋の人たちは神からいただいているのです。そのことに名古屋の人たちは大いに感謝すべきなのです。(それだけ多くの慈悲を神からいただいているから、それだけ多くのことを、それだけ多くの人が知ることが出来たのです)

そんなことは口からのでまかせで、自分に都合のいいことをいっているだけ、ですか?もし、そのようにいわれる人がいるなら、それはそっくりそのまま、そのようにいう人にお返しします。

なぜなら、ここに書いたことを否定する人には何一つ奇跡が起きていないからです。

このようなことを書いている私には、鳥や魚がよってくるという、釈尊やキリストに起きた同じ奇跡が起きているのです。

その起きている奇跡が、私が正しいことをいっているという証明です。

私が正しいことをいっているから、釈尊やキリストと同じような奇跡が起きるのであり、私のいうことを否定する人は、それこそ自分たちに都合のいいでまかせしかいっていないから、災いが起きているのです。

これ以上の分かりやすい出来事もないのではないでしょうか。

私がいたから、多くの人がこの世の真実を知り、本当の人としての在り方に気づいたのです。

本物の神の教えを行ずるとは、このようなものであり(それだけ厳しいことであるという意味です)この本物の神の教えを勉強していくのであれば、この世の苦しみ悲しみは取り除かれ、本当の幸せを得られるのであり、数々の奇跡も体験でき、そうして死後の往く先まで分かり、死への恐怖も段々なくなっていきます。(死とは、単にこの世の卒業式にすぎないと分かるからです)

しかし、この教えを無視したり、逆らったりしている人には、その逆の苦しみや悲しみばかりが与えられ(現在の名古屋の人たちがそうでしょうが)数々の災いを体験しなければいけなくなり、そうして死後の世界は地獄往きとなり、死への恐怖も増すことになるのです。(それはそうです。誰だって地獄へなど往きたくはないでしょうから)

本当の神の教えは、この世に出ているすべての人が学ばなければいけない教えであるからです。(だから、そのような順序が必然的についてくるのです。この法にソッポを向いている人は一番大事な約束を破っているからです)

一番大事な約束をいつまで破棄しているのですか?

その約束を果たさない限り苦しみは続くのです。(もちろんこれは名古屋だけではなく、日本の人々がという意味です。何度もいいますが、だから異常気象が止まらないのです)

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2月 25 2015

心の進歩

昨日ウナッシーさんから、園頭先生の夢を観たというコメントをもらいました。

私も園頭先生の夢を何度も観たことがあります。法をまじめに勉強している人は、天上界から導きがあります。

黙っていても、高橋先生や園頭先生からの指導は受けられるでしょう。

そのようにおきている時だけではなく、寝ている時も天上界から指導を受けられるのです。法を知っている人の心の進歩は、知らない人たちより格段に進歩しているのです。

それに比べ心の進歩がほとんど見られない人たちは(本人は気づいていないのでしょうが)同じことを同じように繰り返しています。

どれだけ恐ろしい目に遭ってもそれが分からないようです。

名古屋の現象しかり、この近所の現象しかりでしょう。毎週必ず何か起きているところがありますが(また何か起きたようですが)そこは何度恐ろしい現象が現れても、それでもなおこのブログの邪魔をし続けるようで、そのよう行為を反省しない限り、その現象は止まらないということは理解出来ないようです。

名古屋の起きている現象も同じでしょう。昨日のようなブログを書けば怒って意地になり、ブシュブシュやる人がいます。しかし、その行為を反省しない限り名古屋の現象は収まらないのです。

とはいえです。では、このような人たちがまったく心の進歩がないのか?といえば、そうともいえないでしょう。

なぜなら、同じことを繰り返しているようで、実は段々悪いことをやる人が減っているのは確かだからです。

このブログの邪魔をすることも、少し前までの激しく邪魔をするようなことはなくなりましたし、トラックやバスなどのブシュブシュも前ほど多くの人はやりません。

つまり、悪いことを前よりはしなくなったということは、多少ではありますが、前よりは心が進歩した人が多いということであって、だから名古屋の現象など見ても、前より減ってきているのです。(一時の名古屋は、もの凄い数のサイレンがしたことがありますから)

