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2015年6月

6月 30 2015

法を伝える使命の重さ

だから、私のブログを読んでいる人たちは、このブログが面白いから読んでいるのではなく、心が救われるから読んでいるのです。

その自覚があるかないかは知りませんが、自分たちの心はそれを知っているのです。

法と触れ合えば触れ合うだけ心にはよいのであって(神のエネルギーがもらえるからです。例えれば法は心の肥料のようなものです)だから、私がブログを書かないとがっくりする人や怒り人までいるのです。(心に栄養をもらえるかもらえないかではずいぶん違うからです)

ウナッシーさんなど、私がブログを書かないとがっくりくるタイプなんでしょうが、この法に縁が深ければ深いほど、自分の心が高ければ高いほど、法に触れないつらさは大きくなるのです。(それこそ一日法に触れない日があるだけでがっくりくるのです。そのような人も、このブログを読んでいる人の中にはいるのではないでしょうか)

しかし、普通はこれだけ毎日のように法を伝えるということはありません。(園頭先生が書かれていた正法誌だって月に一回です。それ以外の時は、高橋先生や園頭先生のご本を読んだり、ビデオを観たりして自分で法の勉強をしていたのです)今がどれだけ異常事態なのか、このようなことでもそれがよく分かるはずです。(そういう法に縁が深い人、心の高い人が何もしようとしないからです)

自分で法を勉強し、法を多くの人に伝えなければいけない人の分まで(そういう使命のある人は、このブログを読んでいる人の中にいます)私がやっているのです。(しかもほとんど無報酬で)

それは私にばかり奇跡が起きるはずです。そういう人たちが自分の使命を果たさないため、本当はそのような人たちが得るはずであった徳が、全部私に回って来ているからです。(よく考えてみれば〔鳥や魚が寄ってくるなどの〕これほどの奇跡は高橋先生や園頭先生にも起きていなかったのです。そのような両先生にも起きていない奇跡が起きるのは、時代が変わったということもありますが、それとともに一人で法を説いているということもあるようです。〔使命を果たさなければいけない人たちがまったく使命を果たさない〕高橋先生や園頭先生には法の流布に協力される人はたくさんいたからです。私などほんの数人です。これでは徳が集中するはずです)

このように、徳がこの世に形になって現れてくるということも大変珍しいことなのですが、逆にいえば、それだけ使命を果たさなければいけない人たちがボッーとしているからでしょう。

だから、神がそのような人たちのやる気を促すため、このような世にも不思議なことをこの世に現されたのです。

世にも不思議なことなのではないでしょうか?

そこらにいる鳥や海や川や池にいる魚、犬や猫、亀やカニや貝に至るまで、あらゆるものが私に寄ってくるのです。このようなことが起きたのは、もしかしたら史上初かも知れないのです。

史上初の不思議なことまで起こして、そうまでして神は、そのような使命ある人たちを目覚めさせようとしているのです。その人たちの罪は重いといわざるを得ません。(これほどのことを神にさせた人間も、もしかしたら史上初かもしれません)

このブログを読めなくてがっくり来る人、怒っているような人など、法を伝えるなにがしかの使命はあるのです。

その使命を果たしてください。(何をするかは自分で考えてです。人にいわれてするのではありません。自分で考えてするのです。その自分からしたよいことだけが自分の点数となるからです。その点数〔徳〕がたまらないと当然ではありますが天上界に行けません。使命がある人は自分の本当の使命を果たさないと、その点数は加算されません。それがこの世の修行だからです)

私は、周りの多くの人たちに嫌われながらも、それでも法を伝え続けているのです。法を伝える使命がある人は、このような苦労こそしなければいけないことであり、金儲けや名声を得るための苦労など、それは、これから法を伝えるための肥やしとなるだけの苦労なのであって、自分たちがしなければいけない本当の苦労ではないということです。(それは釈尊の弟子たちや、迫害を受けたキリストの弟子たちを知るなら分かるはずです。そのような苦労こそ法を伝える使命がある人たちがする苦労であるのです)

