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3月 25 2013

死後の世界と霊の存在

先週も書いたのですが、今週も取り敢えず断っておきます。

私が、やってはいけないということを無視し続けているのであれば、何が起きても私のせいにしないことです。やってはいけないということをしていて、何か起きたらお前のせいと怒っているのでは、責任転嫁以外の何ものでもないからです。

私のいうことを聞きたくないのであれば、聞かなくて結構ですが、それなら皆自己責任と納得されることです。(どっちみち自己責任なんですけどね)でないとまた何が起きるか分かりませんので。

というか、先週や先々週に何も起きていなければ、それでいいのですが、何か起きてるようなら、また今週も起きるかも知れませんので一応断っておきます。

何も起きていなければそれでよいのですが、もし、何かおかしなことが起きているのであれば、私のいうことに従うというのも一つの選択肢でしょう。(それが厄払いになるかもしれませんから)早く気づかれることを願います。

さて、話題を変えましょう。

最近、週刊誌など読むと、死後の世界やら人の死生観やら書いた記事が目立つように思います。こういう記事が、あちこちで書かれるようになったことはいいことだと思います。

現実に死後の世界はあるのであるし、これまでのように、そのようなことをただの迷信と一笑に付すのではなく、科学的見地からも、そのような世界を見てもらえれば、死後の世界は存在すると理解する人も増えてくるからです。

だいたいこれまでも、科学者が死後の世界を調べた本はたくさんありました。それを多くの人が本気にしなかっただけです。そのような本を少し真剣に見てもらえれば、死後の世界はおのずと理解できるはずです。

臨死体験の本など、あんなものはただの幻覚やら夢やらいう人も多いのですが、逆にお聞きしますが、同じような夢や幻覚を多くの人が、同じように観るということが実際有り得るのでしょうか?

親や兄弟でも、同じ夢や幻覚を観たなどという人はめったにいません。それが臨死体験をした赤の他人の多くの人が同じようなこと(死んだ人と会った、光のドームのようなところを飛んでいた、きれいなお花畑のようなところにいた、自分の一生を振り返った、などなど)を話すのです。そうして臨死体験を経験したほとんどの人が、死後も自分の意識は存続し、死後の世界はあると証言しているのです。(まったく神の存在など信じていなかった人が、一変に神の存在を信じるようになった人もいます)

このような一度死んで生き返った人の体験談を、軽々に無視していてよいのでしょうか? もしかしたら大変貴重な体験を話していられるのかもしれず、逆に自分は何の体験もないのに、何でそのような人の体験談を簡単に否定できるのか、そちらのほうがよほど不思議です。(一体どういう根拠で否定しているのでしょうか?)

幽体離脱の体験でもそうですが、その人の意識がないのに、幽体離脱を体験した人は、自分が手当てを受けていた病室での出来事を、事細かに知っているのです。(それも正確にです)その意識のない自分が、手当てを受けている状況を上から観ていて、その手当てしている看護師の、頭につけていたピンまで正確に言い当てた人までいるくらいですから、やはりこのような体験談は、もっと科学的に調べて多くのデーターを取るべきでしょう。

そうすれば、死後の世界の輪郭も見えてくるはずですから。

それに霊の存在を肯定するような出来事もたくさん起きています。

人によっては死が近づくと(自分が入院している病室などで)人がいない方に顔を向けて、不思議そうにジッと(そこに誰か人がいるかのように)見つめていたり、そこに人などいないのに「あんた誰」と話しかけたりする人がいるそうです。

それに死ぬ寸前に、大きく目を見開いて驚いたような顔で、回りをぐるりと見渡して死んでいく人も多いそうです。

このような言動は何を意味しているのでしょうか?

これは、人は死が近づいてくるとあの世と同通しだすからです。だからそのような態度を取るようになるのです。

あの世と同通しだしますと、あの世の霊が観えるようになります。それでその霊をジッと見ていたり、その霊に話しかけたりしているのです。(人が死ぬ時はお迎えが来るといいますが、これは、本当にそうで、自分の守護、指導霊たちが、いよいよその人が死ぬ時になると迎えに来ます。その霊たちに驚いて死ぬ間際に、ぐるりと回りを見渡して死ぬ人が多いのです)