しかし、本当に心の進歩がない人たちのところには、確実に神の業が現れることになります。毎週何か現れているところなど、やはりよほど反省しないと、その神の業がなくなることはないでしょう。

このようなことを書けば、またその人たちは怒るでしょう。しかし、どれだけ怒ろうが私はその人たちが分かるまで繰り返しそのこと書きます。それが唯一その人たちを救う方法であるからです。

名古屋で起きている現象も同じです。昨日のような書き方をすれば怒る人はいくらでもいるでしょう。お前のいうことなど聞いてはいないと逆らう人も多いでしょう。

それでも書きます。その書いたことをしてもらわないと、この名古屋は救えないからです。

このように現在の名古屋は、大変なことが次々に起きているのですが、しかし、こと心の修行に関していうなら、この名古屋は最高の場所であるといえるのです。

名古屋にいて心の進歩がない人には、次々に神の業が現れ、そうして心の修行が出来ている人には、これもまた次々に奇跡が現れているのです。これ以上の心の修行の場があるでしょうか。

名古屋の人たちにすれば、否応なくこのような場が現れたのです。怒るのもまた無理のない話でしょうが、否応なく現れているようで、実は名古屋の人々全員がこのような場を求めていたのです。

もっといえば、日本はもとより、世界全体の人がこのような場を求めていたのです。

それはそうでしょう。この現象界(この世)に出てきている人は、みな心の修行のために出てきているのです。

ただでさえ現象界は心の修行の場であるのに、その現象界の中でも、これほどの心の修行の場はないということであれば、その場所で心の修行ができれば、一体どれだけ自分の心が進歩するか分かりません。

つまり、この名古屋で心の修行をするなら、自分の心は計り知れないくらい進むことになるということです。

現にそうではありませんか。この名古屋の多くの人はすでに唯物無神論ではありません。唯心有神論に変わっているのです。

これほど多くの人が唯心有神論に考えを変えるなど、他の地域では考えられないことでしょう。それだけではなく、もの凄い数の神の業が現れているのです。(何せ毎日ですから)

これほどの数の神の業が現れるところが他にあるのでしょうか?

ないでしょうね。このような現象は名古屋でしか起きていない、稀有な現象であるからです。しかし、この現象が起きているせいで、多くの人が私のことを知り、私のいっていることを知ったのです。

私のいっていることを知ったということは、法を知ったということであり、これもまた、これだけ多くの人が法を知っているところは他にないでしょう。

つまり名古屋にいるだけで、法を次々に知って、その現れる神の業まで次々に体験出来ているのです。

これでは黙っていても心は進歩します。名古屋はこれ以上ない心の修行場といえるのです。

先ほども書きましたが、法に逆らっている人たち、このような人たちは進歩がないといいましたが、それは名古屋のレベルでそういっているだけであり、他の地域の人たちを考えれば、これほど心が進歩している人たちもいないのです。(だって、この名古屋で私に逆らっている人たちでさえ、みな唯心有神論に考えが変わっているのです。このように意識を変えただけでも凄い心の進歩です。おまけにそのような人たちは神の業を体験している人が多いのです。このような体験はどれだけ心の進歩になるか知れないのです)

つまり、名古屋の人たちは知らず知らずのうちに、心は計り知れないほど進んでいるということです。私が説いている法と、それとともに起きる現象によってです。

名古屋の人たちの心が進歩しているということは、私がそこらでする辻説法でも分かります。このブログに書いてあるようなことを、そこらで話しているのです。

もし、私の話を他の地域でやれば、みな笑って聞こうとはしないでしょう。しかし、名古屋の多くの人は、私の話を怒りながらでも聞いているのです。笑って聞かない人はほとんどいないのです。

それを聞く人も年寄りから小さな子供まで幅広くです。凄まじいまでの法の拡がりようです。

こういう話が聞けるということは、年齢に関わらず多くの人に法が拡がり、年齢に関わらず多くの人の心が進歩したからということになります。(法を理解するようになるだけでも凄い心の進歩だからです)

これも他の地域では考えられないことでしょう。他の地域では考えられないほど、名古屋の多くの人の心は進歩したということです。

名古屋では、このような心を進歩させるようなことが常時起きているからです。(神の業にせよ、私の説法にせよです)