使命ある人は、自分たちの様々な体験を通して、法を世の多くの人々に伝えていかなければいけないのです。

そのような、使命を果たさなければいけない人たちが使命を果たそうとしないため、世界中で異常現象が起こり始めています。

それも、使命ある人たちがその使命を果たさないからです。

例えば、口永良部島の噴火でもそうです。島に帰りたがっている人はたくさんいます。

しかし、噴火が止まらなければ島民は島には帰れないのです。火山の噴火を止めるには、そこに住む人たちが神の心(法)を知って祈るしかないのです。

それをするならあの噴火は止まるからです。

しかし、それを私一人では伝える術がないのです。(仮に伝えることが出来たとしても誰もそれを信じないでしょう)だからそれを伝えて、そのことを島民に信じさせることが出来る、そのような人が必要なのです。

そのようなことが出来る人はいると思います。

例えば、多くの人に信用がある地位や名声がある人など、その自分の地位や名声を利用して、多くの人に法を信じさせるのです。

そうすれば、そこに起きている異常現象を収めるだけではなく、その異常現象を起こさないことも出来るのです。

そのような適材適所で法の使命を果たすべき人たちが、その使命を果たしているなら、このような異常現象が次々に起きることなどなかったのです。

先ほど、使命を果たさなければいけない人たちが使命を果たそうとしないため、世界中で異常現象が起こり始めた、と書いたことが嘘ではないとお分かりいただけるはずです。

そのような異常現象を、起こすことも可能なら止めることも可能であるということは、私が数々現した様々な現象でお分かりいただけると思うからです。

私は自分の身を犠牲にして(どれだけ評判が悪くなろうと)そのような異常現象は、自分たちの心でどうとでもなるということを証明したのです。

私が自分を犠牲にして伝えたことを、今度は使命のある人が使命のある場所でそれぞれ伝えていただきたいのです。(それこそ自分の身を犠牲にしてでもです)

それが自分たちの使命であるからです。

そうすれば本当の世界平和が実現するからです。

この法の流布をじゃますることが、どれだけ大きな罪となるかはこのようなことからも分かると思います。(そのじゃましているところがまた何か起きたようですが…自業自得です)

この法を世界に拡げれば、本当の世界平和が実現するのです。

その法を伝えなければいけない使命の重さを、もう少し自覚されてはどうでしょうか。

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6月 29 2015

していることの罪深さ

ニュースで流れていましたが、あの台湾の火災事故は凄かったですね。

地獄のようだったといっている人もいるようですが、まさに火炎地獄とは、あのようなものなのではないでしょうか。

放火犯や焼身自殺などした人が、火炎地獄に堕ちるそうですが(だから焼身自殺などした人は、死んでもまだ体が炎に包まれているということです。どれほどの苦しみでしょうか。本当に地獄に堕ちるということは恐ろしいことなのです)こちらも深い地獄に堕ちて行かないといけないような人がたくさんいます。

早く心変わりをされてはどうでしょう。

どこかの会社も、この暑いのに窓を閉め切って仕事をしています。(熱中症になる人がいるのではないかと心配です。だってそれも私のせいになるからです)

しかし、やることは同じようなことをしています。同じことをしているから同じ現象が現れるのです。何でこんな分かりやすいことが分からないのでしょう。本当に不思議です。

この人たちは、やたらこのパソコンの音に感情的になり、でかい音を立ててじゃまをし続けているのですが、このパソコンでブログを書くことで、そのブログを読んだ多くの人が救われているのです。(法を発信し続けているのですから当然そうなります)

ということは、私がこの場所でパソコンをうてばうつだけ、多くの人が救われていくのですから、そのじゃまをしているということは、多くの人を救うことのじゃまをしているということになりますので、その罪は大きいということになります。

その大きな罪を毎日のように積み重ねてきているのです。

そうであるなら、この人たちの罪は、どれほど大きなものとなっているのか分からないということになります。

だから、それに見合った災い(つぐない)が現れてきているのです。

毎日のように災いが起きているようですが、あなたたちが毎日のように行っている罪に比べれば、まだそのつぐないは少ないといえるでしょう。(だから、死後地獄に堕ちるのです。その罪のつぐないの足らない分を地獄で清算するからです。先ほども書きましたが苦しい場所ですよ。地獄は)