それまで観えていなかったものが、急に観えるようになるのですからそれは驚きます。それが(この世の人から見れば)不思議な態度に映るのです。

しかし、このように重い病気にかかって意識をなくした人や、死ぬ間際の人たちを見ていれば、死後の世界や霊の存在は容易に想像がつきます。

これまでのように、頭からそのようなものを否定するのではなく、少し深くそのような人たちの態度や体験談を聞いてみることです。

そうすれば、死後の世界や霊の存在はおのずと理解できるでしょう。

(その臨死体験などの書かれた本を読んでみるといいでしょう。そうすれば愛と慈悲の心がいかに大事か分かります。ケチな愛のない〔嫌がらせなどの〕行為がいかに罪かも分かるはずです)

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3月 24 2013

合格者と不合格者

高橋先生の教えを継がれたのは園頭先生でした。ですから、高橋先生が昇天された時点で、園頭先生と行動を共にされ、そうして園頭先生が正法会を立ち上げられて、そこで法の勉強をされた方は合格者でした。(園頭先生以外の人のところにいった人は、正しい法を説いている人を間違えたのですから、不合格ということになります。ただしこの時点でということですが)

しかし、その後、正法会で法を園頭先生が説いている最中にも、会を辞めていく人がいて、そうして園頭先生が亡くなられると、法を正しく説ける人がいなくなりました。この時点で正法会を途中でやめた人、他の人のいうこと(法を正しく説いているという偽りをいっている人)を全面的に信じてしまう人は不合格でした。

この法が正しく説ける人がいなくなった時点で、どのような会に入っていようといまいと、人のいうことを全面的に聞いてしまうのではなく、高橋先生や園頭先生の本が残っているのだから、それを基に法の勉強だけは続けようと、その努力をされ続けていた人は唯一合格していた人たちでしたが、そのような人の中でも、その法の理解度により合格者不合格者が分かれたのです。

このようなことを考えますと、この世に生まれ、法(本当の神の教え)に出会うということも難しいことですが、如来の下で勉強ができるという、有り難い(有ることが非常に珍しい、有ることが難いという意味です)奇跡に恵まれた人でも、その教えを継続して正しく勉強して一生を終えることは、非常に困難であるということがよく分かります。(高橋先生や園頭先生のほとんどの弟子たちが失敗しているからです)

しかし、どれだけ難しいことであろうと、私たちは法に出会うためにこの世に生まれ、その教えに触れて、その教えを一生実践し続けて、この世の修行を終えると、約束して生まれてきている人たちばかりなのですから、それができた人だけが合格者なのです。(この世に生まれたすべての人が、法と出会うことを目的に〔法にこの世で出会うだけでも、大変な努力が必要です〕その法を実践することを目的に生まれてきているのです。一人の例外もありません)

どんな言い訳をしても、やれなかったら不合格なのです。

しかるにこのブログを見ている人たちは、その法に出会うという超幸運に恵まれていながら(すでに有り得ないような幸運をいただいているのです。このブログを読んでいる人たちは)何もしないばかりか、その法を説いている私に嫌がらせをするという、有り得ないことまでしているのです。

その結果、有り得ないことがこの近辺で次々に起きています。(そうではないですか?)昨夜も帰り道に、よく私に嫌がらせをする連中がいる会社の横を通った時、フッと不吉な思いが上がってきました。そのようなことが起きていないことを祈るばかりですが、何度もいいますが、あまり物事を浅く考えずもっと深められたらいかがでしょうか。

私がここに書いていることは、ことごとく当たっているのです。

私に嫌がらせなどしてはいけません、このブログをただで見ていてはいけません、そのようなことをしているとよいことは起きません。(事実よくないことが起きているのではないですか?)この人はもうよくなりません。(これもあるスポーツ選手などそうなりました)このままでは台風が福島を直撃します、台風と地震が一緒に起きます。(このようなことも両方起きました)

そのような悪いことばかりでなく、よいことも当たっているのです。

この人を総理にすれば日本は復活します。(実際に安倍総理が総理になったとたん、日本は復活しつつあります)タイの洪水を引かせます。(そう書いてすぐタイの洪水は引き始めたのです)私が祈れば奇跡が起きます。(奇跡的な現象など〔恐ろしいことも含めれば〕どれだけ起きているか分からないくらいですが、末期癌の人の癌が小さくなり、痛みがなくなるという奇跡も起きています)

すべて、このようなことは天から教えられ、そうして天の力を現して行ったものです。私は何一つ、このようなことを自分で予想したとも、自分の力でやったともいっていません。すべて天の思いのままに、私がそれを行ったということに過ぎないからです。