普通何かの教えを説くのであれば、年寄りは聞く人が多いが、若い者は聞かないとか、あるいは宗教に興味がある人は聞くが、宗教に興味がない人は聞かないとかなるんですが、名古屋はそのようなことにかかわらず、老若男女、宗教に興味があろうがなかろうが、そのようなことに一切関係なく多くの人に法が拡がり、多くの人が神の業を体験したのです。

その結果、多くの人の心が進歩したのです。

このような結果が出ている以上、これ以上の心の修行場があるでしょうか。

名古屋の皆さんは、多くの人が私のことを憎んでいるのでしょうが(悪いことはみな私のせいですから)しかし、どれだけ私を憎もうが、悪口をいおうが、その自分たちの心は大きく進歩しているのです。

これだけは事実なのです。

この世の目的は、その心を進歩させることなのです。

その点だけに絞っていうのであれば、名古屋の人々は、これ以上進んだ人たちはいないのです。

一体誰のお陰でそうなったのですか?名古屋の人たちはどれだけ自分たちが幸運なのか、実は知らないでいるだけなのです。

(世界で一番幸運な人たちが名古屋の人たちなのです。世界で一番心が進歩しているからです)

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2月 24 2015

災いが起きることと奇跡が起きることの違い

昨日は、所用で午前中から出かけましたので、ブログを書きませんでした。今週は家の前の道路で水道工事がありますので、あまりうるさいとブログも書けません。今週はあまりブログは書かないかもしれません。

マァ、ブログを書けない時は、少し遠方まで動画を撮りに行ってきます。だからブログを書かない時は動画の撮影です。自分でいうのも何ですが、本当に私は何から何まで法が中心です。

それにしても「このブログは天の心を書いている」というのは嘘ではないなとつくづく思います。

現にこの数日はサイレンが少ないのです。運転手のブシュブシュが減ったら、本当にサイレンが少なくなりました。

ここに書いた通りのことが起きています。

これだけ分かりやすい現象が現れているのです。(これはこの辺りの人しか分かりませんが)それでもまだ、ここに書いたことを実践しようとは思わないのですか?

災いが起きることと、奇跡が起きることの差、違いがまだ分かりませんか?

しかしそれは簡単な話でしょう。ここに書いていることに従っている人には奇跡が起き(ウナッシーさんや北海道の人など)ここに書いていることに逆らっている人たちには災いが起きているのです。(この法の流布を邪魔したり、私に嫌がらせしたりする人たちなど)

では、ここに書いたことに従えばいいのではないですか?そうすれば奇跡が起きるのです。

いつになったらそれが分かるのでしょうか。

私を悪くいって、悪いことを全部私に擦り付け、悪い奴に仕立て上げたところで、どれだけそのような人が増えても私には何の災いも起きないのです。

現在の私の回りはそのような人ばかりです。何万、何十万という人に(あるいはもっといるかもしれませんが)この名古屋で頻発するサイレンは私のせいだと思われているんですから、その恨みの念は凄いことになっているでしょう。(だって人が次々に病気になっているのです。そういうことをしていると思われる人を憎まない人はまずいないでしょう。そうであるなら、目に見えないそのような念の力はもの凄いことになっています)

これだけ多くの人の恨みの念を受ければ、普通であれば死にます。(不慮の事故とか、それこそ恐ろしい病気になってです)

自分の念が強ければ死ぬまではいかないかもしれませんが、決していいことは起きなくなります。本当に自分が悪いことをしているのであれば、そのような人たちの念だけではなく、自分自身の行いも自分に返ってくるからです。

しかし、私は何年たってもピンピンしているのです。そればかりか、次々に(災いではなく)奇跡が起き出しているのです。

これはどういうことなのでしょうか?