あなたたちがじゃまさえしなければ、私はもっと多くの人を救うことが出来ます。

自分たちが、していることの罪の大きさを少しは自覚されてはどうでしょう。あなたたちは多くの人が救われていくのをじゃまし続けているのです。(この人たちは単に私に嫌がらせをしているだけだと思っているようです。その程度のことで、そんな恐ろしいことが起きてくるわけがないでしょう。しかしこれは、私に嫌がらせをしている人、全員にいえることですけどね。だから恐ろしい災いが起きるのです。それだけしていることが罪深いことだからです)

これだけ毎日、人の心を救い続けている私に布施をされるどころか、嫌がらせをしたり、無視したりしているというのですから、本当に日本の人たちはやっていることがデタラメですね。(だからこれほどの現象を現されるのです。そう考えると、やっていることみな大して変わりません。〔苦笑〕)

それにしても日本の人たちは、他国の人たちのように独裁者に支配され、極端な差別を受けているわけでもなければ、考えられないくらいの貧困な生活をしているわけでもないのです。

ずいぶん(そのような国の人たちから見れば)恵まれた生活をしている人が多いはずなのに、そのように恵まれてしまうと、今度は、神に顔さえ向けようとせず人の意見に耳を傾けようともしません。

人は、困れば困るほど神に頼り、恵まれれば恵まれるほど神から遠のいて行くものなのでしょうか?

どちらにしても極端です。苦しいからと、何でもかんでも神に救いを求めるのもいけなければ(それは自力ではないからです)生活が恵まれているからと、神を少しも思わないのもいけない。

人の本当の幸せは中道にあるからです。神を思うのも中道でなければいけないのです。(神は中道という法秩序の中に住まわれているからです)

しかし、そのような貧困で戦争ばかりしている国から見れば日本の人たちは恵まれているのです。

今日食べる物さえおぼつかず、いつ鉄砲の弾が飛んでくるかもしれない、そんな戦場のような場所で穏やかな神の心を悟ることが出来るでしょうか?

この恵まれた場所日本で神の心を悟らなければ、これ以上の悟れる場所はないのです。

そのような恵まれた場所で、神の心を知ろうともせず、自分のことばかりやっていてよいのでしょうか。

このブログを毎日読んでいる人は、それだけ毎日心が救われているのです。

自分が救われるだけでそれでよいのですか?世界には救われていない人がたくさんいるというのにです。

嫌がらせをする人ばかりでなく、ただこのブログを読んでいるだけで私のいうことを少しも聞こうとしない人たちも、もう少しその罪の深さを自覚してください。(この教えが世界に拡がれば世界の人が救われるからです)

そのように、これ以上ないという恵まれた環境で、法を知ったにもかかわらず何もしようとしない、またはじゃまをするというその罪は、本当に深く大きいといわざるをえないのです。

(何度もいいますが、このブログを書くのをじゃましている人たちや私に嫌がらせをしている人たちは、例えば、川に流されそうになっている多くの人たちを、私が助けようとしているのにそれをじゃましている、それと同じことをしているのです。〔無視している人たちは傍観者です〕それは罪にはならないのでしょうか?そのような行為は罪になります。だから、その罪のつぐない〔災い〕を受けているのです。では、その人助けをしている私に協力したらどうでしょうか?当然、それは自分の徳となります。だから私に協力してくださいといっているのです。法を説いているということは、それは即ち人助けをしているということなのです。人助けをしているなら、協力するのは人として当たり前のことなのではないでしょうか。その当たり前のことさえしようとしない人が多いから、日本はこのような災いが次々に起きているのです)

