1月 05 2015
法を知ろうとしない罪
これだけ多くの人の意識を変える教えが出ているにもかかわらず、なかなか行いを変えようとする人が出てきません。
しかし、今年の初めからすでに起きているこの全国的な荒れた天気、行いを変える人が出て来なければ、この「災」が収まることはないでしょう。もうとっくに時は来ているからです。
私の周りでは、朝から鳥が騒ぎ、誰が救い主であるのかを教えています。
いつになったら人はそれに気づくのでしょう。それに気づかない間は「災」は止まらないのです。(相変わらずこの辺り、サイレンがよく聞こえてきますし)
この辺りの人は私一人を悪者にしていますが、では、私を悪者にしている人たちはそれほどいい人たち(善人)なのですか?
昨日も書きましたが、心を救ってくれた人に、感謝もしないで嫌がらせをする人がそれほどの善人なのでしょうか。その人がやっているというちゃんとした証拠もないのに、一人の者を犯人に仕立て上げることが善人のすることなのでしょうか。
「サイレンが全部お前のせいではないかもしれないが、現に、お前が祈ったせいで病気になった人もいるではないか」
といわれる人がいるなら、では、その人は何で私に祈られたのですか?
その人は、私に嫌がらせをしなかったでしょうか?その人は、この法の流布のじゃまをしなかったでしょうか?その人は多くの人に(でかい音など出して)迷惑をかけなかったでしょうか。
少なくとも私は、人として、そのようなことをやってはいけない、ということをやっている人に対しては祈ります。
しかし、そういうことをしている人たちを「この人を正しくお導きください」と天に祈ることが、なぜそんなにいけないことなのですか。
その人たちは悪いことをしているのです。
その悪いことをしている人たちを、見て見ぬふりをしている方がよほど悪いことでしょう。私はよいことをしているのです。
「人に対する少々の嫌がらせや、このブログを邪魔することなどたいしたことではないだろう、なんでそれくらいで祈るのか」といわれる人もいるかもしれませんが、人に嫌がらせばかりされ(いじめられ)自殺する人もいるくらいです。
決して、それくらいのことではないでしょう。(特に私など、どれくらいの人に嫌がらせをされているのか分からないくらいですから)
それに私は、何度もそういうことをしてはいけない、といっているのです。(この法の価値を知っているからです)
しかし、口でいったくらいでは誰も、その悪いことをやめようとしないから祈っているのであり、それくらいのことといわれますが、昨日も書きましたが、このブログのお蔭で日本の多くの人の意識が変わったのです。(多くの人の心を救ったのです)
その多くの人の意識を、変える(救う)ほどのブログをじゃますることがそれくらいのことなのですか?その多くの人の意識を変えた私に嫌がらせをすることが、そのくらいのことなのでしょうか?
もし私に祈られて病気になった人が仮にいるなら、その人は大変な罪を犯しているのです。だから、そのような恐ろしい現象がその人に現れたのです。
それほどの大罪を自分たちが分かっていないだけなのです。
法の勉強をしていない人ばかりなのですから、その罪の重さが理解できないというのも分かりますが、しかし、これだけのことが起きているのです。(人が病気になったり、天変地変が起きたりです)
いい加減、この法の偉大さを理解すべきなのではないでしょうか。どれだけ法の勉強をしていないとはいえです。
例えば、この仏像に何かすると必ず祟られるという仏像があったとします。それを知らずにその仏像に何かした人がいたとします。それで、その人に何か起きたら、それはその仏像に何かしたら祟られるということを知らなかった、その人が悪いということにならないでしょうか。(それを、その仏像が悪いと名古屋の多くの人はいっているのです)
簡単にいえば、私に何かするということは、それと同じことなのであり、私の説いているこの法は、人の意識や行いを大きく変えるだけではなく、天変地変や人を病気にさせることまで出来る、それほど偉大な教えなのです。
そのような価値を考えるなら(先ほどの仏像どころの話ではありません)その法の流布をじゃますることや、私に嫌がらせをすることがどれほどの罪になるのかは分かるはずです。
私が祈って病気になった人がいるのなら、それはそのような自分の行いに問題があったのであり、決して私が祈ったせいではないということです。もし私が祈らなければ、その人はもっと大きな罪をつくっていたことになり、もっとひどい目に遭っていたのです。(それはそうでしょう。祈って現象が現れなければ、その人たちは私に対する悪いことをやめません。そうなれば、その罪は自分だけでなく、自分の家族やその周りの人にまで広がるのです。〔現にそうなっている会社があります〕そうなっては取り返しがつかないのです。人を病気にしたり、天変地変まで起きる教えの流布のじゃまをしているのです。それがどれだけ恐ろしいことか理解できない方が悪いのです)
この法は人を病気にさせることもできれば、天変地変も起こすこともできます。しかしそれは、この法に逆らう人だけに限定して起こる出来事にしかすぎません。
しかし、そのような現象も、決してその人を(その人たちを)単に不幸にする、ということではなく、そのような経験を積ませて、心を成長させる、そのような現象であるのです。
そうして、この法の原点は『奇跡』ということであり、この教えは本来は人を幸せにする教えなのです。(天変地変が起こせるということは、日照りのところに雨を降らせることが出来るということですし、人を病気にさせることが出来るということは、人の病気も治すことが出来るということです)
その教えを無視し、あろうことか流布の邪魔までしているため、現在の日本には災いしか起きないという悲惨な状況になっていますが、この教えに従い、この教えを実践する人が増えてくれば、この災いばかり起きている日本に奇跡が起きてくるのです。
私は、この日本を救うために法を説いているのです。
その私をなぜ悪者にするのですか?
これほどの偉大な教えを、理解しない人の方に罪があるのではないでしょうか。



人目の訪問者です。

年の初めに、以前お世話になった方のお宅訪問についても別途お知らせ致しましたが、この事についても昨日考えてみました。
この方とはもう2年位はお会いしてなかったのですが、所要があり伺うことになったのです。玄関先で挨拶を交わした後はお目にかかることもなく帰ることになったのです。あの最初の挨拶は儀礼的なものであったのかと思うと少し寂しい気がしました。それでも私の心は晴れやかで一寸の迷いもなかったですから、神の祝福をしっかりと祈って来ました。お互い心の勉強をする者同士、私の幸せも祈って頂けると信じて、神の祝福を祈ったのでした。
所要が出来たのも必然であるのならば何かお役目があるのかと、ふとそういう思いにかられ振り返りました。
そうですね。あの方たちも未だ騙され続けているのです。
そうであるなら今度はウナッシーさんが(お身内でもありますし)あの方たちを、救ってあげなければいけないのかもしれません。
早くそのことに気づかれるよう何かされてはいかがでしょうか。
はい、分かりました。そのあたりを神に祈ってみます。
母のこともあります、まずは順をおって精進します