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2012年9月

9月 07 2012

天罰

仙台が十八日連続で真夏日になったそうで、これは観測史上初だったそうです。

そのニュースを観て思い出したのですが、そういえば一ヶ月ほど前、その仙台の人から電話で賛助会員になります、という連絡をいただいたのですが、結局その人それっきりで賛助会員にはなっていただけませんでした。(涙)あらら…そのせいですね、この仙台の連続真夏日は。

マァ分かりませんが、どちらにしてもこんなこと後から書くと、またどこかのオジちゃんやオバちゃんに笑われます。(まだこの人たち私のブログ読んでるんです。最悪です〔涙〕)

先にこのようなことは書いておかないといけませんね。天が、どういう現象を現すか分からないからです。それが法の証明ともなるからです。

ということで、せっかくですから、私に嫌がらせしている人たちの名前もここに書いておきましょう。(その人たちに何か起きれば法の証明になりますから…もうすでに起きているのかも知れませんが)

どちらにしても市営バスとか名鉄バスとか、その連中が嫌がらせをした、とこのブログに書いてしまっていますので、その人たちだけ書いて(毎日のようにそれをしている)他の連中は書かないというのも不公平です。具体的に会社名とか挙げておきましょう。(市バスの人たちを書きっぱなしでもいけませんので、続きを書いておきますが、確かに市バスの運転手の人たち私を見てもシュシュやる人は減りました。〔もしかして私のことほとんどの人が知ってるんでしょうか?それはそれでやばいです・汗〕しかし、まだやってる人はやっています。その人たちはしっかり祈りますので、それはご了承ください。〔皆、心の段階が違いますので絶対にこういう人はいます。しかし、そういうことやる人必ず顔を隠すんですようね…ハハ笑ってしまいます。顔をどれだけ隠しても天はすべて知っています。祈ればそのやった人に確実に作用します。人に何かすれば、それは自らに必ず返るのです。どれだけコソコソやってもみっともないだけです。やるなら堂々とやられたらどうですか?その方がまだ男らしくて潔いです〕)

神が人に罰を与えるということはありません。(神は愛と慈悲の塊りの存在なのですから)しかし、気づきは与えます。それが天罰のように見えるのかもしれません。よくないことを続けていれば、よくないことが自分自身にも起きてきます。そのようなことを多くの人に知ってもらうよい機会だと思っていますので、祈れるだけ祈り、そのような人たちを天にゆだねます。(祈られるのがいやなら、くだらないことしなければいいのですし、別にその人が悪いことをしていなければ、悪いことが自分に返ってくることはありません。ですから私が祈って悪いことなど一つもありません。ほんと多くの人に感謝してほしいくらいです)

そんなわけで私に嫌がらせしている方々は、堂々と名乗りを上げてそうしてください。(笑)その方が潔いですし、ここに正確に書いておけますから。(よく考えたら、私に嫌がらせしている連中の会社名よく分かりません。〔あんまり社名が書いてないような建屋でやってる連中がやってきますので〕ただ一つ分かっている会社は、私の家の前にある「オオシオ」という会社です。この連中は私がブログ書いているのを毎日のように邪魔してきますからね…何かこの会社に起きてるようですが、この人たち勘違いしています。本当に恐ろしいことが起きるのはこれからなのです。それほど神の使いが法を多くの人に伝えるのを邪魔する罪は重いのです)

私に嫌がらせする会社の連中は、これからドンドンここに会社名を書いておきます。どなたがこのブログを読んでいるかは知りませんが、それはご了承ください。(それが困るならくだらないことしなければいいのです)

ずいぶん前置きが長くなりましたが(長すぎです)誰からも“祈ってください”というメールが入ってきませんが、それでよろしいんですか?先ほども書きましたが、私の祈りは何一つ悪いことなどありません。(すべて人のためになります…マァ正しい祈りは誰が祈っても人のためになるのですが)ダメもとで誰かメールいただけないでしょうか?