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6月 28 2015

正しい信仰を拡げることの大事さ

昨日のことなんですが、あるお寺の前を通ると七~八十歳くらいの婆さんが、さい銭箱に寄りかかるようにして頭を付け、何か必死に祈っているようでした。

よほどの悩み事でもあるのでしょうか、真剣に祈っています。

私は少々哀れに思い、その婆さんの近くを通る時に「婆ちゃん、そこで祈っても祈りは聞かれないよ」といいながら通って行きました。

その婆さんは私が近くにいることを知っていたでしょう。(私が近くにいることを知り、その寺の中にいるすずめたちが騒いで飛び回っていましたから)そうして声も聞こえていたと思います。

しかし、私の声を無視して一心に祈っていました。

名古屋の人は、私に釈尊やキリストと同じ奇跡が現れていると分かっていて、もう既存の宗教では救われないと、それも分かっているのに、それでもまだ既存の宗教に頼り奇跡が起きている者を無視しているのです。

まことに哀れというしかありませんが、そのような人が名古屋にはまだたくさんいるのです。

未だ、お前が悪いと私に嫌がらせをしてくる人は多いのですが、では、その人に何か奇跡が起きているのかといえば、奇跡が起きている人など一人もいないでしょう。

自分にはまったく奇跡が起きていないのに(そればかりか、災いが起きている人までいるのにです)奇跡が次々に起きている私に「悪いのはお前」と嫌がらせをしてくるのですから呆れてしまいます。

そんな悪い者に、なぜ釈尊やキリストと同じ奇跡が現れているのですか?また、自分たちには何の奇跡も現れていないのです。では、自分たちが正しいと何をもって証明するのですか?

正しいことをしているから奇跡が起きるのであり(釈尊しかりキリストしかりです)正しいことをしていないから、何も起きないのです。(または災いが起きるのです)

これ以上分かりやすい話もないと思うんですが(口だけではないのですから)それはどうしても認めたくないようです。

それを認めてしまうと、私が正しくて自分たちが間違っているということを認めることになるからです。名古屋の人たちは死んでもそれは嫌なようです。(苦笑)

しかし、先ほどの婆さんの件でもそうです。

どれだけ悩みがあっても、お寺に祈っているだけでその悩みが解決されるのでしょうか?

されないということは、すでに多くの人たちが分かっているはずです。分かっていながら祈るのです。そのような習慣から、または苦しい時の神頼みからです。

しかし、そんな気休め程度のことが本当の信仰なのでしょうか?

お蔭があるのかないのか分からない、それが本当の信仰なんでしょうか?

このようなことは信仰なのではなく(単に気分転換だけの)観光なのではないですか?

つまり現在の多くの人たちは、信仰をしていると自分たちが思っているだけで(お寺回りなどの)観光をしているにすぎないのです。

観光を信仰と勘違いしていて、その祈りが聞かれるわけがありません。だから、祈りが聞かれないのです。

祈ればなにがしかの結果が必ず現れる、これが本当の祈りであり、本当の信仰なのです。

現に私は祈ると周りに次々に結果が現れてきます。

私に嫌がらせをしてくる人には、次々に災いが現れ(このような奇跡が、例えばストーカーとか、人とのトラブルの時に現れたらどうなるでしょう。そのような問題はすべて解決するということです)雨や台風を呼ぶことも出来ますし(ひどい日照りの時などこのような祈りは有効です)逆にそのようなひどい災害を止めることも出来ます。(現在の日本に一番必要なことなのではないですか?あまりにひどい災害が起こりすぎているからです)

また、動物が次々に寄ってくるという奇跡も起きています。(このような奇跡など、どれだけ癒されるか分かりません)

このようなことが起きるのも、その教えが正しいものであるからであり、その教えを知れば奇跡が起きるだけではなく、人の正しい生き方が分かり、死への恐怖も段々なくなって行くのです。

人としての正しい生き方が分かり、死の恐怖がなくなり、祈れば次々に奇跡が起きる、このような結果となるのが正しい信仰であり、私たち人間が絶対しなければいけない信仰であるのです。

この正しい信仰は何も日本の人だけにとどまりません。(お経を上げなさいとか、仏像に祈りなさいとか、そういう限られた人たちだけが限定的にやっているようなことを、信仰としていないからです。正しい心の在り方を教え実践することと祈り、基本それだけしかやっていないからです。これは世界中の誰もがやれることであるのです)

