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10月 03 2013

パウロと親鸞上人

10:58 AM ブログ

昨日は暑かったですね、十月の観測史上最高の気温を記録したところが続出したようです。台風も二十二号、二十三号と立て続けに日本に向かってきたようですし(幸い上陸までには至らないようですが…二十三号はまだ分かりませんが)まだまだ異常気象は続いています。

いつまでも法を無視している行為が、どれだけ恐ろしいのか(またもったいないのか…その理由はこれから書きます)まだ皆さんお分かりではないようです。(昨日はサイレンもよく聞こえました)

それはともかく、昨日書きました“人間罪の子”という思想が、なぜこれだけ日本に拡がっているのか?その理由を書いておきましょう。

それは昨日も書きましたようにパウロと親鸞上人の影響が大きいからです。

増谷文雄著「仏教とキリスト教の比較研究」という本があるのですが、この本の中にはパウロと親鸞上人が説いていることは、まったく同じであるということが書かれてあります。また佐古純一郎著「パウロと親鸞」という本にも、二人の信仰の内容が驚くほど似ていると書かれてあります。

このようにキリスト教と仏教が、同じ真理を説いているということを説明しようとする人たちのほとんどすべては、パウロと親鸞上人を対比しているのです。このお二方は、そのいわれていることが驚くほど似ているからです。

ローマ書第七章に書かれてありますが、パウロが「我はわが中(うち)、すなわち我が肉のうちに善の宿らぬを知る。善の浴すること我にあれど、之を行う事なければなり……我らの主、イエス・キリストに頼りて神に感謝す。されば我みづから心にては、神の律法(おきて)に仕え、肉にては罪の法に事(つか)ふるなり」といっていることと、親鸞上人が「真実の心はありがたし、虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて、清浄(しょうじょう)の心もさらになし……悪性(あくしょう)さらにやめがたし、心は蛇蝎(だかつ)のごとくなり」といっていられることは同じであるし、パウロが「人間は罪の子である」といっていることと、親鸞上人が「罪悪深重の凡夫」(ざいあくしんじゅうのぼんぷ)といっていられることは同じなのです。

このようにパウロも親鸞上人も、人間は罪の子であり、その人間は、自分で自分を救うことができないので、キリストや阿弥陀如来のみ名をあがめ祈り(念仏)キリストや阿弥陀如来に救ってもらうしかないと説いていられるのです。(他力信仰)

このパウロと親鸞上人の考え方が、今日のキリスト教と仏教の考え方の主流となっています。だから、今の宗教界は「人間は罪の子」といわれることが多いのですが、もちろんこの考え方は間違っています。

それは釈尊の過去世を持たれた高橋信次先生が、この日本に肉体を持たれ法を説かれたことで、その事実が分かったのです。釈尊もキリストも一言も「人間は罪の子」などとはいわれていません。

「人間は神の子」であるからです。(その理由は昨日のブログで説明したとおりです)

キリスト教がパウロの影響をまともに受け(だから現在のキリスト教はパウロ教といわれるのですが)仏教界が親鸞上人の教えの影響をまともに受けた、パウロや親鸞上人の教えを盲目的に信じてしまった人が多かった、そのために今日の宗教界では「人間は罪の子である」という思想が拡まっているのです。

しかし、この考えは間違いで私たちは皆、神につくられた神の子なのです。だから、正しいことをしなければいけないし、神の子であるから神の悟りを得ることができるのです。(罪の子では悟りなど得られませんから)

これからは「人間神の子」この思想を拡めなければいけないのです。

追伸…なぜ、パウロと親鸞上人は同じことを説いたのか?これもついでに書いておきます。もうお分かりの人もいると思いますが、このお二方は同じ人物だったからです。

お分かりですか?パウロが生まれ変わって日本に親鸞として生まれたのです。だから同じことを説いたのです。(同一人物ですから)

これも、高橋先生が教えてくれなければ分からなかったことですが、このような事実が分かると、パウロと親鸞がなぜ同じことをいわれたのか合点がいきます。

しかし、パウロがローマで死刑になったのは西暦の64年のことです。そうして親鸞上人が、日本に生まれられたのが1173年です。この間が約千百年ほどあるのですが、その間ずっとパウロは天上界にいられたはずですが、この人一体何を天上界で学んでいたんでしょう?

あの世に帰れば、この世現象界で犯した間違いを厳しく反省し、勉強しなおすはずですが、そのローマでした同じ間違いをまた日本に親鸞として生まれた時にもしています。

この方の、心の進歩がまったく見られないというのは残念なことですが、このパウロ(親鸞)であった方は、その前世は、釈尊の弟子でクナンダ・カシャパーといわれる方であったのです。

つまりこの方は、釈尊の弟子として法を学び、そうしてキリストの教えを学び(キリストの奇跡まで体験されました)そうして日本に親鸞という僧として生まれて法を説かれたのですが、それでも完璧な法が説けていないのです。(そのような縁から、今生は高橋先生の身内として生まれられましたが、それもダメだったようです。最後に高橋先生を裏切り、園頭先生にも師事されなかったようですから)

これだけの縁をいただいても、それでも法をしっかり理解するというのは難しいのです。(しかもこの方、菩薩界の人です。菩薩の心を持っていてもこれです)では、それほどの縁を持たない人が、そう簡単に法を理解することができるでしょうか?

まず無理でしょう、だから、そのチャンスがある時に、しっかり法は勉強しておかなければいけないのです。

このブログを読んでいる多くの人が、めったに来ないチャンスをみすみす逃しているということです。

なんともったいないことでしょう。

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