関東、東北は昨日は雨が降ったようですが(それがまた全国的に極端な集中豪雨で、狭い範囲に集中して短時間に多量の雨が降るものですから、その地域は一変に水があふれ冠水の被害にあいます。昨日の福井もひどかったですね。これがもっと長時間でしかも広い範囲に降ってくれれば皆助かるのですが…このようなところにも現在の日本の人たちの心が現れています…ほんと残念です)天気予報を見ると、当分関東、東北地方にはまとまった雨が降る気配がありません。

少しでも慈悲や愛のある方はメールをください。困った時の神頼みではありませんが(現実に雨乞いしていたとこありましたよね)このままでは関東、東北の人たちの生活はもちろんのこと、そこにある企業や農家なども大きな被害を受けます。

少しでも人のためになることならやった方がいいですし、どんなことでも世のため人のためになることは、それが成功する、しないにかかわらず、その心と行いが自身の徳となり、結局自分が一番得をえることになるのです。自分がその地域に住んでいる、いないにかかわらず、よいことは積極的に行うことが一番自分のためになります。(そういう意味では先に書いた人たちは〔神の運動を邪魔しているのですから〕一番自分のためにならないことをしているということです)

よいと思うことは積極的に行う、これが一番大事なことなのです。

(しかし、このブログ関東の人たちも読んでる人多いと思いますが、まるで他人事ですね。そんな態度で大丈夫ですか?)

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9月 05 2012

正しく知ることの大事さ

前回、前々回のブログの補足をもう少ししておきますが、なぜ如来の弟子たちの人柄を正確に知らないといけないかと申しますと、結局、神格化された弟子たちしか知らないと、多くの人があの人たちは別格と思ってしまうからです。それがいけないのです。

もし、そのように如来の弟子たちを思ってしまうと、その弟子たちと同じ修行を仮にしたとしても、あの人たちのようにはなれない、あの人たちに追いつくのは永遠に無理であり、自分みたいな者が修行を積んでも知れたものだ、という諦めの気持ちが先にきて、実際は修行が進んでいても、いつまでたっても自分はダメだというイメージを持ち続け、よくなったという実感がわいてこないからです。

しかし、本当の弟子たちの姿を知っているのであれば、あの人たちも私たちと同じように悪いところがあったが、それをよく反省され、心と行いを変えることにより克服し、それであのような歴史に名を残す偉人になれたのだ、と思えるし、そのように思えれば修行する気も出てきて、修行が進めば自分もよくなったという実感もわいてきます。

ですから如来の弟子たちの人柄を正しく知るということは、あの人たちも自分たちと同じ人間であったが、如来の教えを実践することにより、歴史に名を残す偉人となられた、それなら自分たちもやれるのではないか、という自分の身近な手本と目標とすることこそ、本来の正しい思い方であり、だから、神格化された弟子たちを、そのまま信じていてはいけないのです。

このように、如来の弟子たちの人柄を正確に知るのであれば、それを基準として自分は今どれくらい修行が進んでいるのか、まだ文殊や普賢程度なのか(ということはまだ口だけでしか法を知らない、まるで実践ができていないという意味です)それとも十大弟子くらいにはなっているのか(十大弟子とはいえピンキリです。舎利弗のように飛びぬけた弟子もいれば、ウパリ、ラフラのように努力だけでそこまできたという人もいます)大体の基準が分かることにもなり、また弟子たちを目標に修行が進むということにもなるのです。

これこそ宗教上の人物の正しい見方であり、そのような見方をするのであれば、自分たちの修行もより早く正しく進むことになるのです。

如来の弟子としての修行がより早く正しく進むのであれば、その人は必然的に歴史に名を残す人物となります。

例えば今年の夏は、異常な猛暑でよく雨が降った割には、渇水で困っているところもあるという、極端な天気になっています。(もちろん法を知る人が多く出てくれば、このような極端な天気も収まりますが)この渇水で困っている地域にだけでも雨を降らせることができれば、その人は偉大な人物と言われないでしょうか?

如来の教えを実践し修行が進めば、そのようなことも可能になってきます。

雨が降らずに困っている地域に雨を降らせることができれば、その地域の人は助かるでしょう。また、難病、奇病で困っている人が、その難病、奇病が治ればその病の人は助かるでしょう。悩みばかり多くて自殺しようとしている人が、その悩みを解決できれば、その悩んでいる人は助かるでしょう。

このようなことすべて、如来の教えを知るのであれば解決できるということです。如来の教えに解決できない問題などないのです。如来の教えの通りに心を変えることができるか、できないか、この一点だけなのです。それが幸福になるか、不幸になるかの分かれ道なのです。

宗教上の人物を正しく知るのであれば、そのようなことも分かってきます。(釈尊、キリスト、モーゼ、そして他の預言者といわれる人物たちを正確に知れば、このような問題はすべて解決できる、ということは分かられると思います)