しかし、このようなことが起きているのは事実です。この事実は事実として認め、ご協力いただけないでしょうか。そうしないとよくないことが起きるだけでなく、今この世に生まれてきているほとんどの人が不合格者ということになり、それではこの世に生まれてきた意味がないのです。

この辺りの人は、私などがいたから、これ以上の不幸はないと思っている人が多いと思いますが、とんでもありません。心の修行を考えるのであれば、これ以上の幸運はないのです。普通ではとてもやれないような勉強をしているからです。(この辺りに異常なことが起きているとしたら、そのような体験自体普通ではできませんもんね。そのような体験は、考えられないほど心の勉強になるのです)

せっかく唯物無神論は間違いで、唯心有神論が正しいのではないかと気づいたのですから、もう一歩進んで神の運動を手伝われたらどうでしょう。

そんなことやらなくてもいいといっている人に何の根拠もないのです。何の根拠もなしにそういっているに過ぎないのです。

いい加減、神の存在をその力を認められたらいかがでしょうか。

追伸…不合格者といえばどこかのおネエちゃん最近静かですね。(やりようがなくなって動けないとか〔笑〕)あまり意固地だとツキもなくなります…というか少しツキが落ちてきたんじゃないですか? もしツキが落ちてきているというのであれば、その意味お分かりになると思います。あなたから天が離れかけているということです。(そういう人何人か見てますし)このまま心を変えようとしなければ、イッツタイム何とかかんとかと河村市長がいっていましたが(すいません河村市長ほど博学じゃないもんで…)その時だと思います。

私は天の意志に従うのみです。どうですか、きれいなお姉さま方、やる気のある方みえませんか? 神の運動のやる気のある方を今度は天が指し示すかもしれません。そうなればその人に大きな使命が下りることになります。時間あわせなどやっていたところで何の意味もありません。(あんまり遊びがなくてもいけないと思い付き合ってはいますが)

やる気のある方を求めています。

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3月 23 2013

本当の教え

正法会だった方もこのブログを読み始められたようですし、どこかの高橋先生のダメ弟子たちも、相変わらず読んでいます。これからこのブログは、高橋先生や園頭先生の弟子だった人たちも読むようになるでしょう。なぜなら他に法が書かれたものがないからです。

いくら、そのような人たちを指導している指導者が、あれはサタンが書かせているのだから読んではいけない、といおうと、そのようなことをいう人たちは法を説けていないのです。多くの本当の神の教えを知りたいという方々は、そんな偽の教えを、いつまでも聞いていることに満足できなくなるのです。

やがて、そのような方々はこのブログに気づき、ここにしか本当の教えが書かれていないということを知るでしょう。それは自分たちが指導を受けている指導者たちが、何一つ現象を起こせないということに、このブログを読めば多くの人が気づくからです。自分たちが指導を受けていた人は口だけであったと分かるからです。

これは、それ以外の宗教をしている人たちも同じでしょう。自分たちがやっている宗教は間違いだと思うのは勇気がいることだと思います。(それまでずっとその教えを信じてきたのですから。それに間違った教えは、この教えに背くと罰が当たると教えますから)

しかし、その教えは間違いだと認めるべきでしょう。なぜなら、どのような教えを、その宗教指導者が行っていたとしても、その人は口だけなのです。口だけであるならば、その人は宗教の指導者としては無能なのです。奇跡一つ起こせないのであれば、その人は宗教の指導者ではなく、それらしいことをいって、信者から金を取り騙し続ける詐欺師といっても過言ではないのです。

本当の宗教の指導者とは釈尊、キリスト、モーゼといわれた方々、またその弟子であった方々のように、次々に奇跡が起こせる人ではなければならないのです。天の奇跡がそこかしこに現れてくる人でなければならないのです。

そのような奇跡の現象が次々に起きる、そのような人こそ正しいことを説いている人なのです。本当の神の教えを説いている人なのです。

一度や二度、何か奇跡的なことが起きたことに大騒ぎしている、そんな指導者では話にならないのです。(それくらいのこと、普通にまじめに生活しているだけでも起きるからです)

その神の教えにせよ、私のように毎日このようなブログにその教えを書き、発信している人が他にいるのでしょうか? せいぜい一週間か十日に一度、それらしいことを書いているのが、関の山の人たちばかりなのではないでしょうか。

その人が、本当の神の教えを説いているというのであれば、私のように毎日でもその教えを書けるはずです。「如来の智慧は、心の奥より泉のごとくこんこんと湧き上がり尽きることがない」といわれますが、まさにその言葉のごとく、本当の神の教えを書いている者は、書かなければならないことが、次々に心の奥より浮かんでこなければならないからです。

