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11月 26 2010

園頭広周師⑲

10:34 AM ブログ

園頭先生は西日本本部長という肩書きは貰いましたが、あまり新入りがでしゃばってもいけないと思われ、また生来の遠慮深い性格もあって、GLAの先輩講師のやることには口を出しませんでした。

GLAの講師たちは園頭先生より年下の人が多く、また今生の体験でも園頭先生ほど多くの人を指導し、奇跡を起こされている人はいませんでした。今生でも過去世でも、園頭先生ほどの実力も実績もない人たちばかりなのに、園頭先生に指導を仰ぎにきた人は、講師の中では一人もいなかったのです。

園頭先生の眼から見れば、GLAの講師たちの会員たちへの指導は、なんと幼稚なものと思われていたでしょうが、だからといって園頭先生がでしゃばり「この人への指導はこうしたほうがいい」ということはされませんでした。しかし、高橋先生も同じ気持ちであったのでしょう、だからこそ園頭先生には期待をし、いろいろ相談もされていられたのだと思います。

しかし、園頭先生は自分から積極的に動こうとはされませんでした(シャリー・プトラーの時はそうではなかったのですが)。そのことが後の悲劇へと繋がっていくことになったのです。

園頭先生は、高橋先生が講演会や研修会をしていられる時、それにお供としてついていかれても、できるだけ先輩講師に花を持たせ、自分は遠慮していることが多かったのでした。

しかし、高橋先生は園頭先生がそれでは困る、という思いを常に持っていられました。(それはある研修会で園頭先生の態度を、高橋先生が非常にきつい言葉で、注意されたことでもその事実が分かります)

「あなたが未熟な講師たちを指導しなければ一体誰がそれをするのか、私ばかりに頼られていては困る、私はもうそれほど長くこの世にいるわけではないのだから」

キリストであるならば、はっきり園頭先生にそういわれたでしょう、しかし、高橋先生はそのようなことをいわれる方ではありませんでした。自分でそのことに気づくのをジッと待っていられる方であったのです。しかし、釈尊の時はそれでもよかったのですが(釈尊は四十五年の間この世で法を説いていられましたので)、今生は時間がありませんでした。(高橋先生は昭和四十三年に大悟され、それから多くの人に法を説き始め昭和五十一年に昇天されましたので、実際は七~八年しか法を説いていられません)

それでも高橋先生は園頭先生を頼りにされていました。

「インドで四十五年間かかって説いたことを、今度は七年間で説いてしまいました。今日は何を話しましょうかね」

昭和五十一年(この年の六月に高橋先生は昇天されます)ころになると、高橋先生は園頭先生に度々そのようなことを言われて講演をされていました。このころには多くの人がGLAに集まり、高橋先生の講演会も聴きに来る人が数千人を超え、会場は人であふれ入りきらない人は、会場のロビーのテレビで、高橋先生の講演を聴いているという状態でした。

GLAに法を聴きに来る人はどんどん増えているのに、講師たちが進歩していない、高橋先生はそのことを憂いているようでした。

この年の四月、関西で高橋先生の講演会があったのですが、その講演の前にある幹部の人にポツリと高橋先生が「私の説いたことを一から十まで全部分かっているのは、園頭さんが一人だ」と言われました。

この言葉には重大な意味があったのですが、その幹部はそれほど深くこの言葉の意味を考えず、そのことを園頭先生に伝えました。

園頭先生は照れ隠しに「いやみんな分かっていますよ」と言われましたが、内心では「やはり高橋先生は分かっていて下さった。自分のことを知っていてくださった」と思われたのですが……それから二ヵ月後高橋先生は昇天されることになります。

この時の高橋先生の言葉の意味を、GLAの幹部たちが理解できなかったため、高橋先生が昇天された後のGLAは、大混乱をきたすことになったのです。

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