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2013年6月

6月 30 2013

これまでの信仰とこれからの信仰

昨日はまた救急車のサイレンがよく聞こえていました。(十回ほど聞いたでしょうか)

一番よくしていた頃と比べれば少ないのですが、それでも一日に十回も、救急のサイレンが聞こえるのは明らかに異常です。それに現在は、あの救急車のサイレンがなぜ聞こえるのか、皆理由を知っています。この辺りの人、気持ち悪いことこの上ないでしょう。

皆様のあまりの不信心さが原因なのですが、それを皆私のせいにしています。それではこの奇妙な現象は止まらないでしょう。

結局、いくらお経を上げようが、仏像を拝もうが、この辺りで起きている奇妙な現象は止まりません。そのような行為が全然信仰になっていないということは、このようなことでもよく分かるのではないでしょうか。(お経を好きなだけ上げられてもいいし、霊験あらたかといわれる仏像でも、お寺でも行って祈られてもいいでしょう。それでこのような現象が止まるならやってみてください。どれだけそんなことしても止まりませんね、今起きてる現象は。それに、すでにそんなことやってる人たくさんいるでしょうね。もう一年以上前から、この辺りでは、このような状況が続いているのですから)

早く心を入れ替えていただきたいものですが、誰も私のいうことを聞こうとしません。では、残念ですが、その心を入れ替える人がたくさん出てくるまでは、このような奇妙な現象は続くでしょう。(すでに時代が変わっているのに、皆様の心が変わらないからです)

よく考えてみてください。もうお経を上げることや、仏像など拝んでも何の意味もないということは明白なのです。(これだけの現象が出続けているのですから、これ以上の証拠はありません。それともまだ、そんな意味のないことを信じますか?)それなら、もう心を変え、考えを変えるしか手はないのではないでしょうか。それ以外の方法が何が考えられるというのでしょうか?

だいたい信仰とは、心をきれいにすることなのです。(それはそうですよね、自分の心が汚いままで、一体何を神様にお願いしようというのでしょうか?)その心をきれいにする努力をまったくしようとせず、ただ、お経を上げたり、仏像を拝んでいるだけで救われると思いますか?お経を上げるだけで、または仏像を拝むだけで、自分の心が勝手にきれいになっていくわけがないのです。

お経を上げたり仏像を拝めば、その時は何か恐縮した気持ちになり、心がきれいになったように感じますが、人の心はそれほど安易にできていません。自分の悪いところを自分が自覚し、その悪いところを自分で徹底的に反省しない限り、自分の心はきれいにならないのです。

その証拠に、多くの人がお経を上げたり仏像を拝んで、それで心がきれいになったように感じても、その後、少し気に食わないことや、面白くないことが起これば、すぐ、そのような心を忘れてしまい、そのような出来事に怒ったり、イラついたりしてしまうのではないでしょうか。それは自分の心がきれいになっていない証拠であり、お経や仏像をどれだけ拝んでも心が成長しない証拠であるのです。

自分の心をきれいに、また成長させたいのであれば、そのような小さなことにこだわらない心をつくるしかありません。それには、そんな小さなことに怒ってはいけないな、という心と行いをするしかないのであって、そうするには、そのようにしようという強い意志と努力以外ないのであって、何か気に食わないことが起きても、それを気にしない、そのような思いを繰り返し持つ努力を続けて、やっとそのような小さな心が変わっていくのであって、そういう努力をし続けなければ、自分の心などそう簡単に変わるものではないです。少しの自分の欠点を直すだけでも、大変な努力が必要なのです。

それが、ただお経を上げるだけで、仏像を拝むだけで、自分の心が勝手にきれいになり、ドンドン成長していくなど有り得ないのです。なるわけがないのです。だから、お経を上げても仏像を拝んでも、今の状況は変わらないのです。そんなことをしていても何の効力もないからです。

このように考えますと、本当の信仰とは、神を思い、その神の心に少しでも近づけるよう、努力精進していくことと思われないでしょうか。

それが本当の信仰であるなら、人に嫌がらせをしていて、神の心に近づくことができるでしょうか?人のいうことをまったく聞こうとせず、いつまでたっても同じことを繰り返していて、自分の心をきれいにさせることができるでしょうか?