このように、すべてのことにおいて“正しく知る”ということがいかに大事なことなのか、お分かりいただけると思います。

これまでの神格化された言い伝えを、いつまでもありがたがって信じていても進歩はありません。本当に正しいものは何なのか、その強い探究心と行いが正しい道へと導くのです。

追伸…関東、東北の水不足はかなり深刻なようですね。(秋田県のダムなど過去最低の水量になったところもあるとか)どうですか、どなたかご連絡いただけませんかね。(祈ってくださいと)

連絡いただければ祈りますよ。

その祈ってから十日以内くらいで、まとまった雨が関東、東北に降ればその降った地域や量にもよりますが、お気持ちだけご寄付いただければ結構です。たいして降らなければもちろん寄付はいりません。(このままたいして雨が降らない状態が続けば、あちこちに大きな影響がでてきます。それは誰でもお分かりいただいていると思います)

別に無茶な話でもなんでもないでしょう(たいして降らなかったらお金はいらないといっているのです。詐欺でもなんでもありません。善意そのものです)少しは世の中のことも考えられたらいかがですか?(それに関東や東北の方は自分たちも困りますよね)

きれいなオネエ様方はどうでしょう?ここは人柄のいいところを見せるチャンスです…残念な人柄の子もいるのだし(笑)

メールお待ちしています。

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9月 03 2012

意地とプライド(と前回のブログの補足)

どこかのオジちゃんやオバちゃん、何度も、もうメールはしないと言いながら、またしばらくするとメールしてきますからね、よくあれだけ適当なメールばかり送れると呆れてしまいます。

なぜこの人たち、こんなに繰り返し同じことをしているのかと言えば、それは私のブログを読み続けているからです。それも毎日のように。(だから自分が気になることを書かれると、我慢できなくなってメールしてくるのです…名前とメルアドを出せば、これだけ遠慮のないメールは送れないのでしょうが、名前とメルアドを隠して送ってきますからね、言いたい放題です。まるで子供のようですね〔笑〕)

しかし、いくら高橋先生の名前を出しているとはいえ、毎日読むのは読みすぎでしょう。(ブログの更新を毎日しているわけでもなし)

何でこの人たち、これだけ読んでいるのかといえば、結局、ここに法が書かれているということを知っているからです。だから毎日のように私のブログを繰り返し読んでいるのです。(他に法がしっかり書かれたものはありませんからね〔もちろん高橋先生と園頭先生の本以外は、ということですが〕私のブログを読み法の勉強をしているのです。違うというなら私のブログ読むのやめてみなさいよ、特に立川のオバちゃん、あんた私のブログ読むのやめれますか〔笑〕)

他に法を説ける人はいませんからね、法を知っている人が、私のブログを毎日読むということは仕方がないことなのです。(法を知っている人ならば法の勉強はしたいですから)

なら、教えてください、と言えばいいと思うのですが、これが言えないのです。これまで自分も法を勉強してきている、自分の方が法をよく知っている、という意地とプライドがありますから、素直に教えてくださいとは口が裂けても言えません(笑)どれだけ目の前で差があることを見せ付けられても、それを認めることはできないのです。意地とプライドとはそれほど厄介なものなのですが、これは、このような高橋先生の弟子たちばかりではありません。

実は私のブログを読んでる人たちも同じなのです。

私のブログを読んでいる他の人たちも、どれだけ目の前で現象を見せられても、それを心から認めようとはしません。心からそのような現象を神の御業と認めるのであれば、何度も言いますが、もっと神と真剣に向きあい、神の使いに対して真摯な態度を取るはずです。

しかし、ほとんどの人は態度を変えようとしないか、または遠くからだまって見ているだけで、自分の行いを変えようとする人はいないのです。これも同じですね、意地とプライドです。

自分たちは昔からこのようにしてきた、それが正しいのであって、それ以上態度を変える必要などない、という思い込みだけで、これだけ異常な現象が次々に現れているにもかかわず、自分たちの心と行いを一切変えようとしないのです。

私がいくらそれではいけない、とこのブログに書き、その書いた通りの現象が起きても、それでも自分たちの考えは変える必要がないと、何の根拠もなしに思い込み、そのように警告を与えている私を、敵視している人までいるのですから呆れてしまいます。

誰も神の心を知ろうとしないのです。誰も神に真摯に向きあおうとはされないのです。しかし、そんなものはただの自分の意地とプライドだけなのです。

意地とプライドだけでしょう(それとも自分のしていることは正しいという根拠がある人がいますか)ただ、昔からこのようにしてきた、あるいはそのような生活を続けていたのだからそれでいい、死ねば無になるのだから、今を楽しく、死ぬまで健康に生活ができればよい、とそう思っているだけで、死については怖いのでできるだけ考えないようにして、自分のやりたいことをして生活を続けているだけなのです。

しかし、そんなのは自分のわがままとごまかしの生活だけだと思いませんか?

