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9月 03 2012

意地とプライド(と前回のブログの補足)

10:34 AM ブログ

どこかのオジちゃんやオバちゃん、何度も、もうメールはしないと言いながら、またしばらくするとメールしてきますからね、よくあれだけ適当なメールばかり送れると呆れてしまいます。

なぜこの人たち、こんなに繰り返し同じことをしているのかと言えば、それは私のブログを読み続けているからです。それも毎日のように。(だから自分が気になることを書かれると、我慢できなくなってメールしてくるのです…名前とメルアドを出せば、これだけ遠慮のないメールは送れないのでしょうが、名前とメルアドを隠して送ってきますからね、言いたい放題です。まるで子供のようですね〔笑〕)

しかし、いくら高橋先生の名前を出しているとはいえ、毎日読むのは読みすぎでしょう。(ブログの更新を毎日しているわけでもなし)

何でこの人たち、これだけ読んでいるのかといえば、結局、ここに法が書かれているということを知っているからです。だから毎日のように私のブログを繰り返し読んでいるのです。(他に法がしっかり書かれたものはありませんからね〔もちろん高橋先生と園頭先生の本以外は、ということですが〕私のブログを読み法の勉強をしているのです。違うというなら私のブログ読むのやめてみなさいよ、特に立川のオバちゃん、あんた私のブログ読むのやめれますか〔笑〕)

他に法を説ける人はいませんからね、法を知っている人が、私のブログを毎日読むということは仕方がないことなのです。(法を知っている人ならば法の勉強はしたいですから)

なら、教えてください、と言えばいいと思うのですが、これが言えないのです。これまで自分も法を勉強してきている、自分の方が法をよく知っている、という意地とプライドがありますから、素直に教えてくださいとは口が裂けても言えません(笑)どれだけ目の前で差があることを見せ付けられても、それを認めることはできないのです。意地とプライドとはそれほど厄介なものなのですが、これは、このような高橋先生の弟子たちばかりではありません。

実は私のブログを読んでる人たちも同じなのです。

私のブログを読んでいる他の人たちも、どれだけ目の前で現象を見せられても、それを心から認めようとはしません。心からそのような現象を神の御業と認めるのであれば、何度も言いますが、もっと神と真剣に向きあい、神の使いに対して真摯な態度を取るはずです。

しかし、ほとんどの人は態度を変えようとしないか、または遠くからだまって見ているだけで、自分の行いを変えようとする人はいないのです。これも同じですね、意地とプライドです。

自分たちは昔からこのようにしてきた、それが正しいのであって、それ以上態度を変える必要などない、という思い込みだけで、これだけ異常な現象が次々に現れているにもかかわず、自分たちの心と行いを一切変えようとしないのです。

私がいくらそれではいけない、とこのブログに書き、その書いた通りの現象が起きても、それでも自分たちの考えは変える必要がないと、何の根拠もなしに思い込み、そのように警告を与えている私を、敵視している人までいるのですから呆れてしまいます。

誰も神の心を知ろうとしないのです。誰も神に真摯に向きあおうとはされないのです。しかし、そんなものはただの自分の意地とプライドだけなのです。

意地とプライドだけでしょう(それとも自分のしていることは正しいという根拠がある人がいますか)ただ、昔からこのようにしてきた、あるいはそのような生活を続けていたのだからそれでいい、死ねば無になるのだから、今を楽しく、死ぬまで健康に生活ができればよい、とそう思っているだけで、死については怖いのでできるだけ考えないようにして、自分のやりたいことをして生活を続けているだけなのです。

しかし、そんなのは自分のわがままとごまかしの生活だけだと思いませんか?

今以上に進歩しようとは考えず、死は誰一人逃れることができないはずなのに、それを何も考えないようにして、死の話をすると不吉だなどといい、ほかごとを考えていても最後は誰も死ぬのです。

死は誰もが逃れられないのであれば、では、死後の世界はあるのか?あるとしたら自分はこのままの生活でよいのか?この世はなぜ存在するのか?私たちはこの世に出てくるまではどこにいたのか?疑問に思うことなどいくらでもあるのです。それを今のことだけ考え(あるいは自分の将来のことだけ考え)それ以外の疑問難問は何も考えないように、生活しているだけの人など、人生をごまかして生きているだけの人だと思わないでしょうか。

つい最近、南海トラフ大地震が起きれば、地震と津波で最悪三十二万の人が死ぬという被害想定がされました。こんなことが起きれば、自分たちの生活をいくら続けたいと願ったところで、できなくなるのです。

現実の世界の恐ろしさ、そしてもろさをもっと考えないといけないのです。

くだらない意地とプライドなど捨て去らないと真実の世界は見えてきません。

いつまでも昔からの生活に固執し、ごまかしの人生を送っていても無駄なだけです。

神からの警告が次々に現れている現代、神の心を知ることの大事さをもっと自覚してください。

(前回私が書いたブログで、釈尊やキリストの弟子たちのことを悪く書きましたが、それを〔おまえや園頭先生だけが正しいのかと〕よく思っていない人もいられるようですので、前回のブログの補足をしておきます。前回私が釈尊やキリストの弟子たちを、悪く書いたあのような書き方は間違いではありません。事実です。弟子たちはよく書かれすぎているのです。その理由は釈尊やキリストが神格化されているのと同様に、弟子たちも神格化されているからです。〔現在の日本で開祖といわれる人たちも同じです〕しかし、それは聖書など読めば分かられると思います。キリストの弟子たちの華々しい活躍は使徒言行録以降の話で、四福音書に出てくる弟子たちはヘマばかりしているのです。〔キリストの例え話の意味が分からずキリストに聞いてばかりいますし、くだらないことで言い争いをしたり、悪霊を祓いきれなかったり、自分が死ぬことになってもキリストを裏切らないと言いながら、イザとなったら全員逃げ出してしまったり〕このような弟子たちを立派だと思われるでしょうか?使徒言行録が書かれていなければ、キリストの弟子たちを立派だと思う人はまずいなかったでしょう。現実にキリストの弟子たちはそのような人が多かったようです。言行録での弟子たちの活躍は、天上界からのキリストの導きとキリストの力を分け与えられた〔あの最後の晩餐の時にです。あの時キリストは自ら弟子たちにパンやワインを分け与えられますが、その時自分の力も弟子たちに授けたのです〕からできたのであり、弟子たちの単独の力ではありませんでした。私たちはそれを高橋先生や園頭先生から聞いているのです。だから釈尊やキリストの弟子たちを冷静に見るのであれば、前回私が書いたような少々きつい評価にもなるのです。〔それは今生生まれ変わった弟子たちをしれば分かります〕いずれ前回私が書いたブログは正しかったのか、正しくなかったのかは分かることになります。〔そのうちに今生生まれた弟子たちのダメさが、白日のもとにさらされることになるからです〕これまでの釈尊やキリスト、またその弟子たちに至るまで、かなりの神格化がされていて、実際の人物とはかけ離れた評価を受けている者も少なくありません。しかし、そのような宗教上の人物を正しい評価に戻すということも、正しい教えを伝える中に含まれているのであり、宗教改革とは、その宗教上の人物も正しく評価し〔正しく伝え行ったことはもちろんですが〕その人物がどのような間違いを犯したかということも、正しく伝えていかなければならないのです。〔それが後世の人たちの参考ともなれば自戒ともなるからです〕正しく伝えるということは、すべてにおいて正しくなければなりません。正しい評価を受けていない弟子たちを、正しいとは私には書くことができませんでした。それが前回あのような書き方をした理由です。それをご理解ください)

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