どちらも「否」でしょう。そんなことをしていても何の成長もないということです。

これまでの信仰は、心はどうあれ(お経を上げたり、仏像を拝むという)形だけ整えれば、あの人は熱心に信仰をしている、まじめな人格者であり信仰者であると思われてきました。しかし、そんなものはただの格好だけであり、本当の信仰者ではなかったということが暴露されつつあります。(そうではないですか、今この辺りで起きている現象を誰も止められないのですから)

本当の信仰とは、そのような格好だけのものではなく、自分の心を勇気を持って直し(自分の欠点を自分で認めるということは勇気のいることです。しかし、それを認めないと反省できないのです。ということは、それをしないと本当の信仰はできないということです)神の心に近づけることだったのです。

それは、そのようにした人が、次々に奇跡を起こすことでその事実が分かります。

これまでのような偽の信仰をいつまでも続けるか、それとも本当の信仰に目覚めるかは、自分次第ですが、しかし、すでに時代が変わっています。

本当の信仰に目覚めなければ自分が救われることはないのです。

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6月 29 2013

祈りの意味

また、何か起きましたか?

昨日ブログを書かなかったのは(どうせ誰も布施などしてくれないでしょうから)何か起きたら書こうと思ったからです。(一昨日は微妙でしたので)

高橋先生に直接祈っているのです。誰も協力しようとしなければ、ただではすまないのではないかとも思い、そうしたのですが昨日は凄かったですね。夜の帰り道だけで十人近くの人が私のことを待っていて、嫌がらせのようなことをされました。(ということは、他の道にも私を待っている人がいるんでしょうね、最近の私はいろいろな道を通って帰りますので…さすが、この辺りでの私の人気AKB以上なだけはあります……不人気といった方がいいのでしょうか?)

昼は昼でトラックの運ちゃんとか凄いですし、昨日だけでも何人祈ったか分かりませんね。しかし、そのような人たちにいっておきますが、高橋先生に直接祈っています。その覚悟だけはされた方がいいのではないでしょうか。(何が起きるか分からないということです)

高橋先生に祈っていますので、何が起きるか分からないのですが、何か変ですね?いつもと感じが違うようにも感じますが(気のせいですか?)トラックの運ちゃんなど私が祈ると顔を引きつらせる人が多く、何か前以上に態度がおかしいのです。(「ブシュ」とふかすだけふかし、大急ぎで走り去っていく人もいますが、そんなことしても全然意味ないですよ。〔笑〕祈ればその祈りは即座に天に通じます。〔天はすべてその人のことを知っています〕その人がどこに逃げようと、正しい祈りはきかれることになります。私がその運転手の顔を見ようが見まいが関係ないのです)

前以上に何か起きてませんか?まさか次々にあちこちで何か起きだしたんじゃないでしょうね…それで嫌がらせする人が増えたとか…それはないですか、だって、そんなに現象が起きてるなら、嫌がらせする人が逆に減らないと変ですもんね。(次々に現象が起きだして、それでもまだ私に嫌がらせするなど、そこまでまともな判断できない人いないでしょう、子供ではあるまいし。〔笑〕普通はやらなくなりますよね、そんなに次々に何か起きだしたら)

ということは、ただの私の気のせいですか?何か感じが違うような気がしますが…ワンパターンでもいけないので、皆さんいろいろやり方変えられるんでしょうか?

しかし、昨日でもあれだけの人がワザワザ待っててくれるのです。何か起きてるんでしょうね、きっと。(起きてませんか?)

さっきもしてましたが、昨日でも救急車のサイレンがよく聞こえました。

よく考えてみれば、昨日の救急車のサイレンでも、その病人が出た家は(近くの人でしょうから)当然私のことを知っている人たちということになります。

私のことを知っている人たちから急病人が出ているということは……(これだけ嫌がらせされるのです。私が陰で何いわれてるか想像できますので)ということは、私の悪口ばかりいってると、病気になるかもしれないということになります。(十中八九、この辺りの人私の悪口いっています…態度で分かります)

そういうことが、やはり起きてると想像できますが、いかがでしょうか?(何も聞いてませんが)

もし、そうであるなら、私に対し嫌がらせなどやめられたらどうですか、協力された方がよいことが起きるのではないでしょうか。逆に協力しないからそういう(悪い)ことが起きるとは思わないのでしょうか?

