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2014年1月

1月 16 2014

法の縁を切ることの大罪

本当に凄いですね、このサイレン。昨日でも次から次にサイレンがしてきて、今日も朝からよくしています。

これは本格的に、神の業が降り始めたのではないですか、あまりに皆さん聞きわけがないからです。

しかし、よくこれだけのことが起きていて、そのような態度が取れますね。(怒って私に嫌がらせしているだけで、一切、心も行いも変えようとしない)

この神の業が怖くもなんともないんでしょうか?ちょっと、その神経が分かりませんが、それにしても、わずか数十年この世にいただけで、ずいぶん心が神から離れてしまうものです。(この日本に、如来や菩薩がたくさん生まれるということで、大騒ぎして日本に生まれるのを希望された方々ばかりなのに)

現在の日本に生まれてきている人たちは、選ばれて生まれてきた人ばかりなのに、よくこれだけ多くの人たちが失敗するものです。(多くの人たちが、この日本に生まれることを希望されたのです。〔今回は大チャンスということで殺到したらしいです〕その中から選ばれたのが、現在日本に生まれてきている人たちなのです)

外国にいて(あるいは外国に生まれ)このブログに興味を持って読んでいる人たちもいますが、そのような人たちは、やはり法に縁が深い人たちであり、その人たちも、もちろん日本に生まれるのを希望したのです。しかし、その人たちは今回選ばれることなく、仕方なくその国に生まれ、そうして、その国で法を学びます、と約束して生まれてきた人たちなのです。

そういう人たちが、まだたくさん外国にはいるのです。そのような人たちに法を伝えることも、この日本に生まれた人たちの使命なのです。

日本の人たちが動こうとしなければ、自分たちだけでなく、そのような外国に生まれ法に縁がある人たちの法の縁まで、断ち切ってしまうことになるのです。

だから、日本の人たちが法が出ているのを分かっていながら、それでも何もしようとしないなど、どれほど大きな罪となるのか分からないのです。(自分だけでなく、世界中の多くの人々の法の縁を切ってしまうのですからね)

だから、これほどの現象が日本に現れているのです。(名古屋を含めた、毎日のように日本に起きる異常現象)

現在は、世界中で異常現象が起きているのだから、日本に起きるのも仕方ない、ではないのです。日本の人たちが何もしないから、世界中に異常現象が起きているのです。

すべてにおいて、日本の人たちのせいなのです。それをすべて温暖化のせいにしているに過ぎないのです。

昨日もニュースで、地球温暖化のせいで海水温が上がり、それで世界中に起きる異常気象が激しさを増しているだの、何だのいっていましたが、何度もいいますが、それは二次的作用に過ぎません。神が(天が)そのような状況をつくって、世に異常現象を現しているのであり、多くの人の心が変わるのなら、そのような異常現象は収まるのです。(温暖化と異常気象が、結びついているという科学的根拠はありません。ここ最近、急に異常気象が増えたため、そのようにいわれるだけです。温暖化は百年も二百年も前から始まっています。しかも、その温暖化自体、人為的な温室効果ガスの影響ではなく、自然が要因でそうなっているだけという、温暖化懐疑論まであるくらいです。異常気象が温暖化のせいだなど、皆さん得意の責任転嫁でしかないのです)

もし、異常気象が温暖化のせいと言い張る人がいるのなら、それは違うという証拠を見せましょうか?(祈りで天気が変わるなら、人の思いで気象は変わるという証拠になるのではないですか?いくらでもしますよ、そんなこと。後の責任持てませんけど)

多くの人の心が変われば、天気さえ変えられるのです。(ということは、異常気象も抑えることができるということです)

その心をどのように変えたらいいのか?それはこの法を知らないと、その基準が分からないのです。だから、私はこの法を早く世界中に伝えないといけないといっているのです。(世界中で異常現象が起きているといっても、その異常現象が一番起きているのは日本です。では、一番最初に神に滅ぼされる国はどこか、お分かりいただけると思います)