現在は、イスラム国で説いているような間違った教えが世界中でテロを起こし、戦争まで起こしています。

しかし、このような人たちにも正しい心の在り方を説くのであれば、正しい生き方が分かり(例えば、貧困のせいでこのようになったという人には「あなたは、そういう貧困の生活の中から神の心を知るように自分で仕組んで生まれて来ているのです。だからそのような貧困な生活に感謝して努力していれば必ず道は開けます。決して貧困のせいにして人を恨んだりねたんだりしてはならないのです。その貧困でしか得られない勉強もあるからです」と説くのです。そうして、そのような環境に感謝できる心にしてから祈れば、必ずそこに奇跡が起きるのです)正しい生き方が分かれば、テロや戦争をすることがどれだけ間違っているのか、それも分かるというわけです。

そういう話をしていきながら、祈れば、またそこに様々な奇跡が起こります。(モーゼの大奇跡のようなことが起きることもあれば、キリストがされた癒しの奇跡が現れるかもしれません。そこにいる人たちの心次第です)

そうなれば、すぐには無理かもしれませんが、このイスラム国のような集団をなくすことも出来るのです。

もちろん、世界中で起きている(科学者が温暖化のせいにしている)異常気象も収めることが出来ます。(それは先ほどの説明でお分かりいただけると思います)

とにかく、いま地球上に起きているすべての問題を解決することが出来る、それが本物の神の教えであり、正しい信仰であるのです。(しかもこれは何の武器も何の機械も必要ありません。空手〔手に何も持っていないという意味です〕で出来るのです)

逆にいえば、正しい信仰をしないから、いま地球上で起きている様々な問題が生じてくるのであり、したがって日本の人々が正しい信仰に目覚めるのであれば、世界を救うことが出来るのです。

日本から世界中に行くことは造作もないことだからです。

日本の人々が正しい信仰を知るなら、あとはそれを世界に拡げてくれるだけで世界が平和になるのです。

世界を救えることが可能なのは(法が出現している)日本だけなのです。

正しい信仰を知ることの大事さ、少しはお分かりいただけるでしょうか。

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6月 27 2015

国を潰(つぶ)す思想

今日の中日新聞の一面が、昨日のニュースでガンガン流れていた、例の言論弾圧の記事なんですが、あれ本当の話なんでしょうか?

本当の話というより、私的な雑談での話というではないですか。何でそんな話をさも正式に発言したように新聞は書いているのでしょう。

これでは人を陥れているのと同じですね。(何か他人事ではありませんね。私もそれに近いことされていますから。〔笑〕)

いくら与党(自民党)の勉強会とはいえ、私的な雑談の話を正式に話したかのようにテレビや新聞で取り上げて、ボロカスいわれるのもかないません。

そんなことがもし事実であるなら、それは犯罪に近い行為といえるでしょう。

こういうことを平気でする報道陣がいるなら、それこそ報道規制をした方がいいのではないですか?それは正しい報道とはいえず、人を陥れているだけだからです。

マァ、これからは正しい報道をしなければ、その正しくない報道をしているところにも災いが起きてきます。もう少し慎重な報道を心がけていただきたいものです。それがご自分の為でもあるからです。

しかし、報道の自由だの、言論の自由だの、出版の自由だの、何でもかんでも自由、自由といいますが(さも自由が正しいことのようにいいますが)この前のあの元少年Aが出した本、あれなどもやはり出版の自由の範囲内なのでしょうか?

あれも出版の自由の範囲内というなら、被害者遺族のお気持ちはどうなるのでしょう。

私は、その出版の自由よりも、もっと勝るのが被害者遺族のお気持ちであると思うからです。(というより、被害者遺族のお気持ちを一としないといけいないでしょう。それが当たり前のことだと思いますが)

その被害者遺族が出版の差し止めを求めていられるのです。

それなのに、出版社はそれを無視しているのです。こういう自由がまかり通っていてよいのでしょうか?(いけないと思いますよ。こういうことを平気でやっているから災いが起きるのです。そのような行為は間違いであるという気づきの現象です)

