6月 30 2013
これまでの信仰とこれからの信仰
昨日はまた救急車のサイレンがよく聞こえていました。(十回ほど聞いたでしょうか)
一番よくしていた頃と比べれば少ないのですが、それでも一日に十回も、救急のサイレンが聞こえるのは明らかに異常です。それに現在は、あの救急車のサイレンがなぜ聞こえるのか、皆理由を知っています。この辺りの人、気持ち悪いことこの上ないでしょう。
皆様のあまりの不信心さが原因なのですが、それを皆私のせいにしています。それではこの奇妙な現象は止まらないでしょう。
結局、いくらお経を上げようが、仏像を拝もうが、この辺りで起きている奇妙な現象は止まりません。そのような行為が全然信仰になっていないということは、このようなことでもよく分かるのではないでしょうか。(お経を好きなだけ上げられてもいいし、霊験あらたかといわれる仏像でも、お寺でも行って祈られてもいいでしょう。それでこのような現象が止まるならやってみてください。どれだけそんなことしても止まりませんね、今起きてる現象は。それに、すでにそんなことやってる人たくさんいるでしょうね。もう一年以上前から、この辺りでは、このような状況が続いているのですから)
早く心を入れ替えていただきたいものですが、誰も私のいうことを聞こうとしません。では、残念ですが、その心を入れ替える人がたくさん出てくるまでは、このような奇妙な現象は続くでしょう。(すでに時代が変わっているのに、皆様の心が変わらないからです)
よく考えてみてください。もうお経を上げることや、仏像など拝んでも何の意味もないということは明白なのです。(これだけの現象が出続けているのですから、これ以上の証拠はありません。それともまだ、そんな意味のないことを信じますか?)それなら、もう心を変え、考えを変えるしか手はないのではないでしょうか。それ以外の方法が何が考えられるというのでしょうか?
だいたい信仰とは、心をきれいにすることなのです。(それはそうですよね、自分の心が汚いままで、一体何を神様にお願いしようというのでしょうか?)その心をきれいにする努力をまったくしようとせず、ただ、お経を上げたり、仏像を拝んでいるだけで救われると思いますか?お経を上げるだけで、または仏像を拝むだけで、自分の心が勝手にきれいになっていくわけがないのです。
お経を上げたり仏像を拝めば、その時は何か恐縮した気持ちになり、心がきれいになったように感じますが、人の心はそれほど安易にできていません。自分の悪いところを自分が自覚し、その悪いところを自分で徹底的に反省しない限り、自分の心はきれいにならないのです。
その証拠に、多くの人がお経を上げたり仏像を拝んで、それで心がきれいになったように感じても、その後、少し気に食わないことや、面白くないことが起これば、すぐ、そのような心を忘れてしまい、そのような出来事に怒ったり、イラついたりしてしまうのではないでしょうか。それは自分の心がきれいになっていない証拠であり、お経や仏像をどれだけ拝んでも心が成長しない証拠であるのです。
自分の心をきれいに、また成長させたいのであれば、そのような小さなことにこだわらない心をつくるしかありません。それには、そんな小さなことに怒ってはいけないな、という心と行いをするしかないのであって、そうするには、そのようにしようという強い意志と努力以外ないのであって、何か気に食わないことが起きても、それを気にしない、そのような思いを繰り返し持つ努力を続けて、やっとそのような小さな心が変わっていくのであって、そういう努力をし続けなければ、自分の心などそう簡単に変わるものではないです。少しの自分の欠点を直すだけでも、大変な努力が必要なのです。
それが、ただお経を上げるだけで、仏像を拝むだけで、自分の心が勝手にきれいになり、ドンドン成長していくなど有り得ないのです。なるわけがないのです。だから、お経を上げても仏像を拝んでも、今の状況は変わらないのです。そんなことをしていても何の効力もないからです。
このように考えますと、本当の信仰とは、神を思い、その神の心に少しでも近づけるよう、努力精進していくことと思われないでしょうか。
それが本当の信仰であるなら、人に嫌がらせをしていて、神の心に近づくことができるでしょうか?人のいうことをまったく聞こうとせず、いつまでたっても同じことを繰り返していて、自分の心をきれいにさせることができるでしょうか?
どちらも「否」でしょう。そんなことをしていても何の成長もないということです。
これまでの信仰は、心はどうあれ(お経を上げたり、仏像を拝むという)形だけ整えれば、あの人は熱心に信仰をしている、まじめな人格者であり信仰者であると思われてきました。しかし、そんなものはただの格好だけであり、本当の信仰者ではなかったということが暴露されつつあります。(そうではないですか、今この辺りで起きている現象を誰も止められないのですから)
本当の信仰とは、そのような格好だけのものではなく、自分の心を勇気を持って直し(自分の欠点を自分で認めるということは勇気のいることです。しかし、それを認めないと反省できないのです。ということは、それをしないと本当の信仰はできないということです)神の心に近づけることだったのです。
それは、そのようにした人が、次々に奇跡を起こすことでその事実が分かります。
これまでのような偽の信仰をいつまでも続けるか、それとも本当の信仰に目覚めるかは、自分次第ですが、しかし、すでに時代が変わっています。
本当の信仰に目覚めなければ自分が救われることはないのです。