ずっと悪いことが起き続けているように思いますが、そうではないのでしょうか?では少し考え方を変えられたらいかがでしょう、そうしないと、いつまでも悪いことは続くように思います。

昨日祈っていて、あることが浮かんだのです。

それは「私はこんなにあちこちの人を祈っていてよいのだろうか」という疑問でした。

すると、しばらくしていろいろなことが心に浮かんできました。そのいろいろなこととは次のようなことでした。

『法を知っているのに、それを行わないことは悪である。おまえは間違った祈りをしているわけではない。おまえの祈りは、その人の心にとって何一つ悪いことではない。だからおまえはもっと祈ればよい。それがおまえの徳となるからだ』

つまり、法を知りながら、それを勉強しようとしないことは、それは悪を犯していることと同じなのだから、それをその人に知らせるためにも、祈ればいいのであって、私は「その人を正しくお導きください」と祈っているのですから、その正しい導きとして祈った人に現象が現れても、それがどのような現象であろうと、その人の心のために(注、体のためではありません)なるのだから、気兼ねなく祈ればよい、そのような悪を犯している人を祈ることは、自分の徳となるのだ、ということでした。

このような思いが心に浮かんできたということは、それは私のやっていることに間違いはないのであって、また、祈らなければ法の流布などできないのですから、祈って、祈って、祈りまくらなければ、法は拡がらないということになります。ですから、これからもドンドン祈ろうと思っていますし、何か現象が現れているなら、それは私の祈りが正しい証拠でもありますし、私に祈られるのがいやなら、私に祈られ現象が現れるようなことをしなければいいのであって、それには心を入れ替えるしかないのであって、その心を入れ替えるには、この法を勉強するしかないということです。

ですからこれからも、何か私にちっかいをかけたと思った人は即座に祈ります。(疑わしきは祈ります)それが、その人のために一番なるからです。祈られるのがいやなら、私にちょっかいをかけなければいいのであるし、自分の心を成長させたいと思うなら、私に協力すればいいのです。

法を知りながら、それを勉強しようとしないことは悪です。

これだけの現象が次々に現れているのです。(ということは、それはすなわち神の命であるということです)

神の命には従われるほかないのです。

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6月 27 2013

自分の罪の深さ

昨日も西日本を中心に記録的大雨となり、土砂崩れや冠水の被害など相次いだようです。

昨日の雨で、西日本の各地でかなり土が水を含んでいるところがあり、いつどこで土砂崩れが発生する分からない状況であるとか。土砂崩れは予測が難しいといっていましたが、地震もそうですが、科学万能などといっているわりには、現在の科学は分からないことがたくさんあるようです。(そりゃ万能の看板おろさないといけませんね)

昨日「このままこのような状況で、私はブログを書き続けていればいいのでしょうか?」という祈りをしていましたら、やはりといいましょうか、次のような思いがあがってまいりました。

『これ以上、甘やかしてはならない』

もう、これくらいでいいでしょう。ただで法を伝えるということは。(最初から、ただで伝えているつもりはありません。そんな安いものではないからです。実際はどれだけいっても、お金を払ってくれないだけですが)

もう十分法は伝わったと思います。(このあたりの人みんな私のこと知ってますからね)これだけ法を毎日のようにブログに書き、現象も(それこそ)毎日のように起きているのです。これ以上ただで法を伝える必要はないでしょうし、いってはいけませんが、もう何年も前からこのブログを見ている人が、とっくにそれは気づかなければいけないことなのではないでしょうか。(ということは、何年も前からこのブログを読んでいても、まったく心が変わっていないということです…さびしい話です)

それを(私がどれだけいっても)平気でこのブログをただで見ているどころか、嫌がらせまでしているのです。これはもう何が起きても文句はいえないし、やはり、これだけ法を知ったのです。何もお返しの行為をしないということは、罪をつくっていることと同じではないでしょうか。

何度もいいますが、この法を知ることなどこの世に肉体を持っても稀なのです。そんな有り得ないような奇跡を体験し、さらに現象が目の前に現れるという、これも法を勉強している人でさえ、なかなかない奇跡を何度も体験しているのに、それに少しも感謝しないどころか、嫌がらせまでしているのですから、そのような人は、それこそ天文学的な罪をつくっているといっても言い過ぎではないくらいです。