先ほどの人を陥れているような記事といい、このような被害者遺族のお気持ちを無視した金儲け第一の出版といい、だからある程度の規制は必要なのではないでしょうか。

何でも自由というほど怖いものはないのです。(そんなことをいっていたら、イスラム国がやっている、人を殺傷するようなテロまで自由という人が出てきかねません。何でも自由というのではなく「ある程度の規制は何でも必要である」といわないといけないのです。極端な発想を持つ人は必ず出てくるからです)

しかし、人を陥れるような記事はともかく、あの「沖縄の新聞は潰さないといけない」といわれたことは本当のようですが(もちろん雑談の中ででしょうが)沖縄の新聞が左翼思想丸出しの新聞なら(私は読んだことがないので分かりませんが、仮にそうだと仮定してです)それは潰した方がいいでしょう。

左翼思想が沖縄に蔓延するなら、それこそ沖縄が潰れるかもしれないからです。

左翼思想(共産思想)の危なさは、これまでにこのブログにくどいほど書いてきましたので(共産思想は国を滅ぼすとです)あえてここでは書きませんが、そのような国が潰れるような思想は持たない方がよいでしょう。

そのような思想は国を潰すだけではなく(当たり前の話ですが)自分自身も潰してしまうからです。

あまりに神の心から離れた思想であるからです。

しかし、その神の心から離れた危ない思想を、なんとアメリカ全体が持ってしまうとは思いませんでした。なんとアメリカは危ないことをしているのでしょう。これではアメリカもいつ潰れるか分かったものではありません。

本当にアメリカは危ない思想と行いをしてしまったものです。その危ない思想と行いとは、あの同性婚の解禁のことです。

あれはまずいでしょう。この前、どこやらの国も同性婚を認めたようなニュースが流れていましたが(どこだったか忘れましたが)アメリカがそれを認めたとなると、世界に及ぶす影響が違います。

アメリカが先に立って間違ったことをしてしまったとなれば、それは天も黙っていないでしょう。これからのアメリカは何が起きるか分かりません。日本以上に怖いですね。(恐)

アメリカの人たちは、ソドムとゴモラの町の話を知らないのでしょうか?キリストが同性婚はよいなどといわれているのでしょうか?

アメリカは聖書を読んでいる人が多いはずなのに、何でこんなことを認めたのでしょう。先ほどの話ではありませんが、これが自由(と平等)の怖さなのです。

何でもかんでも自由という話になると、このような、そういうことを行えば国が滅びると昔の書物に遺されていても、偉大な方がそんなことを認めていなくても、それを無視して、このような間違ったことをしてしまうのです。

だから規制は必ず必要なのであり、昔の書物に学ぶ(歴史に学ぶ)ということも必要なのです。

今の流行りの思想に(単に、いま盛んにいわれるようになったというだけで)簡単に乗っかることが、どれだけ危ないことかお分かりいただけると思います。

私たちは、昔から遺る偉人の言葉、そうして歴史に学ぶということを忘れてはならないのです。

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6月 26 2015

科学と宗教の融合

鹿児島は記録的な大雨になっているようですね。百年ぶりの大雨とテレビでいっていましたが、いくら異常気象とはいえ一体何が起きているんでしょうか?(特別警報の五十年に一度を通り越して、百年ぶりの大雨というのですからね。異常すぎます)

年間降る雨の半分くらいが、一変に降ってしまったとかなんとかいっていましたが、まだこれから降るんですよね。

すでに土砂崩れなども相次いでいるとか、鹿児島は桜島の噴火もあります。このまま激しい雨が降り続くと、下手すると潰れてしまうのではないかと心配になります。

だから私はいったのです。鹿児島の川内原発を動かすか、太陽光パネルを外すかしたらどうですかとです。

一度やってみてください。この激しい雨が止まるかもしれないからです。

などといったところで、そんなことそんなにすぐにやれるわけがありません。では、祈りましょうか?とりあえず鹿児島の雨を止める方法はそれしかないからです。

しかし「雨乞い」というのは(あまりに雨が降らなかった時など)されるところもあるのですが、雨を止める方の祈りはされないんですね。

なぜですか?(素朴な疑問ですけどね)