今以上に進歩しようとは考えず、死は誰一人逃れることができないはずなのに、それを何も考えないようにして、死の話をすると不吉だなどといい、ほかごとを考えていても最後は誰も死ぬのです。

死は誰もが逃れられないのであれば、では、死後の世界はあるのか?あるとしたら自分はこのままの生活でよいのか?この世はなぜ存在するのか?私たちはこの世に出てくるまではどこにいたのか?疑問に思うことなどいくらでもあるのです。それを今のことだけ考え(あるいは自分の将来のことだけ考え)それ以外の疑問難問は何も考えないように、生活しているだけの人など、人生をごまかして生きているだけの人だと思わないでしょうか。

つい最近、南海トラフ大地震が起きれば、地震と津波で最悪三十二万の人が死ぬという被害想定がされました。こんなことが起きれば、自分たちの生活をいくら続けたいと願ったところで、できなくなるのです。

現実の世界の恐ろしさ、そしてもろさをもっと考えないといけないのです。

くだらない意地とプライドなど捨て去らないと真実の世界は見えてきません。

いつまでも昔からの生活に固執し、ごまかしの人生を送っていても無駄なだけです。

神からの警告が次々に現れている現代、神の心を知ることの大事さをもっと自覚してください。

(前回私が書いたブログで、釈尊やキリストの弟子たちのことを悪く書きましたが、それを〔おまえや園頭先生だけが正しいのかと〕よく思っていない人もいられるようですので、前回のブログの補足をしておきます。前回私が釈尊やキリストの弟子たちを、悪く書いたあのような書き方は間違いではありません。事実です。弟子たちはよく書かれすぎているのです。その理由は釈尊やキリストが神格化されているのと同様に、弟子たちも神格化されているからです。〔現在の日本で開祖といわれる人たちも同じです〕しかし、それは聖書など読めば分かられると思います。キリストの弟子たちの華々しい活躍は使徒言行録以降の話で、四福音書に出てくる弟子たちはヘマばかりしているのです。〔キリストの例え話の意味が分からずキリストに聞いてばかりいますし、くだらないことで言い争いをしたり、悪霊を祓いきれなかったり、自分が死ぬことになってもキリストを裏切らないと言いながら、イザとなったら全員逃げ出してしまったり〕このような弟子たちを立派だと思われるでしょうか?使徒言行録が書かれていなければ、キリストの弟子たちを立派だと思う人はまずいなかったでしょう。現実にキリストの弟子たちはそのような人が多かったようです。言行録での弟子たちの活躍は、天上界からのキリストの導きとキリストの力を分け与えられた〔あの最後の晩餐の時にです。あの時キリストは自ら弟子たちにパンやワインを分け与えられますが、その時自分の力も弟子たちに授けたのです〕からできたのであり、弟子たちの単独の力ではありませんでした。私たちはそれを高橋先生や園頭先生から聞いているのです。だから釈尊やキリストの弟子たちを冷静に見るのであれば、前回私が書いたような少々きつい評価にもなるのです。〔それは今生生まれ変わった弟子たちをしれば分かります〕いずれ前回私が書いたブログは正しかったのか、正しくなかったのかは分かることになります。〔そのうちに今生生まれた弟子たちのダメさが、白日のもとにさらされることになるからです〕これまでの釈尊やキリスト、またその弟子たちに至るまで、かなりの神格化がされていて、実際の人物とはかけ離れた評価を受けている者も少なくありません。しかし、そのような宗教上の人物を正しい評価に戻すということも、正しい教えを伝える中に含まれているのであり、宗教改革とは、その宗教上の人物も正しく評価し〔正しく伝え行ったことはもちろんですが〕その人物がどのような間違いを犯したかということも、正しく伝えていかなければならないのです。〔それが後世の人たちの参考ともなれば自戒ともなるからです〕正しく伝えるということは、すべてにおいて正しくなければなりません。正しい評価を受けていない弟子たちを、正しいとは私には書くことができませんでした。それが前回あのような書き方をした理由です。それをご理解ください)