先日書いたブログの中に、霊的運動を通してのみ世界平和は実現すること、そうしてその霊的運動は、日本が中心となりやらなければいけないことを書きましたが、その大きな意味を、日本の人たちはもっと真剣に考えないといけないのです。もっと重く受け止めないといけないのです。

物質面から世界平和を唱えても、あれがほしい、これがほしいということになり、結局できないのです。しかし、霊的な面、心の面から唱えるのであればどうでしょう。

この法が世界に拡がるのであれば、あれがほしい、これがほしいということはなくなります。(自分が心を高め悟ることが一番と分かるからです。物質への執着はなくなります)そうして神の実在を知り、あの世はあり、そこに住む光の天使の実在も知ることになり、さらに人の輪廻転生も分かり、人は永遠の生命であることも分かります。

そうして心を高めれば、そのような光の天使の協力を得られようになるのですから、常に奇跡が起きるようになります。さらに、異常現象も起きなくなります。(もちろん、怒り、ねたみ、ひがみという心もなくなります。そんな心を持てば自分が損をするだけと分かるからです)

争うことの愚かさもより一層分かることになり、それなら、もう人の心を高めるにはどうすればいいのか?問題はその一点になります。

各国の多くの人たちが、そのような心になれば、世界平和は調和と安らぎのうちに明日にでも実現するのです。

絵空事ではありません。現実にその法がある日本には、これだけの現象が起きているではないですか。この現在の日本に、毎日のように起きる現象がただの自然現象でしょうか?

そうではない、と思っている人はすでにたくさんいるはずです。

現在の世界で起きている異常現象は、そのように思っている人たちが、法に関して何もしようとしないからそうなっているのです。

法を知りながら、それでも何もしようとしないのは、大きな罪でしかないのです。

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1月 15 2014

祈りの万能さ

それにしても凄いですね、サイレンが止まらないようです。(昨夜など、家のすぐ近くの人が運ばれたようで、家の前を救急車が走っていきました)

昨夜は、同じ名古屋市に住む人から電話をもらい、話していたのですが(その人、神のことを聞きたかったようです。最近はちょくちょく、電話やメールをもらい質問を受けるようになりました)その人は、緑区に住んでいるといわれていましたが、救急車のサイレンはよく聞こえてくるそうです。(私の噂は聞いていないとのことでした。そうでしょう、聞いていたら多分電話などかけてこなかったと思いますから。〔笑〕)

名古屋市緑区といえば、もう隣は大府や東海市などの知多地域ですからね。その緑区でも、救急車のサイレンがよく聞こえるということは、どこまでこの恐ろしい現象が拡がっているのか分かりませんね。(しかし、静岡まではいっていないようですが)

何とか名古屋だけで、この現象収めたと思いますが、しかし、皆さん変わりません。それでは収めようがないでしょう。

怒って、人のせいにしているだけの人がほとんどですからね。しかし、このような現象が始まり、その後、心を入れかえた人がどれくらいいるのでしょうか?

ゼロとはいいませんが(トラックなどもブシュとやる人も減りましたからね。前の会社も妙に最近静かですし…たまに切れたように「ガン」とかやってますが)これくらいでは、心を入れかえたことにはならないんでしょう。(というか、何か起きても嫌だから我慢している、という人が多いでしょうから)

サイレンが減るどころか増えているんですから、やはり、心から反省し、この教えを学ぶ人が増えないと、この現象は収まらないようです。

考えてみて下さい。この現象が収まるとか、収まらないとかだけでなく、この教えを勉強するなら、前回書きましたように功徳も得られ、本当の幸せの道がついてきます。

間違った信仰をしていても救われないのです。(日本は無宗教じゃないんですから、真剣にやっているかどうかは別にしても、仏教やらキリスト教やら、何か皆さんは信仰をしているはずです)

それならどう考えても、この教えは学ぶべきなのではないですか?その方がどちらにしても得(徳)でしょう。

幸せといっても、もちろんそれは、物質的な面で幸せになるということではなく、精神的な面での幸せが実感できるということです。(法は現世利益を説きませんから)

