>>ブログトップへ

9月 21 2014

愛を持って生きる

11:12 AM ブログ

昨日は、また中川運河を通ったので運河近くまで下りていきました。

国道一号線にかかる昭和橋の角に派出所があるのですが、その派出所と昭和橋の間に階段がつくってあって、下の中川運河まで下りていけるのです。

そこを下りていって運河を見ると、少し離れたところでさざ波が立っていました。そのさざ波の塊が、あちこちにあり、ずいぶん遠くの方までのびています。

あそこに魚がいることは分かっていましたので、そちらに向かって「オイ元気か」と叫びました。二、三度叫ぶと、その塊のいくつかがこちらに近づいて来ました。

私がいることが分かると、そのさざ波の塊の中にいる魚があっちでもこっちでも跳ねています。

結局そのさざ波(魚の集団)は、私から数メートルの辺りで止まっていましたが、すぐ近くで小魚が何匹も跳ねていましたから、何匹かの魚は、私の目の前の辺りにまで来ていたと思うんですが、いかんせん水が汚くて魚影が全く見えません。(あの辺りは特に汚いのです)

魚が跳ねないといるかどうか分からないのです。(ほんと水が真っ黒ですからね)

それで私が「もっとこの水をきれいにしてやるからな」と運河に向かって話しかけると、とたんに一匹の小魚が跳ねました。

この魚たちだけでなく、鳥など含めたすべての生き物は人の言葉が分かるようです。(あるいは心を読んでいるのかもしれませんが)

そのような動物たちを、どうせこちらのいうことなど分からないだろうと、バカにして見ている人も多いと思いますが、とんでもありません。人の言葉どころか動物たちは人の心まで読んでいるのかもしれないのです。

「動物など本能で動いているだけで何も分からない」そのように思っている人の無知さを、逆に動物たちは笑っているのかもしれません。

犬や猫や鳥たちを見ているだけで可愛い、と思う時がよくあるのではないでしょうか。そのように思える、そのような動物たちは、すでに私たち人間に愛を与えてくれているのです。(だから可愛いと思うのです)

では、私たち人間も、もう少し動物たちに愛を与えてもいいのではないでしょうか。

この愛を与えるということを、餌を与えるということと勘違いしている人もいますが、そこらにいる生き物に、何でもかんでも餌を与えればいいというものではありません。(人が餌を与えなくても、害虫や木の実などを食べて、生きていける生き物もたくさんいるからです)そこは節度を持っていただきたいものです。

私は餌など与えたことは一度もありませんが、鳥でも魚でもいくらでも寄って来ます。

動物たちに愛をかければ、その愛を動物たちはちゃんと返してくれます。要は心の問題なのです。(これは動物だけでなく植物でも同じですけどね)

その人の心に愛があるかないか、それだけなのです。

昨日も中川運河で魚たちに愛をもらった後、このようなことがありました。

私が歩いていると、また高校生数人と道で会いました。(ちょうど、この前の女子高校生三人と会ったくらいの場所でです。今度は男子高校生でしたがその高校の生徒でしょう)

私の前を歩いていた数人の高校生の一人が、歩きながらいきなりザッと足で音を立てました。得意の嫌がらせでしょう。

それで私が後ろから「オイオイ鳥も寄ってこないくせに、そんなに善人ずらすんなよ。何で悪人に鳥が寄ってきて善人に鳥が寄っていかないんだ。どっちが善人か悪人かは鳥が教えているだろう」というと、前の数人の高校生が少し固まったようでした。

そうして歩いていると堀川に差し掛かったものですから、私は、その堀川沿いを曲がって川に沿って歩き出しました。その高校生たちはまっすぐ(その堀川を渡り)歩いて行きます。

曲がってすぐに堀川に呼びかけました。「お前ら元気か」とです。

するとあちこちで魚が跳ねだしました。私の近くで少々大きな魚が跳ねたものですから、私はその魚に向かい「お前元気だな」と声をかけると、その同じ魚が二度、三度と跳ねるのです。