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9月 01 2012

法を説く者が他の仕事をしてはならない理由

今度は福岡のオジちゃんですか、コロコロコロコロよく代わりますね(打ち合わせ大変でしょう)オジちゃんに言っておきますが、あなたたちは表面しか見えないのですから、園頭先生に対し、そのような見方はやめた方がいいと思います。(園頭先生がなぜ寝たきりになられたのか、あなたたちはその真意がまるで分かっていません。あなたたちが言うように園頭先生がもし間違っていたのなら、何で園頭先生は寝たきりになられるまで奇跡を〔その主は癒しですが〕起こし続けていられたのですか?あなたたち始め他の先生と言われている方々は、なぜ、奇跡一つ起こせないのですか?いい加減その意味理解しなさいよ、あなたたちが間違っているからです)

ほんとバカにつける薬はないと申しますが、立川のオバちゃんもギャグのようなコメントを送ってきましたので、仕方がないので寄付をもらうことは正しいのか、正しくないのか、もう一度書いておきましょう。

しかし、こんなバカバカコメントでも送ってくれるから、このブログ書けているということはありますね、そこは感謝しないといけません(笑)いろいろネタを提供してくださりありがとうございます。(私以外このブログ見てないって、福岡のオジちゃんとあなた、最低二人はあなたのグループの人私のブログ見てるでしょう。嘘ばかり言っていては地獄に堕ちますよ…あっ、どっちみち地獄行きですね、あなたたちは)

この人たち、やたら私が寄付をもらうのはいけない、寄付をもらうのはいけない、といいますが(でも桂子さんはOKなんでしょ〔笑〕)高橋先生が主宰されたGLAでは寄付をもらっていたはずです(これは否定されませんよね)では、高橋先生は寄付をもらうことを許されていたということになりますが、これはどう説明されるのでしょうか?

あなたたちは寄付をもらうのはいけない、と言われますが、高橋先生は寄付をもらうのは許されていました。この説明をしてください……と言ったところで、どうせこの人たち適当なことしか言いませんので、高橋先生の真意を私が説明しておきます。

高橋先生はたしかに「私は宗教で飯など食べません」とも言われましたし「今生の光の天使は宗教で飯など食べません」とも言われました。

この言葉をそのまま受け取っているのが、どこかのオジちゃんやオバちゃんであり、その人たちのコメントにある00先生やら××先生やら言われる人たちです。

しかし、過去の預言者と言われる人たちは、そのようなやり方をしていません。人々から布施をもらい法を説かれたのです。では、なぜ、今生だけ高橋先生はこんな言い方をされたのでしょうか?

それは、これから生まれることになる日本の時代背景を知っていられたからです。

私は前回のブログに、その時代、その時代にあった説き方をしないといけない、と書きましたが、高橋先生は今生生まれることになる日本では、間違った教えを説く宗教家が跋扈し、何も知らない人々から金を巻き上げ、偽の教えを本物の教えと偽り、多くの人を不幸にしているということがすでに分かっていました。

それで、そのような偽りの教えを説く宗教家と一線を画すため、方便でこのような言い方をされやり方をされたのです。

それともう一つの理由は弟子の未熟さでした。今生共に生まれる弟子たちは、過去世で釈尊やキリスト、モーゼの弟子であった人たちばかりでした。聖書や仏典など見るとたいそう弟子たちも立派に書かれてありますが、しかし、実際はそれほどでもなかったということです。(その、それほどでもない弟子たちの実力が、今生まともに現れるのですが…大失敗という形で)

実際に仏典や聖書を見てもそれは分かります。舎利弗や大目蓮などの十大弟子と共に、普賢や文殊といったバカ弟子まで仏典に遺されていますが、これは釈尊滅後の弟子たちが、こういう勝手なことを言うバカ弟子をそのまま放置していた結果です。(もちろん舎利弗はこの時いません、舎利弗は釈尊より先に亡くなっていますので…舎利弗がいれば、そのような勝手なことを言う弟子たちを、そのままにはしておかなかったでしょう。徹底的にその弟子たちを批判し、十大弟子との違いを世の人々に訴えたと思います。それは今生の園頭先生を見れば分かります。高橋先生の名を利用して偽の教えを説く者たちを徹底的に批判されました)そればかりではなく、後に残された弟子たちが、迦葉を中心として釈尊の教えを後世に遺しますが、この弟子たち、この時すでに釈尊の教えとは違うことを言いだし(釈尊が言われていなかった戒律やらなにやら言い出したそうですが)それが後に小乗だの大乗だの、仏教の教えが分裂することになる原因をつくるのです。