ほしいものがある時だけ祈り、いらないものがある時は祈らない「困った、困った」と見ているだけ、現世利益宗教(間違った宗教)の典型のような祈り方ですが、雨を降らせる祈りがあるなら大雨を止める祈りがあってもいいはずです。

なぜ、干ばつの時だけ祈り大雨の時は祈らないのですか。やらなければいけないでしょう。今の鹿児島などそのような祈りが必要だからです。

間違った信仰は祈りまで偏っています。

自分たちがほしいものだけ祈り(現世利益)いらないものを止めることは出来ないと思っているからです。

しかし、祈りとはそんな偏ったものではないのです。あらゆるところで救われる、それが本当の祈りであるからです。

私がタイの大洪水を引かせたのがいい例でしょう。このような困ったことが起きた時、それを救ってくれるのが本当の祈りなのです。

では、鹿児島を祈ればあの雨は止まるのか?ということですが止まるでしょうね。私が祈っても無理でしょうが、鹿児島の人たちが本当に神を思い祈るのであれば、あの雨は止めることが出来ます。(昨日の話ではありませんが、善因善果、悪因悪果、鹿児島に悪いことが起きているのは鹿児島の人たちに問題があるからです。だから鹿児島の人たちが本当に神を思い、自分たちの心を反省して祈るのであれば、あの雨は止まります)

つまり現代風にいえば、祈りで梅雨前線を動かすことも出来れば、前線の活動を弱めることも出来るということです。(そういうことを私は実際にやっています。〔祈って前線を動かしたり急に活発化したりです〕私がやっているのですから不可能ではありません)

要は、鹿児島の人たちの心次第なんですが、しかし、それを伝える術もなければ、それをいったところで誰も信じないでしょう。

では、やれないのと同じですね。

だから私は法を早く伝えてくださいといっているのです。

法を多くの人が知っているなら、鹿児島のようなところも救うことが出来るからです。しかし、これほど法が知られていないのでは、仮に私が祈っても鹿児島の雨は止めることが出来ないでしょう。

天がそのような祈りを聞いてくれるわけがないからです。

『法を先に拡げろ』といわれるに決まっているからです。(心が変わって初めて天変地変は収まるのです。先に天変地変を収めてしまっては順序が逆です。それでは肝心の心を変える〔法を伝える〕ことが出来ません。だから、そのような祈りは聞いてくれないのです)

科学、科学と、科学にばかり頼っていますが、しかし、現実に科学ではどうにもならないこともあります。

もう少し(もう何度もいっていますが)神に頼られてはどうですか?

そうすれば、その科学で足りないところを足すことが出来るからです。

科学と宗教の融合(もちろんその宗教は本物の宗教、即ち法でないといけませんが)それこそが真の平和をもたらすものであり、人が物心両面で幸せになれる道なのです。

現在は科学は宗教を否定し、宗教は科学を否定しています。(宗教は科学を否定しているというか、宗教は科学の裏付けがないといけないのです。今の宗教は、いきなり神の力でこれをやったとか、教祖様の力であれをやったとか、まったく科学的な裏付けがなく結果だけをいっているのです。これは科学を否定しているのと同じです)

これでは偏った幸せしか得られないのであって、だから、科学に偏っている人は表面上だけの形だけの幸せしか得られないし、宗教に偏っている人は、表面も内面も全然幸せになれないのです。(宗教に偏っている人は、金を〔布施の名目で〕むしり取られ、貧乏な不幸な生活をしていても、それが幸せだと勘違いしているだけなのです。現在は正しい宗教がないからです)

しかし、そのような科学と宗教が別々の道を歩む時代は終わりました。

科学は宗教を認め、宗教は科学を認め、科学と宗教の融合、科学と宗教が調和する時代が来ているのです。

そうなって初めて本当の幸せが得られるからです。

科学、科学と偏ったことをいっているのではなく、少しは(本当の)宗教も認められてはどうでしょう。

それを認めないと、解決しない問題も多々あるからです。

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