しかし、だからといって物が何も入ってこないのか?といえば、それも違います。自分の生活に足る金やら物やらは確実に入ってくるのです。法を勉強し実践しているなら、自分の分にあった金や物は入ってくるのですから、それが入ってくるなら、人はそれで十分なのではないでしょうか。

必要以上に金などほしがるから、そこに歪ができて人間関係もおかしくなるのです。自分だけが儲けなくても、自分に入らないお金は他の人に分配されるのだから、それはそれでよしとしておけばいいのではないでしょうか。

金などいくら入ってきても、例えば、今問題になっているストーカーとかされていたら、その人は幸せといえるのでしょうか?あるいは(この前、ある会社の社長さんが銃で撃たれて亡くなりましたが)命を狙われているとしたら、その人は幸せなのでしょうか?

どれだけお金があり、地位や名誉があっても、そんなことをされていたら、幸せでもなんでもないでしょう。しかし、法を知っているのであれば、そのような道も自然と解決されていくのです。

法を勉強するのであれば、心が変わりますし祈りも知るからです。

祈りとはいえ、法を知るのであれば、その祈りは天に届きます。そうすれば、天上界の光の天使が動いてくれますので、自然に解決の道がついてくるのです。

その解決の道も自分だけが助かる、というものではなく、そのようなことをしていた人も助かる、そのような道なのです。前にも書きましたが、光の天使の起こす現象には愛があります。ですから、祈った人だけを助けるのではなく、祈られた人も助けるのです。(この世的に見て、祈られた人が不幸になっているように見えても、心の面では、その祈られた人は救われているのです)

法の祈りとはそういうもので、すべての人が救われる、そのような祈りなのです。(私はそのような実績がたくさんあります。祈られて不幸になっているようで、その実、そのような人たちの心は救われているのです。私がその人たちを祈らなければ、その人たちはもっとひどい不幸となったのです。そのような人たちは私が祈らなければ、神の心、神の業を知ることなく一生を終えたからです。〔そうではないですか?だから人に平気で嫌がらせができるんでしょう〕しかし、私が祈り現象が起きることにより、神の業を知ることができたのです。それを知ることによっての、その人の心の成長は計り知れないのです。法の祈りはこの世がよければそれでよいではありません。その人の心を救う祈りなのです)

この名古屋で起きている現象を知るのであれば、どのようなことが起きても、祈れば解決が可能だと思われないでしょうか?

名古屋で起きている現象は、私に嫌がらせを始めた人たちが原因で起きはじめました。そのような人たちが、あまりに多かったため私が祈ったからです。

もし、私が祈るのが悪いという人がいたのなら、では、私は黙って人の嫌がらせを受け続ければよかったと、その人はいわれるのでしょうか?

私は、一人や二人の人から嫌がらせを受けた、というのではないのです。この近所の人から、そうして道を歩いていれば、バスやトラックの連中が私を見つけると、狙ったようにブシュブシュやってきたのです。(どれだけやられたか分かりません。そういうことをいう人は、私と同じ状況になったら、その状況を我慢することができますか?)

それを黙って私が見ているだけなら、私ももちませんが、そのようなことを平気でしている、その人たちのためにもならないでしょう。

だから天に祈ったのです。「どうぞ、このような人たちに気づきをお与えください、正しくお導きください」と。私は、そのような人たちの不幸を祈ったわけではありません。そのような人たちに、自分の間違いに気づかせ正しくお導きくださいと、祈っているだけなのですから、一体、その祈りのどこが悪いというのでしょうか?

もし私の祈りでおかしな現象が起きた人がいるなら、その起きた人が悪いのではないですか?天にそのような指導をされたのですから。

このように、本当の神の教えを知り、その祈りを知るのであれば、たとえ、このような理不尽なことを多くの人にされていても、解決の道はついてくるのです。

では、この祈りを知るなら、凶悪事件はもちろんのこと、学校のいじめなどにも解決の道がついてくると思われないでしょうか。(そうではないですか?これだけの現象が名古屋で起きているのです。いじめられている子が祈りを知るなら、いじめられることもなくなると思われないでしょうか)

どのような困難な道でも、解決の道がついてくる、それが法を知ることによる正しい祈りの効果なのです。

これほどの教えはないのではないでしょうか。

なぜ、これだけの現象が現れているのに、それでもまだ、この教えを学ぼうとはされないのでしょうか?