このように毎日のように法が書けて、次々に奇跡を起こせる、そのような人こそ本物の神使いであり、本当の神の教えを伝えている人なのです。

私は、そこまでいうなら現象を見せてみろ、といわれれば見せもしますし(もちろんそのようにいう人は、自分もやってもらわねばなりませんが)毎日法を説いているのかということは、このブログを読んでもらえれば分かります。

それに特別奇跡を現そうとしなくても、私の周りでは次々に現象が現れ、私のことに注目せざるをえないような状況ともなっています。(もちろんこのような現象はこれで終わりということはありません。多くの人たちが、神の教えに気づくまで続くのです)

同じ園頭先生の弟子であって、浜松で責任者までしていられた方が「大矢先生、いろいろご指導よろしくお願いします」というメールまでくれるのです。このブログを読めば、誰が本当の教えを説き、本当の神の奇跡が現れているのか、このような法をよく勉強されていつまでも謙虚な方には分かるのです。

謙虚さのかけらもない、法をまともに理解していない、どこかのオジちゃんやオバちゃんでは分かりませんが、そのような人たちでさえ、口で否定しているだけで、実際はこのブログを毎日のように見ているのです。

自分こそ本物という人がいるのであれば、私はいつでも現象の勝負をする気でいます。

誰が本当の教えを伝えそれを体現しているのか、もうそれを理解されて、協力していただいてもいいのではないでしょうか。

そうしなければ、それをしなければならないという現象はいつまでも続くのです。

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3月 22 2013

このブログの重要さ

昨日、正法会の会員だった人から電話をもらったのですが、正法会員だったといわれただけで、園頭先生のことが思い出されて懐かしくなり、その人の名前や用件を聞く前に、こちらがベラベラしゃべってしまって、後で申し訳なく思いました。(その方は浜松の方で、正法会の浜松の責任者をされていたことがあるそうです)

ついついうれしくなって話し込んでしまいましたが、また、勉強会など始められたら教えてくださいとのことでした。

今の状況では、その勉強会も、いつ始められるか分かったものではありませんが、また何か起きたようですね。

昨夜は帰り際に妙に人が歩いていましたし、ここらの雰囲気も出かける時とは変わっていました。それに近所の人で態度が変わる人が必ず何人かいますので、すぐに分かります。(これだけ続けて何か起きているのです。態度が変わらない人の方がおかしいでしょう)

急に嫌がらせをされる人とか、やめられる人とかいろいろな人が見えますので、再度いっておきますが、私に嫌がらせなどされない方がいいでしょう。それに、このブログはただで見ていいブログではありません。読まれるなら読まれるで結構ですが、私がいけないということはやらない方がいいでしょう。やってはいけないということをやっていて、それで何か起きて私に文句があるような態度を取られても、私もどうすることもできません。

何度もいいますが、私のいうことを信じるなら信じる(信じるのであれば、ここでいっていることを実行してください)信じないなら信じない(それなら何が起きても、それは偶然起きた、たまたま起きたと思われ、私が何かここに書いても「こいつ頭がおかしいのではないか。こいつが祈ったり何か書いたからといって、それが起きたわけがないだろう。偶然起きただけ」と、私の祈りも書くことも一笑に付されて、私の相手などしなければいいのです)どちらかにされた方がいいのではないでしょうか。

中途半端なことをいつまでも続けていても、現象は収まりません。いい加減態度をはっきり決められたらいかがでしょうか。

昨日も金山に行けばヘリはついてくる、何人かの連中には嫌がらせをされると、進歩のないことが続いています。私も、もうこのような状況はたくさんですので、何かあれば即座に祈ります。(何が起きてるのか私全然知りません。だから遠慮なく祈れます)

今のままでは、まるで道が開いてこないのです。どれだけブログを書いても誰も動こうとしないのです。では、もう私には祈るしかありません。祈って天に道を開いてもらうしかないのです。だから片っ端から祈れるだけ祈ります。何か私におかしなことをするのならそれも自由ですが、私から徹底的に祈られる、その覚悟だけは持ってそのようなことをされる人はしてください。

皆さん私のいうことをちっとも聞こうとしませんが、しかし、私のいうことがそれほど軽いことでしょうか?