これこそ、私が間違ったことをしていない(悪いことをしていない)証拠なのであり、悪いことをしていないから、いくら時間がたっても悪いことが起きてこないのです。

やっていることがよいことであるからです。

別にこれは自画自賛でもなんでもありません。この世には「因果応報」「善因善果 悪因悪果」という循環の法則があります。

その法則に従うのであれば、私にはよいことしか起きていないのですから、では、私はよいことしかしていないということになります。(まさか、この法則にケチはつけませんよね。釈尊がいわれたことですから)

だから、やっていることがよいことであるといっているのです。(マァ、多少の悪いことは天も許してくれます。天の教えは四角四面ではありませんから。多少の遊びはありますから)

私がやっていることは法に沿ってやっているのです。だから私には奇跡が起きてくるのであり、他の人は、ほとんど自我でやっているのです。だから、悪いことしか起きて来ないのです。そのような自分の心が、すぐに現れる時代にすでになっているからです。

これほどの差が出ているのです。(どれだけそれを認めたくなくてもです)では、私に従った方がよいのではないですか?私を悪く思っていること自体、すでに大きな誤解から始まっているからです。(誤解ですよね。現に私は何も悪いことをしていないのですから。起きてくる結果がそれを物語っています)

そういう誤解や、ねたみやひがみから、私に対し、間違った行いをしたから、自分たちに災いが起きたのです。私のせいではありません。

しかし、その自分たちの間違った行為さえ認めようとせず、その災いまで私のせいにしてしまった結果、それこそ、世界でも類を見ないほどの恐ろしい神の業が名古屋に現れたのです。

それもまた無理のない話でしょう。それだけ法を説く者に対し、名古屋の人たちは間違った行いをしているからです。(これもまた結果が物語っています。このような結果に嘘はありません。このような現象が起きた原因は、私にあるのではなく、私以外の人にあったということです。どこかの会社に、恐ろしい現象が次々に起きているのもまた同じです。私に責任があるのではなく、そちらに責任があったのです。だから、そちらが心を変えない限り恐ろしい現象は収まらないということです)

しかし、その名古屋で起きている恐ろしい神の業も収まりかけています。それはなぜでしょう?

これもまた簡単な話です。

このブログに書いていることを多くの人が実行したからです。(私にブシュブシュやるなと書いて、その通りのことを多くの人が実行したのです。実行しなかった人もいますが少数であったということです)

ここに書いたことに従えば、奇跡が起き、ここに書いたことに逆らえば災いが起きます。

本物の神の業が、そこかしこに現れ始めている現代、本物の神の教えを学ばなくて本当によいのでしょうか。

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2月 22 2015

心を変えることの大きさ

しかし、このブログのことは皆よく知っているんですね。(一日百人前後の人しかこのブログは見ていないはずですが、何でああも多くの人がこのブログの内容を知っているんでしょう。それもまた不思議です)

昨日は、運転手の人たちブシュブシュやらない人が多かったんですが、たまにやる人がいました。その運転手の顔を見るとみな引きつっています。

もう、ほとんどの人が地獄の存在は理解しているようです。それなのになぜまだそんなことをしてくるのでしょう。本当に哀れなものです。(そういう人は、おかしなものに憑かれているのでしょう。それで自分はやめたくてもやめられないのです)

しかし、現実にそういうことをやる人が少ないとサイレンも少ないのです。このような結果が出ている以上、私のいったことは正しいのです。それでもまだやるのですか?

何度もいいますが、この名古屋で起きている現象は人が起こしているわけではないのです。これほどの現象、どうして人が起こすことが出来ますか。毎日多くの人が救急車で病院に運ばれているのです。しかも何年にもわたりです。こんなことが人に出来るわけがないでしょう。

こんな現象は神(天)以外、やれるはずがないのです。

もう、それが分かっている人も多いはずです。それなのにいつまでそれを否定し、私に罪をかぶせ続けるつもりですか。そんなことをしている間はこの現象は止まらないのです。

天を怒らせた人々が反省し天に許しを請う以外、この現象から逃れる術はないのです。

そうして、そればかりではありません。

これほどの現象(天の意)が現れ始めたのです。この本当の神の教えを勉強しなくてよいのですか?

もう本当の神の教えを学ばなくては救われる道はないのです。それはこの名古屋で起きている現象で理解出来るはずです。

法を唯一説いている者に、名古屋の人たちは嫌がらせを繰り返したのです。そうしたら凄まじいまでの現象が現れたのです。このような現象も含め、人には起きない、鳥や魚がたくさん寄ってくるという奇跡まで起きている者のいうことを、無視していてそれで救われると思いますか?