私には不思議でなりません。

このブログを書いている間にも、救急車で運ばれていく人がいます。これ以上の罰当たりな行為はやめて反省されてはいかがでしょうか。

それ以外、もう救われる道はないのです。

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1月 14 2014

正しい基準

まだいくつか新興宗教批判はできますが(創価学会、霊友会、立正佼成会、GLA、阿含宗など)取りあえずこれくらいにしておきます。

あまり一変に書いても、これまで宗教とはそういうものと思い込んでいた人たちには、理解できないことも多々あるでしょうし、いろいろ支障が出てもいけません。(もう出てますかね?)

また間をおいて書きたいと思います。

それで、間違った教えはよく分かったはずですが、では、正しい教えとはどのようなものなのか?その基準を少し書いておきましょう。(そうしないと比較できませんからね)

正しい教えは、この世には神がつくられた次の五つの法則があることを、必ず説きます。

一、原因・結果の法則

物理学でいう動・反動、作用反作用の法則です。

釈尊がいわれた「善因善果 悪因悪果」「因果応報」のことで、悪いことをすれば、悪いことが、よいことをすればよいことが自分に返ってくる。一つの作用に対し、それに等しい力の反作用が必ずあり、この反作用のない力は存在しないということです。(この世に単独で存在する力はないのです。つまり自分が悪いことの原因をつくらなければ、自分に悪いことが起きるわけがないということです。では、名古屋で起きている現象を、名古屋の人たちはどのように考えるのでしょうか?)

二、慣性の法則

スピードを出している車が、急ブレーキをかけてもすぐには止まりません。(何メートルかは必ず走ります)これは慣性の法則が働いているからです。

ある物体が一定の方向に力を加えられると、その物体はその方向に進もうとします。これを慣性といいます。この物理の法則が精神の世界でも同じように作用しています。それをカルマ(業)というのです。

心がある一定の傾向性を持つと、無意識にそのことを行ってしまう、心の習慣性、一般にいわれるクセというものです。

このクセというものは人には必ずあるのですが、それが人それぞれの性格を作り出しているのです。業というと何か悪い意味のように感じますが、業には善業もあれば悪業もあります。どのような業を持つかは、自分自身の心が決めるのです。

三、循環の法則

地球は自転しながら公転しています。水も水蒸気となって蒸発し、それがまた雨となって降ってくるのであり、これも循環しているのです。空気も同じで、私たち人間や動物が吐き出した炭酸ガスを、植物が吸って酸素を出します。これも空気の循環なのです。

これと同じように私たち人間も循環しています。それを「輪廻転生」といいます。私たちは、あの世の意識界とこの世の物質界を循環し魂を磨いていくのです。

四、波長共鳴の法則

昔から「類は友を呼ぶ」といいます。

ラジオやテレビなど、電波の波長が合わないと、そのラジオを聞くこともできないし、テレビも観ることができません。

これと同じように、人も心の波長が合うもの同士が寄り集まってくるのです。類をもって集まる、それはそこに波長共鳴の法則が働いているからです。

五、エネルギー保存の法則

物理学でいうエネルギー保存の法則とは、この世のエネルギーは、いろいろな形態に移り変わるが、その総量は変化しない一定である、ということです。この地球上のエネルギーは、増えることも減ることもなく、ただある形から別の形に変わるだけなのです。

この法則は私たち人間にもあてはまります。

この物質界で、生活している時の私たちの肉体は、時が過ぎればその姿を変え、他のエネルギーに変換されますが、私たちの生命(霊魂)は消えることなく、現在・過去・未来の三世を循環し、永遠不滅なのです。