安倍総理の件でもそうですが、私は安倍総理が総理になれば日本がよくなることを、もう二年近く前から知っていたのです。だから一昨年の六月に、一年おきに総理が代わった中で、一人飛びぬけてよい政策をした人がいる、それが安倍さんであった、というブログを書いたのです。

偶然そんなブログを二年も前に書くでしょうか?(しかもあの時は民主政権でした)それにその後も、自民党の総裁選が行われている最中に、私は安倍さんを総裁にしなければいけないということを、再三このブログに書いているのです。そうして、安倍総理が自民党の総裁になった時、安倍総裁が総理になれば日本は復活するとも書いているのです。

安倍総理が総理になる前に、安倍総裁が総理になれば日本は復活する、といった人は私以外にいません。

デフレが二十年も続き、不況も深刻だったのですから、そんなこと分かる人いるわけありません。経済評論家やら大学教授やらいわれる人でも、そんなこと誰も分からなかったのです。(私がそれをいったいわないではなく、文章として残っているんですから、これほど確かなことはありません)

当然でしょう、このような人たちがどれだけ頭がよくても、心の勉強をしていないのです。この世のことしか分からないのですから、そのような状況で先がよくなる予想などできるわけがないのです。

しかし、私は、安倍総裁が総理になれば日本は復活する、それは安倍総裁は天が望んでいる人だからです。だから安倍総裁が総理になれば天が協力します、とこのブログに何度も書いたのです。

そう書いたとおり、安倍総理が総理になったとたん(正確にはその少し前からですが)円安株高となり、一変に景気も回復基調になって、そればかりか最近ではメタンハイドレート(このメタンハイドレートの件は、実は高橋先生が話していられたのです。日本の周りの海には百年分くらいの天然ガスが埋まっていると。ニュースでいっていることと、高橋先生がいわれていたことが、あまりに同じだったので驚きました)やレアアースまで、日本近海に眠っていることも分かり、安倍総理はついているとか、運がいいとかいわれますが、そんな言葉では言い表せないほど、よい方に日本が向かい始めたのです。

このような状況は、人智を超えた何か偉大な力が加わっている、安倍総理に力を貸している、と思われないでしょうか。

このようなことを天が力を貸すというのであり、私のいったとおりになっているではありませんか。

このような安倍総理のことだけでなく、気候の件でもそうです。私のいったとおりのことが何度も起きて、そればかりか、この辺りに起きている恐ろしい現象も、私がいったとおりのことが起きているのではないですか?

ここに書いていることは、そんなに簡単に無視できることでも、聞かなくてよいことでもないのではないでしょうか。(次々にここに書いたことが起きているのですから)

このブログを読んでる皆さんがいつまでも、ここに書いていることを無視しているため、せっかく日本の景気がよい方に向かいつつあっても(これは安倍総理の仕事です。安倍総理には協力者がたくさんいますから)天気が相変わらずの異常気象で(現在も北日本は異常な大雪、それ以外のところは、三月としては観測史上最高の気温になったりで、異常なほどの寒暖の差が激しいです)現在の日本はアンバランスなことになっています。

このアンバランスな日本の状態は、一方は天の望むことが行われていて(安倍総理の自民党内閣)もう一方が天の望むことが行なわれていないため、起きている現象なのです。

もちろんもう一方とは、この神の教えが拡がっていないということです。つまり、この教えを多くの人が実践し行えば、天気も安定しだして、日本全体がよい方に向かうということです。(つまり私への協力者が増えればいいのです)

ここに書くことは、そんなに軽いことではありません。このブログの重要さを多くの人がもっと認識すべきなのです。

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3月 21 2013

真の努力

私たちは、何万回も何十万回も何百万回も輪廻転生を続けている魂であり、ある時は武将に生まれ、ある時は百姓に生まれ、またある時は政治家に生まれ、ある時は社長に生まれたりして、様々な国に生まれていろいろな体験の中で、魂を磨き神の心を学ぶのです。

私たちは決して社長になるためだけに、あるいは有名なタレントやスポーツ選手になるためだけに、生まれてきているのではなく、そのような体験を通し自分の心を向上させるために、今そのような立場にあるのです。

たしかに、そのような立場になるために、それぞれの人がそれぞれの努力をされたという、その努力は評価されても、そのような立場がその人の目的の地なのではなく、あくまで過程であるということです。

その人はそのような立場になって、初めて自分の本当の修行が始まるのであり、そのような立場になってどれだけ神の心を具現することができるか(慈悲と愛と調和をどれだけ実践できるか)そこからが本格的な自分の心の修行となるのです。