私の声が完全に分かっているようでした。それで堀川を渡っていたその高校生たちに「よう、こんな奇跡が起きているんだから、お前らも見て行けよ」と声をかけたんですが、私の声を一切無視し、その高校生たちは堀川を見ようともせず歩いて行きます。

そのような高校生たちに「こんなことが悪人に起きるか?鳥だけでなく魚まで教えているだろう。誰が善人かをよ」「お前らの学校のブーちゃんに、この前しっかり話といたから(この前の女子高校生三人組です。〔笑〕)よく聞いといてくれよ」と声をかけました。

その声に反応し、少しこちらを見た高校生もいましたが、ほとんど私のいうことを無視して自分たちで話をしながら、高校生たちは頑なにこちらを見ようとせずに歩いて行ました。

が、しかし、バシャバシャ魚が跳ねる水音は嫌でも耳に入ってきます。

川を渡りきる最後に一人、二人の高校生が堀川を見ていました。(「気になるんなら最初から見ろよ」といいたくなりました。〔笑〕)

このような奇跡が、目の前で起きているというのに、それでも私を無視しているのです。

哀れというしかありませんね。一体何を思って私のいうことを無視しているのでしょう。私が大悪人だから、そんな奴のいうことが聞けるかということでしょうか?

しかし、それは自分で確認したわけではなく、単に人の噂を信じたにすぎません。自分が確認していないんですから、それが事実がどうかは分からないし、このような現象が目の前で起きているのです。

では、その噂の人が本当に悪人かどうかは、自分で判断できるのではないでしょうか。

愛があるから鳥でも魚でも寄ってきて、このような奇跡が起きるのです。

それとも、魔力でこんなことをしているとでも思っているのでしょうか?残念ではありますが、悪魔の力では不思議なこと(病気を治したり、飛び跳ねたり、スプーンを曲げたりする人が驚くようなこと)や不幸なことは起こせても、この生き物が喜んで寄ってくるという、愛ある奇跡は起こせないのです。

悪魔の力では絶対に起きないことが、現実に目の前で起きているのです。

このような事実が目の前で展開している以上、残念ではありますが、この辺りの多くの人が思っているような大悪人では、私はなくて、そのように思っている人の方がよほど大悪人なのです。

そうではないですか?だってそういう人は鳥や魚が寄って来ないんでしょう。では、よほど愛がないということになり、それでは悪人といわれても仕方ないのではないでしょうか。

悪人だから、たった一人の者を平気で悪人に仕立て上げることもできるし、その一人の者によってたかって嫌がらせができるのです。

もし、その人が愛がある善人なら、どういう理由にせよ、一人の者によってたかって嫌がらせなどできないし(かわいそうという心が先に来てです)たった一人の者がそれほどの悪を犯しているとも考えません。

愛があるなら、少しは自分にも悪いところがあるのではないかと、あるいは他に理由もあるのではないかと考えるはずです。

自分に愛がないから、一方的に一人の者を悪者に出来るのですし、よく分からないのに、一人の者に平気で濡れ衣を着せることも出来るのです。

こういう人を、悪人とはいわないなら他になんというのでしょうか?(今日も平気でバシバシやっていますが、そのようにやっているその人が、このブログをしっかり読んでいるのです。これ善人のやることでしょうか?)

普通の人より愛を持っている人に悪人はいません。そのような愛の心が少ない人ほどよほど悪人なのです。

本当の善人は誰で、悪人は誰なのでしょう。

どれだけ口でうまいことをいようと、それは周りの現象に現れるのです。

1コメント

1コメント to “愛を持って生きる”

  1. gtskokor2014/09/21 at 1:35 PM

    通りすがり様より、同じコメントをいただきましたが、同じコメントはコメント欄に載らないようです。(少しでもコメント内容を変えていただければ、載るのですが)
    通りすがり様のコメントの答えは「昨日のNHKスペシャルを観て」のコメント欄に書いておきましたので、そちらをお読みください。

Trackback URI | Comments RSS

コメント記入

Spam Protection by WP-SpamFree


あなたは人目の訪問者です。