正しい教えとは、この五つの法則が物質面だけでなく、心の(精神の)法則としても働いていることを説き、そうして次の二つの条件が揃っていなければいけないのです。

その二つの条件とは、

一、永遠不変性

何万年、何十万年前であろうと、あるいは何万年、何十万年後であろうと、永遠に変わらない。

二、普遍妥当性

日本であろうが、アメリカであろうが、中国であろうが、ヨーロッパであろうが、もし、他の天体に人が住んでいるならば、その天体に住む人間も正しいといえる、どこでも正しく当てはまる。

この条件に当てはまるものが、本当の神の教えである『神理』(しんり)というものなのです。

したがって、アメリカやヨーロッパでは、あげもしないお経を上げている宗教も正しいとはいえず、一貫性のないくるくる変わる教えを説いている宗教も、正しいとはいえないのです。

五つの法則を説いて、二つの条件が揃っているものこそ、本当の正しい教えといえるのです。

この正しい教えを、分かりやすく(あるいは人々の生活に即して)説いているのが、釈尊の教えであり、キリストの教えであり、高橋先生、園頭先生が説かれました、この法なのです。

間違った教えをいくら勉強し実践しても、それが功徳になるわけではありませんし、それで救われるわけでもありません。(当然、悟りも開けません)

正しい教えをしっかり勉強し実践して、はじめて功徳も得られ救われもするのです。正しい教えを勉強していかれるのであれば、その証明として、それなりの神通力も備わってきます。(それは釈尊の弟子たち、キリストの弟子たちを知るのであれば、お分かりいただけると思います。悪魔が起こす現象と本当の神通力は全く別なのです)

そうして正しい教えを勉強し続けるのであれば、それが私たち人間の究極の目的である“宇宙即我”(悟り)の境地に到達できるのです。

正しい教えを勉強するのと、間違った教えを勉強するのとでは、後々、天と地ほどの差が出てきます。

正しい基準、正しい教えを知るということは、本当に大事なことであるといえるのです。

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1月 13 2014

新興宗教のおかしさ⑤

同じく園頭先生のご著書「正法と現代宗教」より抜粋します。

<生長の家

谷口雅春は、大本教の第一次弾圧の翌年、大本教を離れたが、アメリカ系の石油会社に勤めている時、古本屋でアメリカの光明思想家の本を読み、これに大いに触発された。そして大本教時代、出口王仁三郎の『霊界物語』を筆録した時に得た、万教帰一の教えとをもって、昭和五年から宗教雑誌『生長の家』を発刊する。

神道、仏教、キリスト教、クリスチャン・サイエンス、精神分析、精神身体医学等をまとめて、すべての宗教も生長の家にくると一つになるのであるといい、谷口雅春は釈迦、キリスト以上の偉大なる師であるといわれている。大本教の項でも書いたように、絶対的な天皇崇拝論者で、やがて日本天皇が世界の盟主となると説く。

生長の家の主宰神は立教当初、神道の住吉大神といっていたのが、仏教の観世音菩薩であるということになり、終戦直後は、住吉大神、観世音菩薩といっていたのは誤りで、宇宙創造神である天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)であるということになり、昭和三十五年頃、生長の家政治連合をつくって政治に進出するようになると、再び、生長の家の主宰神は住吉大神であるということにされた。

このように主宰神がくるくる変わることは、正しい神の啓示によって創唱されたのではなく、谷口雅春の知的判断によって始められたものであることを証明している。さらに、信者には内密に教祖夫妻は伏見稲荷を勧請(かんじょう)していた。

生命の実相には、神に神殿はいらない、金銭の多寡によって救われるのではないと書いていながら、京都宇治に神社をつくり、自分達が祭っていた伏見稲荷も末一稲荷と称して神社に祭り、金銭の多寡によって信者のランクつけをし、会員を増やし本をたくさん売れば幸福がくるといっている。

       (中  略)

教義を全体的にみると、その内容はくるくる変わってきている。生長の家は、神道、仏教、キリスト教の上に位置する教えで、生長の家に来ると、神道も仏教もキリスト教も全部分かるのであるといっているが、それは言葉だけで内容がない。宗教百貨店でしかない。