いくらなんでも気づかないの度が過ぎています。(これだけの現象が現れているのですから)これでまだ、法に対し、自分が何も感謝の心を現そうとしないということになれば、これはもう確信犯であって、本当の神の教えであると分かっていても、それがどうしたと神の教えをバカにし、神のことなど知るかと考えている、悪魔と同じ考えを持つ者と同様と思われ、裁かれる対象となりますがそれでもよろしいのですか?(悪魔でもそこまで神をバカにしていません。そのような考えは悪魔以下といっても過言ではありません。もしそう思っている人がいたとしたら、死ねば悪魔がいる世界より、もっと下の世界にまで堕ちていかないといけなくなります。自分が思っているより、そのような考えはずっと恐ろしいのです)

キリストが「救世主を尊敬することができないのは、生まれ故郷の者たちだけだ」といわれ、自分の生まれ故郷のナザレでは奇跡を起こされませんでした。(それは、キリストの生まれ故郷の者たちは、小さな時からキリストを知っています。すると「あんなハナタレが何が救世主か」と小さい時のキリストの肉体ばかりを思い、頭からキリストをバカにして、キリストのいうことを信じようとしないからです。〔人の成長を正しく見れないのです〕すると当然、キリストが起こす奇跡も「あの者がそんなことできるわけがない」と、頭から否定する心を持つ者がたくさんいて、そのような念に邪魔をされ奇跡が起きないのです。多くの人のマイナスのエネルギー〔できるわけがないという思い、念〕は、キリストの起こされる奇跡まで封じてしまうのです)

しかし、この辺りの人は法を知り、目の前で奇跡が起きているというのに、それでもまだ私のことを信じようとしないのです。(私の肉体だけにとらわれているからです。キリストの時代には起きなかった奇跡が、目の前で起きているというのに、まるでその有難さに気づいていないのです)

それどころか、嫌がらせをいつまでたっても続けているのです。それがどれだけ大きな罪になるのか、お分かりいただけるのではないでしょうか。

それをどれだけいっても、この辺りの人は認めないのです。「お前が悪い」と人のせいにしているのです。ここでもまた責任転嫁という罪をつくっています。本当に罪が天文学的に膨れ上がっているのですが、それさえも気づかないのです。いい加減気づかれてはいかがでしょうか。

だからこれだけ恐ろしいことが立て続けに起きているのです。

このように、次々に目の前に奇跡が起きていても、それがどれだけ有難いことか多くの人は気づかないのです。それと同様この法を知ることの有難さも、それがどれほどの奇跡か多くの人は気づかないのです。(気づこうとしないだけかもしれませんが)

もうこれ以上、罪をつくるのを野放しにしていてはその人たちのためになりません。従って、これ以上このブログを読み続けていて、何のお返しもしようとしない人は、罪を次々につくっていることになりますので、裁かれることになります。

ですから、このブログを何年も前から見ている人は、即刻何らかの形で(布施するなりなんなりして)お返ししてください。

もし、この最後の通告を無視するのであれば、私は本気で怒ります。そうすると日本に何が起きるか分かりませんよ。

これはこの辺りの人も同じです。これから数日の間は高橋先生に直接祈ることにします。いつまでたっても心を変えないというのであれば、昨日のようなことが次々に起きることになります。

天も『これ以上の甘えは許さない』といわれています。

これまで溜めた“つけ”を即刻お支払いください。

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6月 26 2013

さすがにギブアップしましょうか?

昨日は空梅雨と書いたのですが、今日は各地大雨になる予報が出ています。(名古屋もたくさん雨降っています)

それにしても相変わらず極端な天気が続いています。九州など連日の大雨で、冠水被害なども各地で出いるようですが、その一方で、東海地方もそうですが関東も異常な少雨の影響で、関東のダムなど、これまでで最も低い貯水率となったところもあるとか、梅雨だというのにこれだけ(西と東で)極端な天気になるのも珍しいのではないでしょうか。

皆様方の心がよく天気に現れていますが、昨日はまた何か起きたようですね。家に帰る寸前まで分からなかったのですが、家の近くまで来たらワザワザ外に出てきて、私に嫌がらせをされた人がいます。(それに私の帰りを待っていてされる人もいますし)

