3月 13 2014
如来の念の強さ
昨日、ウナッシーさんからいただいたコメントで、あることを思い出しました。今回はその話を書きたいと思います。
昨日ウナッシーさんから、私に意識を向けられると、その日一日気分がいい、というコメントをいただきましたが、実は、如来といわれる方々の念は非常に強く、少し意識を向けられただけで不思議なことが起きることがあります。その如来の念の強さが分かる出来事を書いておきましょう。
園頭先生から次のような話を聞いたことがあります。
園頭先生の家には庭があり、その庭には、たくさん木や花が植えてあったそうですが、その中の一本の植木が(それほど大きな木ではなかったそうです)庭を歩く時にちょっと邪魔だったそうです。
それで園頭先生が、ある時その木に向かって「この木邪魔だな」と思われたそうです。
すると翌日、その木が枯れていたそうです。
その急に枯れた木を見て、園頭先生の奥さんが「あなた、またこの木を見て邪魔だと思ったでしょう」といわれ、園頭先生を怒られたそうですが、このようなことが園頭先生の家ではよくあったそうです。(園頭先生が「この木邪魔だな」とか「この花はもういらないな」と思うと、すぐにその木や花が枯れてしまったそうです)
このようなことは、如来の念の強さがよく分かる出来事のように思えますが、どうでしょうか?
木や花を見て「邪魔だな」と思っただけで、その木や花が枯れてしまうなど、本当にこんなことが起きるのか?と疑われる人もいるかもしれませんが、しかし、このようなこと、特別園頭先生だけに起きたことではありません。
如来といわれる方々には同じようなことが起きているのです。
聖書に次のようなことが書かれています。
「マタイによる福音書」から抜粋します。
<朝早く都に帰る時、イエスは空腹をおぼえられた。そして道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当たらなかった。そこでその木にむかって「今から後いつまでも、おまえに実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。弟子たちはこれを見て驚いて言った「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」>
このような記述が聖書にもあるのです。
キリストが、イチジクの木に向かって「今から後いつまでも、おまえに実がならないように」といわれたとたん、その木が枯れたのです。
つまり、如来が出す念はそれほど強いということであり、その如来によい意識をもたれないと、よいことも起きてこないということになります。
私はそれほどでもありませんが、しかし、ウナッシーさんがそのように感じられるのであれば、私の念も多少は強いのかもしれませんね。
どちらにしても、人に悪く思われるよりは、よく思われた方がいいでしょう。すべての人は(目には見えませんが)そのような念を発しているからです。
人が、そのような念に影響を受けることは、多々あるからです。
まして、如来や神の使いといわれる人たちに悪く思われるなど最悪です。名古屋の人たちによいことが起きない理由も、そこにあるのではないでしょうか。



人目の訪問者です。

気がつけば家の中が変わってきています。私の妻の口からよく耳にするようになったのは「お父さん優しいね」って言葉なのです。私はいたって普通なんですが…例えば、先日の話。定年して家にいる義父がたまに食後の片付けを手伝っている最中に茶碗を落とし割ってしまったようで妻が夕飯の時私に話をしてきたので「怪我はなかった?」と返した時にそう言われました。どうやら妻と義母は茶碗を割ったことに対し本人に愚痴ってたようで、気遣う言葉すら浮かばなかったようです。
本当の神の教えを知ると、そのように、いつの間にか変わっている、ということがよくあるのです。(他の人からいわれて、そういえば前とは違うな、とはじめて自分で気づくのです)
私のブログを読んでいるだけなのに、ウナッシーさんはずいぶん変わられたようです。未来にいた時とは、全然違うみたいですね。(笑)
偽の教えと本物の教えの違いです。
しかしそれも、自分で気づいて、自分でやらないと変わりませんけどね。
ウナッシーさんは、自分で気づいて実践されているということでしょう。