神から与えられた観法であるといっている「神想観」は、観無量寿経の中の浄土観すなわち日想観、地想観、水想観等にヒントを得て考え出されたもので、神の啓示により与えられたとはいえない。神想観が神の啓示によって与えられた正しい観法であるとしたら、生長の家からは悟った人がたくさん出ていなければならないことになるが、残念ながら悟った人が出たのを聞かない。もし悟った人が出たとしたら、その人は現在の生長の家のあり方に真っ向から反対するはずである。>

園頭先生は、生長の家にいられましたので、生長の家の教義のおかしさは細かく書かれていますが、この生長の家の一番の問題は、創始者の谷口雅春という人が悟って始められたわけではない、ということです。

この方はいろいろ勉強されたようで(生長の家は、精神身体医学やクリスチャン・サイエンスなど取り入れて、心の持ち方が大事であると説いたことが知的階級に受け、他の宗教団体の信者層よりはレベルの高い層が信者となっています)その知的判断によって、独自の宗教を提唱されただけで、その教えが本当の神の教えではないということです。

その証拠に、いうことがコロコロ変わってずいぶん大言壮語もされています。(釈尊、キリスト以上とは、いくらなんでもいいすぎでしょう)こういうところなど、自分の頭で考えてしゃべっているとしか思えませんし、信者に隠れてコソコソ伏見稲荷を祭っていたなど、自分が提唱している神に(住吉大神やら観世音菩薩やら)自信がない証拠です。

このようなことを考えますと、この生長の家も、とても正しい宗教とはいえないのです。

正しい宗教である、本当の神の教えは一貫性があります。そうして悟られた方が必ず始められているのです。(高橋先生、園頭先生はもちろんのこと、釈尊しかり、キリストしかりです)

わけのわからないものが憑いてきてはじめたり、行者やら宗教に詳しい人たちがはじめた宗教を、簡単に信じてはならないのです。

そのような人たちの教えは、正しい部分もありますが、間違った部分が必ずあるからです。間違った部分があるのは、正しい教えとはいわないのです。(それは、釈尊やキリストの言葉に間違いがないことでも、その事実が分かります。だから如来の言葉を「法」というのです)

真の宗教とはどのようなものなのか?その基準を、少しでも分かっていただければ幸いです。

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1月 12 2014

新興宗教のおかしさ④

園頭先生のご著書「正法と現代宗教」より抜粋します。

<ひとのみち・PL教団

ひとのみちは、禅僧であった御木長次郎(徳一)が、僧をやめ、金田徳光が始めた徳光教の信者となり、徳光が死んだ後、その跡をうけ、大正十年一月一日、小さな自宅に「御獄教徳光大教会創立事務所」の看板をかけた。

徳光教は、信者の病気を教祖が引き受けるという「お振替(ふりかえ)」と、教育勅語を教理とした小さな教団であったが、徳一はそれを踏襲し、昭和六年、ひとのみち教団と改称、朝参り、日の丸バッジ、新聞広告をやり、道徳の徳は損得の得だといい、都会の商人や小市民層をつかみ、教育勅語の中の親孝行や夫婦和合の道徳を強調し、昭和十二年には信者数六十万に達した。

「お振替」は、教祖が自分の病気を引き受けてくださったという催眠暗示効果は多少あって、一時、心の安心を得たとしても、それですべての病気が治るということにはならないし、また、信者の業を教祖が引き受けるということはできない。本人の業は本人以外に誰も引き受けることはできない。気休めの安心感を与えるに過ぎない。国の方針にそって教育勅語に示されている道徳を説いたとしても、道徳は道徳であって宗教ではない。

日本の教祖たちは、宗教と道徳の区別がついていない。宗教は、霊の向上、人格の向上と悟りを説くもので、道徳は霊の存在を説かず、肉体を持って生きている間の人間の生き方を説くものである。正しい人間としての生き方は、人格の向上にはなるが、悟りについては全くふれていない。だから、ひとのみちは、最初から修養団体というべきで宗教団体ではないといってよい。