何か起きると、同じようなことをする人が何人もいますのでよく分かります。

それに昨日は、何か起きそうな予感もあったものですから…というのも昨日はブログに書いたとおり、高橋先生が昇天された特別の日であったものですから、高橋先生に直接祈っていたのです。(いつもは七大天使に祈るんですが、昨日は特別にそうしました。あちこち回って、高橋先生に「この辺りの人がよく私に嫌がらせするのです」と報告しておきました。これまで散々私に嫌がらせした人はヤバイかもしれません。何せ高橋先生が、直接その人たちのこと知ってしまいましたからね。それと昨日私に嫌がらせした人たちも、相当ヤバイと思います。直接高橋先生に祈ったんですから)ですから、もしかすると何か起きるのではないかと思い、全然違う道を通って帰ってきたものですから、途中まで何か起きたのか分かりませんでした。(さすがに、普段通らない道には誰も人が出てきていませんので…そうするとまた昨日は、普段私が通りそうな道には、人がたくさんいたのではないかと思われます…それもパターンですね)

そうですか、やはり何か起きましたか……予想通りといえば予想通りですし、怖いくらい現象が起きるといえば起きますね。(やはり高橋先生は相当現在の状況を憂いていられるようです)

それでも皆さん、全然態度を変えようとしませんが、それでよろしいわけですか?

これだけ現象が起きていて(この辺りだけでなく全国的にもです)それでもまだ誰も態度を変えようとしないということは、もう何があっても、それこそ死んでも、神の運動などやるものかという人ばかりということになります。さすがに私もこれ以上は強制できません。それだけ神の運動をやる気がないなら、もうしなくてもいいのではないかとも思えます。

さすがにもう諦めた方がいいのではないかと思えてきました。(その方が皆さんよろしいですよね、私が祈ると迷惑でしょう)

では、諦めましょうか?皆さん南海トラフ大地震でいいというわけですから。(そういうことになりますよね、私がもう「法は拡げれない」とバンザイするのですから)

これだけのことが起きているのです。私が引いてそれで何もなく終わると思いますか?百パーセント無理です。無事では終わりません。神との約束を違えるのです。それがどれほどの罪かを多くの人が思い知ることになるでしょう。(そうなって初めて私のありがたみが分かるんですね…残念です。少し遅かったようです)

マァ、ご希望通りになるのですから、文句はないでしょう。だって、死んでもいやなんでしょう、神の運動などするのは。では、その希望通りのことが起きるのではないでしょうか。(私のことを知っている人〔現時点でどれくらいいるのでしょうか?〕数千の人か数万の人か知りませんが、その人たちのせいで、日本に住む一億二千万の人が大きな被害をこうむることになるなんて、なんてその人たちは罪深いのでしょう〔涙〕)

ということで、もう多分多くの人の心を変えるのは無理なように思います。(だって、この時点で一人も協力してくれないのですから)適当なところで高橋先生にギブアップすることにします。

多分私がギブアップした時点で、そのようなことが起きてきます。どうぞ皆さん、これまでどおり神を思わず、自分の好きなことだけ続け、私のいうことを無視し嫌がらせを続けてください。

ギブアップするのが早まりますから。

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6月 25 2013

真の宗教家とは

これまで書いてきましたように、日本の多くの人が現在信仰だと思ってやっていたことは、実は全然信仰になっていなかったのです。(お年寄りの方々にとっては超衝撃の事実だったでしょう。しかし、よかったのではないでしょうか、死ぬ前に本当のことが分かって)

檀家制度にせよ(幕府の強制)お寺参り(僧が金儲けのために始めた)や仏像を拝むことにせよ(偶像崇拝)始まった理由が理由なのです。正しい信仰のわけがありません。

だから坊さんたち宗教家がいっていることは矛盾だらけなのです。

「先祖供養をしなさい、先祖にお経を上げ祈れば功徳があります」といいつつ「霊は存在しません」といい(何も存在しないものに、お経を上げて供養をして一体何の功徳があるのでしょうか?)「性は煩悩です」といいながら、自分ではせっせと子供をつくり「人はなんのために生まれてきたのか」という疑問や人生の悩みに対しては、何の解決策も持たず、ただ葬式があればお経を上げ引導を渡しているようなそぶりだけして(実は全然死者に引導など渡していないのですが)布施をもらっているのです。

よく考えてみれば、こんなカッコだけ(お経を上げたり、引導を渡すようなそぶりだけしている)なら、誰でもやれます。(それにたいしたこといってるわけではないし)これでは詐欺に遭っているようなものではないでしょうか。