釈尊の弟子とはいえ当時から、舎利弗一人が上根の弟子(じょうこんのでし・上等の素質)といわれ、飛び抜けて評価が高く、それ以外の弟子たちは、せいぜい中根以下の人たちばかりと言われていましたので、舎利弗以外、それほど優れた人たちはいなかったようです。

キリストの弟子たちも同じです。

キリストの弟子たちも、キリストが官や民衆に捕まるやいなやキリストを置いて逃げ出し、一番弟子と言われたペテロさえ、キリストを三度も知らないとしらを切るのです。(弟子たちが、キリストの福音を述べ伝えるようになったのは、キリストが十字架にかけられ昇天された後、復活〔これは霊体のキリストが弟子たちの前に立たれたのですが〕されたキリストに促されて、はじめて命懸けで福音を伝え始めたのであって、キリストが復活されなければ、後のキリストの弟子たちの活躍はなかったと思われます…ということは、キリストが復活され、弟子たちに福音を伝えることを促さなければ、今生のような惨憺たる結果〔如来が出世されたにもかかわらず、まったく法が世に伝わらない〕になっていたかもしれなかったのです)

このように釈尊やキリスト亡き後の弟子たちを見れば、一歩間違えれば今生と同じような結果になっていたかもしれないのです。つまりそれは弟子たちの未熟さの現れでした。(それに法を勉強していくと、キリストが直に語られた福音と、弟子たちの語る福音では、少し意味が違っているのではないか、と思える箇所も分かってきます。キリストの弟子の中でも特にパウロはひどいです)

そのような弟子たちの未熟さもあり(とても法を説いているだけでは心が成長していかないので)それで社会勉強もしながら法を伝える、というこれまでにない修行の過程をかして、今回修行をさせたのですが、見事にどの弟子も失敗してしまったというわけです。

簡単にいえば以上のような理由から、高橋先生は「私は宗教で飯など食べない」といわれたのです。

しかし、これは今生だけの特別な理由からそういわれたのであり、本来は法を説いてそれで人々から布施をもらい生活する、といのが法を説く者としては当たり前のことなのです。過去、釈尊もキリストも他のどんな預言者もそうされたのですし、法を説いて奇跡を起こし、それで他の仕事までするなど普通ではしません。(神の使いなら仕事をしている時間を人を救うために使うからです。この世のすべての時間を人を救うために捧げるからです。つまり、神の使いからすれば仕事をしている時間など、無駄な時間でしかないのです)

以上のような理由から、そのような未熟な弟子たちに当てはまらない園頭先生は、法を説くことだけに専念され、布施をいただくことで生活をされました。それが間違っていなかったということは、その後の園頭先生が現された数々の奇跡が証明しています。

私も、このような偉大な方々の後を継ぐ者として、法を説いて布施をもらうことだけで生活していきます。これも間違いでないということは数々起きる奇跡が証明しています。逆にいうなら、私が他の仕事など始めれば奇跡が起きなくなる、ということです。法を説くことをそっちのけにして金儲けをしているからです。天の意志とは逆のことをするのですから、天の協力が得られなくなるのです。(それは自分の生活をするためでもだめです。この法を説くことでお金を得られないというのであれば、それは世に法を伝えられないということになりますので、法が伝えられないのなら餓死しろ、ということです…現段階では餓死する確率の方がずいぶん高いです〔涙〕)

このような理由から私は他の仕事をしないのです。お分かりいただけたでしょうか?オジちゃん、オバちゃん、あなたたちがそのように仕事をしながら法を学ぶ(現状まったく勉強になっていませんが)というのは、間違っていません。しかし、それはあなたたち(他の何とか先生という人たちも含めてですが)の修行であって、私の修行ではありません。

人はいろいろな使命を持ってこの世に生まれて来ています。あなたたちの狭い視野で人を見ないでください。

(関東も水不足だそうですが、なんなら雨乞いでもやりましょうか?〔私の雨乞いはききますよ〕でも頼まれなかったらやりません。立川に変なオバちゃんがいるし、どこかのオネエチャンもあまり心を変えてないみたいですから、関東の水不足は続くかもしれませんね。〔お気の毒です〕オネエチャンが心を変えないのは残念ですが、もっと残念なのは、このオネエチャン無視していると歯が痛くなるのです。〔だから、こんなどうでもいいこと無理やり書いてます…今もちょっと歯が痛いです・涙〕無視したくてもできないことがほんと残念です)

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