これまでしてきたような信仰では、もう一人も救われないのです。

「お前のせいでこのようなことになった」という人もいるでしょう。しかし、では、もし私がいなかったら日本はどうなっていたでしょう。

これほどの現象が日本に起きているのです。(信じられないほどの天変地変などの異常現象)では、もし私がいなかったら「この日本は滅びていた」そのような想像もつくはずです。

それは少し考えてもらえれば分かると思います。

私がいなければ、これだけ起きている天変地変の本当の意味は誰も分からなかったでしょう。(すべて地球温暖化などのせいにされてです)天変地変の本当の意味を知らなければ、どれほどの天変地変が起きても、誰も自分の心を変える人はいなかったはずです。

誰も心を変える人がいなければ、日本はさらにひどい天変地変に見舞われていたでしょう。

そうであるなら、日本が滅びていてもおかしくはないのではないですか?あの東日本大震災の後の天変地変の多さを考えればです。

あの東日本大震災の後、多くの人は心を大きく変えたはずです。私が多くの人々に知られ始めたからです。

私が多くの人に知られ始めてから、この四年ほどの間に、多くの人が唯物無神論から唯心有神論に考えが変わったのです。

「多くの人が唯物無神論から唯心有神論に考えを変える」

これ人の意識だけを考えるなら、どれほど変わっているのかお分かりでしょうか?

これを人の意識で考えるなら、それこそ天と地ほど違うくらい考えを変えたことになるのであり、そうであるなら、唯物無神論から唯心有神論に意識を変えた人は、その分、この世は神も仏もない、人は最後は消えてなくなるという、唯物無神論の心の重さがなくなったということであり、それだけの心の重さ、意識の重さがなくなったというのですから、それが多くの人がそうなったというのなら、この心の重さの解消はかなり大きかったということになります。

ということは、その心の重さがなくなった分、心がずいぶん軽くなった人が多かったということであり、その心が軽くなった分、それだけ天上界に近づいた人も多かったということになります。

それだけ天上界に近づいた人が多かったのなら、この世に現される災いもずいぶん少なくなったはずですが(天上界の人々に天は災いを起こすようなことはしませんから)それにもかかわらず、それでもまだ日本にこれほどの天変地変が起きたのです。

ということは、私があの東日本大震災のあと出て来なかったら、日本の人々は心の重いままの人ばかりであったということになり、そんな重い心の人ばかりであるなら(それは地獄に近い人ばかりということですから)天の起こされる現象は、ここ数年の間に起きた現象程度ではすまなかったのであり、そうであるなら、一体どれだけ激しい現象が、この日本に現されていたのか分からないくらいであり、だから「私がいなかったら日本は滅ぼされていた」といっているのです。

意識の重さ、心の重さがなくなることが、どれだけこの世の災いを減らすかお分かりでしょうか?

多くの人の重かった意識が軽くなったのです。その時点で、日本に起こすはずであった多くの災いはかなり減ったのです。(つまり、この時点で多くの人が救われたということです)にもかかわらず、これほどの現象が日本に起きたのです。

ということは、もし、心が重いままの人ばかりであったのなら、日本は完全に滅ぼされていたということになります。

そんなこと信じられるか、という人もいるでしょうが、現に、名古屋はこの数年、大きな災いは起きていません。この名古屋で起きている恐ろしい現象さえなくなければ、名古屋は天変地変のない静かな町であるのです。

なぜ、名古屋は大きな天変地変が起きないのですか?

それだけ唯物無神論から唯心有神論に変わった人が多かったからです。つまり、心が軽くなった人が多かったからです。(マァ、ここ一年、二年の間ですが)

心の軽い人が多かったから、名古屋に大きな天変地変が起きなかったのです。(異常現象はたくさん起きました。名古屋の多くの人が私に嫌がらせを繰り返したからです)

これで名古屋の人々が反省し、この法を少しでも勉強するようになれば、災いが起きないどころか、奇跡まで起きて来るのです。(それは私を見てもらえれば分かると思います)

「お前のせいでこのようなことになった」

確かにそれはそうでしょう。しかし、多くの人はその本当の意味に気づいていないのです。

「お前のせいでこのようなことになった」というその本当の意味は「私(お前)のせいで日本はまだこの程度ですんでいる」ということだったのです。

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