それなのに、そのような立場になっただけで慢心し、増上慢(ぞうじょうまん)な態度を取っているようでは話にならないのであって、この世の地位や立場が高い人が心の高い人なのではなく、人はそのような自分で決めてきた立場、立場で、自分の心を磨くよう計画して生まれてきているのです。立場の高低で人としての貴賤の差などまったくないのです。

そうであるならば、現在の自分が社長という立場にもしあるのであれば、会社のこと社員のことを家庭や家族と同様に考えて接することができれば、その会社には奇跡が起きるでしょう。(私は前に神の愛とは親子の愛と書いたことがあります。そのような親子の愛を、社長が社内で実践されるのであれば、その会社に神の光が下り奇跡が起きるのです)

また、社員は社員で自分の立場を考え、社長にへりくだった態度で望むことは当然のこととして、何をいわれても感謝の心を忘れず仕事を続けるのであれば、その人に奇跡が起きるでしょう。そのような仕事を与えてもらってありがたい、そうしてそれで報酬をもらって自分が生活することができてありがたい。そのような心を忘れないのであれば、その人に奇跡は起きるのです。

このような心を忘れず、自分の生活を続けていくのであれば、その人の生活はそこかしこで奇跡が起き、何か運がいいとか、ついている、という形で自分の本当の進むべき道がついて、幸運な人生を歩むことになりますが、社長という立場になっただけで、傲慢になり自分は一番偉いと勘違いして、人の意見は聞かない、失敗は許さない、自分の命令に背くものは首などど、愛も慈悲もない態度を取り続けているのであれば、やがてその人はその座を追われ、哀れな末路をたどらなければならないのです。それは社員も同じでしょう。不平不満ばかり口にして、不足ばかり思っていては幸せな人生など送れないのです。

また、そのような態度を取り続け、仮に一生を社長という立場で終わったとしても(社長をすると決めて生まれてきた人は、どういう立場をとっても、社長のままで一生を終わるという人もいます。自分がそう決めてきているからです。社員も同じです)自分がした無慈悲な態度を死んだ後、徹底的に反省させられることになるのです。

社長であれ、社員であれ、また有名人であれ、その人のファンであれ、その立場立場で人それぞれの心の修行をしているのです。その立場で周りにどれだけ愛を出すことができるか、それが自分の心の修行となるのです。

“男子三日会わざれば刮目して見るべし”という言葉がありますが(この言葉は男と三日も会わなければ、目をこすってよく見ろ、注意して見ろという意味ですが)三日で人は変わらなくても、半年一年もすれば、前よりはよほど進んだ慈悲の深い人となっていなければならないのです。

いつまでたっても(例えば、慈悲も愛も感謝の心もなく、不平不満ばかりいって、人のことを怒ったり、ねたんだり、ひがんだりばかりしている)同じようなことを続け、同じ失敗を繰り返しているようでは、この世に生まれてきている意味もないのです。

自分が短気なようならできるだけ怒らないようにする、人が何かすればすぐひかんだりねたんだりするようなら、人のやることなど気にしないようにする、人の上に立つ立場になっているのに、下の者の面倒見が悪いようなら、できるだけ下の者の面倒を見るようにする、そのように、自分が不得手なものを得手になるように努力する、これが自分の心の向上につながり、心を広く大きくする、神の心にまた一歩近づくことができる、真の努力ということであり、世間体に受けがいいことばかり(自分の人気が上がるようなことばかり)努力していても、そんなものは何一つ心の向上にはつながらないということを知るべきでしょう。

真の努力とは変な打算がない、自分の人格向上を目指し、人のためになることだけをする、そのような努力こそ、本当に自分自身のためになり、自分の心を神の心に近づけることになるのです。

そのためには、いつまでたっても同じことを同じように続けているのではなく、自分のためだけでなく、世のため人のためになるには、どのようなことをすればいいかを常に考え行うことです。

そのような考え、これっぽっちもないという人が多いように思います。(へたすれば自分のことも考えず、ただ毎日を過ごしているだけの人もいます。何のための人生でしょうか)

しかし、よいことをしていれば奇跡が、悪いことをしていれば(それは進歩のない人生も含みます)災いが、すぐに現れる時代となっています。

そのような時代だからこそ正しい人とそうでない人はよく分かるのです。奇跡が次々に現れる人こそ正しい人であり、真の努力を続けている人といえるのです。

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