3月 30 2015
先のことを考えるのであれば
どこかの球団、今年は本当につきがありませんね。
打ててるし抑えているのに勝てません。打ててる時は相手チームがもっと打って、抑えている時は、相手ピッチャーがもっと抑えている、それで結局敗戦です。
少し組み合わせが違えば、十分試合には勝ててるはずなのに、そのつきのないせいで三十五年ぶりの開幕三連敗です。
しかもつきのなさはまだまだ続き、あの主砲の選手まで骨折です。(その骨折の仕方が、二塁に滑り込んだ時に、相手選手が投げたボールが手に当たってのものです。投げたボールが、滑り込んできた選手の手に当たるなんて普通ならまずありませんが、それが起きてしまうんですから、本当に不運としかいいようがありません)
まだプロ野球も始まったばかりとはいえ、これではこのチーム、先が思いやられますね。
ここに、あの球団のことを書いとたんに、そのきっかけをつくった選手が骨折してしまうのです。とても偶然とは思えませんが、本当にお返しはしておかないとろくなことが起きません。
ご利益があったのですから、少しくらいのお返しはされてはどうでしょうか。
あまりあの球団のことを書いて、また何か起きたら私のせいになります。これくらいにしておきますが(…もう遅いですか?)報恩の行為は大切でしょうね。
一昨日でしたか、堀川に行って声をかけるとずいぶん魚が跳ねていました。(その場面は動画に撮ってあります)
鳥たちも相変わらず騒いで近くに寄って来ます。何度もいいますが、動物たちは大災害を予知するなど、人にはない(精神的な)力を持っています。
そのような動物たちが、みな私のことを知っていて、嬉しそうに私のもとに寄ってくるのです。
動物たちが大きな災害を予知できるように、このような動物たちが、何かを教えているのではないでしょうか。
私に悪いことをして災いが起きている人たちもいます。私によいことをして奇跡が起きている人もいます。
そうして、私のいうことを聞き、よいことが起きたにもかかわらず、そのお礼を一切しようとしなかった人たちには、悪いことも起きています。
これは偶然とか、たまたまとかではなく、私がそのようなことを書いている、その書いている人たちに起きているのです。
また、それは人ばかりではなく「あのような場所には災いが起きます」と書いた、その場所にも(地震や大雨などの)災いが起きているのです。
こういうことを偶然とはいわないでしょう。必然というのです。
よいことにせよ、悪いことにせよ、これだけ書いていることが起きている人に、悪いことばかりしていてよいのですか?無視をしていてよいのでしょうか?
現代の人はあまりに考えが足りないのではないでしょうか。
もう少しよい行いをされてはどうですか。その人のお蔭で、心を救われた人は多いからです。
そうして、心が救われたということは、死後の世界もまた救われることになるからです。死後の世界とは心の世界をいうからです。
しかし、不思議ですね。多くの人は、この世のことは先を見通せだの、先のことも考えないといけないだのいうくせに、なぜ、生の先の死のことをいう人はいないのでしょう。
先を見通すのはこの世のことだけでいいのですか?
しかし、人は必ず死ぬのです。一人として永遠の生を持っている人はいないのです。
そうであるなら、生きている時の先ことばかりではなく、その生の先の死のことも考えないといけないのではないですか?
すべての人に死という問題はかかわってくるからです。
死をどれだけ避けようと、しかし、その死は誰にでも確実にやってくるのです。では、死後のことも、もっと真剣に考えるべきではないですか?もっと議論をされてもいいのではないでしょうか?
それなのになぜ多くの人は、この死後の議論をされないのでしょう。死後の世界は誰にも分からないと諦めているのでしょうか?それとも意識的に避けているのでしょうか?
しかし、分からないとか、避けられる問題ではないでしょう。すべての人に、この死は訪れるからです。
先を見通せといわれるなら、生きている時だけではなく、死んだあとまで見通さないと、それは先を見通しているとはいわないでしょう。
その生の先の死まで見通した話を私はしているのです。
だから皆さんと意見が合わないのでしょう。ほとんどの人は、この世のことだけしか考えません。私のように死んだ先までのことは考えないからです。
しかしそれは思考停止以外の何ものでもないのです。途中で思考が停止しているから(生きているまでのところでです)だから、私のいうことがいまいち分からないのであって、死のことまで考えるのなら、私のいうことは非常によく分かるのです。
私は生きている時だけではなく、死んだあとまで幸せに暮らせるその方法を述べているからです。
私たちは生きている時だけではなく、死んだ後もその人生は続いているのです。人は生き通しの生命であるからです。しかし、それを多くの人はなかなか信じようとはしないのです。
私は生きている時のことだけではなく、そのような死後の人生も(あの世のことも)もっと議論されてもよいと思います。(そうすれば、死後の生を信じる人がたくさん出てくると思うからです)
この世には、この世の体験だけではなく、臨死体験をした人や生まれ変わりの記憶のある人がたくさんいるのです。それに釈尊やキリストの教えなどもあります。
そのような人たちの話を参考に、単にあの世はない、と否定してしまうのではなく「もしかしたらあの世はあるのではないか」「あの世があるのであれば、この世にまた生まれてくるという輪廻転生もあるのではないか」「現にお釈迦様は輪廻転生を認めているではないか」「華厳経にはその輪廻転生の部分が書かれているではないか」「かの有名なスエーデン・ボルグもあの世があるといっているではないか」などなど、いくらでもあの世や生まれ変わりの議論など出来るのです。
議論を深めるのは、この世のことだけでよいわけがありません。あの世のこともやはり議論され、その議論を深めていけばいいのです。
そうすれば、死後の生は嫌でも理解出来るようになるからです。そうして、死後の生が分かれば、この法の大事さも理解出来るからです。
どちらにしてもです。この世には不思議なことが数多くあるのです。そうであるなら、この世のことだけしか考えないのは、片手落ちとしかいいようがないでしょう。
繰り返しますが(生きている時はもちろんですが)私は死後の幸せまで考え、このブログを書いているのです。
このブログを無視していて本当によいのでしょうか。



人目の訪問者です。

死は、好むものではない。また、憎むものでもない。正しく生ききれば、やがてココrが安らかな気分になる時がくる。それこそが死ぬべき時である』
世の中には、たとえ体だけ生きていて心が死んでしまってる…という人がいます。その逆に、体は滅びても魂は生きている…という人もいます。たとえ生きていても、心が死んでしまっていたのでは何の意味もありません。逆に体は滅びても魂が残るのであれば死ぬ意味はあるでしょう。また、それとは別に、こういう生き方もあります。優れた能力がある人が、恥を忍んで生き続け、立派な事業を成し遂げる…ということです。
以上は高杉晋作が吉田松陰に宛てた質問「男子たるもの、どのような時に死ぬものなのでしょうか」に対する返事だそうです。勿論、現代語訳ですが身が引き締まる思いです。時代を越えて心に響く言霊とは力強くあるものですね。
やはり幕末の志士たちは覚悟が違っていましたね。国を変えるという覚悟をみな持っていました。
そのような自分たちの使命を自覚していたからです。
現代も同じように、国を変えないといけない使命を持って生まれてきた人は多いのですが、その使命を自覚している人は少ないようです。
現代の日本は幕末同様、まだまだ荒れると思います。
自分の本当の使命を自覚する人が少ないからです。