私がこれだけボロカス書くのは、このような坊さんたちが無能になってしまったため(宗教的に無能ですよね、もう宗教的な意義などまるで分からないのですから。ただ昔からそうしているからそうしている、と何一つ疑問を持たず同じことを繰り返しているに過ぎないのですから)多くの危険が巷に溢れていても、それに気づかず危険なことをし続けている人が増えたからです。

私のことでもそうでしょう。私の周りでどれだけ恐ろしいことが起きていても、坊さんなどの他の宗教家はそれに対し、何の解決策も持たないのです。他の人と同じように傍観しているか、同じように私に嫌がらせすることしかできないのです。(これでは普通の人と変わりません)多くの人に何かアドバイスをするわけでもなければ、祈るわけでもないのです。(祈った人もいるかもしれませんが、私には何の効き目もないようです)

それに今年のような雨不足で、空梅雨でも他の人と同じように「なかなか雨が降りませんな」といってるだけ。この前の集団パニックがあった学校でも、それでお祓いにいくとかしようともせず、これも傍観しているだけ話になりませんね。

その集団パニックの話ですが、その場にいて被害に遭った生徒たちが口々に「霊を見た」とか「何かにとり憑かれた」と証言しているのです。そのような証言をまるで無視していてよいのでしょうか?(このような証言は私が前に書いたこと〔霊の憑依〕を裏づけています)現在はまだ霊の存在が認められていませんので、霊を認めようがないのでしょうが、精神科医など、その霊を無視して治療しようとしています。これは危険極まりないことで、だから精神科医に同じような病気になる人が多いのです。心の世界をまったく無視して、そのような憑依された人にかかわるからです。(自分も同じようにおかしな霊に憑依されるということです。どのような心ならおかしな霊に憑かれないのか、その心のあり方が分からないのです)

それもこれも、坊さん始め現在いる宗教家がだらしがないからです。そういう人たちがしっかり法を説いているのであれば、このような状況にはなっていないのです。(現在起きているおかしな現象すべて、法を知っているのであれば解決できるということです)

異常気象が繰り返し起きているのであれば、皆さん心を変えましょうと、正しい心のあり方を説き、そうして祈ってそのようなおかしな天気を変え、人が悩んでいるのであれば、その解決方法を教え、おかしくなっている人がいれば、霊の存在を教えてその霊の作用を教え、どうすればそのような霊に憑かれなくなるのか、その心のあり方を教え、そうして死ぬ間際の人がいれば、死は怖くはないのである、と死後の世界を教え死ぬ間際にその人がしなければいけないことを教え(自分の一生を振り返っての反省)死後の世界(あの世、実在界)に導く(引導を渡す)これが真の宗教家のすることであり、釈尊、キリスト他、これまでの預言者といわれる人たちが皆してきたことなのです。

そのようなことを、現在ある坊さん始め宗教家といわれる人たちは、何もやっていないのです。そのような人たちが、布施をもらっているということであれば、それはもう詐欺といわれても仕方がないのではないでしょうか。(何も宗教家としての使命を果たしていないからです。布施をもらう資格などないのではないでしょうか)

現在の混迷は、宗教家が果たさなければいけない自分の使命を、何も果たしていない結果であるのです。

このようなことを考えるのであれば、そのような結果を果たしているのは(祈って次々に奇跡が起き、現在の宗教の間違いを教え、人の正しい心のあり方を説く)私だけではないかと思われます。

信仰とは、お経を上げたり、仏像に祈ったりすることではありません。神の心を知り、それを実践することなのです。(お経を上げたり祈っているだけでは自分の心は変わらないからです。自分の心を広く大きくしようと思えば、そのような実践をしないと変わらないのです。このようにしなければいけない、このようなところは直さなければいけない、それを繰り返し思い実践するしかないのです。そのようなことをなぜしなければいけないか、それも法〔神の心〕を知らないと分からないのです)

そのことを知っているのは私だけです。だから私に協力しないといけないのです。(それこそが本当の信仰だからです)

本当の教えを説いているのは誰で、本当の信仰とは何か、今の日本の現状を見れば、一刻も早く、それに気づかなければいけないのではないでしょうか。(そうしないと天気もそうですし、例えば精神科の病院など危なくて仕方ありませんよ。霊の存在を認めないのですから)

追伸…今日は高橋先生が昇天された日です。このような日に、心を変えられ本当の信仰を始められてはいかがでしょうか?それこそ法の縁がより深まるのではないでしょうか。

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