        (中  略)

昭和二十一年九月、佐賀県鳥栖で、パーフェクト・リバーテーという名称をこしらえ、PL教団として開教式をあげ、ひとのみちからの引き続きで金田徳光の遺訓を掲げ、新たに「人生は芸術なり」「人の一生は自己表現である」「自己は神の表現である」「表現せざれば悩みがある」「真の自由を生きよ」などのスローガンを掲げる。

しかし、ただスローガンを掲げただけで具体的な真理を説いているわけではない。物事を深く考えることをしない、特に宗教の本質について全く考えることをしない民衆は「人生は芸術なり」というスローガンに魅せられて信者になった。宝生袋を与えてたくさん寄付するほどご利益があるといって金を集め、やがて大阪の南効羽曳野一帯にPLランドをつくり、その中にゴルフ場あり、子供遊園地あり、病院ありで、中央に正殿と脇殿とあって、正殿には大元霊(宇宙一元の根元力)と、教之祖(金田徳光と御木徳一の霊)を祀ってある。

このような神殿をつくることも正法ではないが、不可解なことは宗教団体と自称しながら、これが宗教とどういう関係があるのかと疑われるような多彩な営利事業をやっていることである。

東京と大阪にクラブ「VAN」バー「美紀」を、東京四谷には洒落たイタリヤ料理店を、その他、英会話学校、給食センター、ゴルフ場、不動産業、建設業、花火会社等を経営している。それらの資金は全部信者からの献金である。

古めかしいひとのみちを、モダンな教団にしたのが御木徳近であったが、事業欲を旺盛にして金儲けすることが人生の芸術とは、芸術という言葉さえ泣くというものである。>

人の病気を自分に振り替えるということはできません。(そんなことをしていたら、キリストなどあっという間に病気になり、死んでしまいます)

つまりこの教団は、最初からできもしないことを、さもできるようにいい、信者を集めたのです。

そうして教育勅語(明治天皇が教育に関して与えられた勅語)を教理としますが、それは道徳であって宗教ではありません。それに道徳の徳を損得の得としてしまうのですから、すでにその教えは道徳でさえもなくなり、ただの金儲けになっているのです。

その精神がPL教団と名を変えてからモロに現れます。それが宗教団体とは思えない、数々の営利事業です。

釈迦教団が、飲み屋や遊園地をつくったでしょうか?キリストが自分の教えを聞く人が増えたからと(元々キリストは大工さんでしたので)建設業など始められたでしょうか?

そんなことはないはずです。釈尊など多くの人から布施を受けましたが、その使い道といえば、すべて釈迦教団の運営、あるいは精舎の建設などにあてられたのです。

この教団はいっていることもおかしければ、やっていることもおかしいのです。(まったく神の心ではないということです)

しかし、このPL教のような教団はいくらでもあります。そのような大教団は、皆、神の名を利用し、金儲けをしている宗教産業に過ぎないのです。(園頭先生がいわれた言葉です。こうなるともはや金儲けしている普通の会社と何ら変わりません。とても神の教えを説く宗教団体ではないのです)

このような神の心から離れた、宗教団体とは名ばかりの、ただの宗教産業の教えでは人は救われないし、神の業も収まりません。

やはり、本当の神の教えを知らないと救われないのです。

追伸…元総理のコンビで、今度の東京都知事選に出馬するとか、しないとか話題になっているようですが、あの元総理が「脱原発」を旗印に、都知事選に出られても違和感がありますし(国政じゃないんですから)それに、その「脱原発」を旗印にすること自体、すでに都政をよく見ていない証拠です。

したがって、あの元総理が出馬して、もし東京都知事にでもなるようでしたら、それこそ東京に何が起きてくるか分かりません。

このブログは東京の人も見ていると思いますが、今度の都知事選は選ぶ人を間違うと大変なことになります。

東京の方々は、よくよく選ぶ人をお考えください。

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