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4月 05 2015

噂を信じるのか、それとも現象を信じるのか

11:12 AM ブログ

どこかの会社、相変わらずくだらない嫌がらせを続けていますが(今日は休みですので静かでいいのですが)いつまで続けるつもりでしょう。困るのは自分たちなのにです。

この会社の連中のしていることを例えていうと、次のようなことなのです。

この会社の横に一軒のお寺がありました。

そうして、そのお寺では毎日午前中は、その寺の坊さんの説法があるのですが、その説法には百人前後の人が集まってきていました。

その百人前後の人に、その寺の坊さんは毎日説法をしていましたが、その坊さんは変わった説法をすると評判になり、多くの人が、その坊さんの説法を聞いて自分の心を変えたのでした。

そればかりではなく、この坊さんは祈るといろいろな現象が現れ、その神通力も話題となって、よけいにその坊さんの説法で心を変える人が出てきたのです。

ところが、その寺の横の会社の連中は、それだけ多くの人の心を変えている坊さんの説法の声がうるさいと、仕事にかこつけてでかい音ばかり立てて、坊さんの説法をじゃまするのです。(自分たちも、その説法を聞いて心を変えたにもかかわらずです)

この会社の連中は、それだけ多くの人の意識を変え(もちろん自分たちも含めてです)祈ると現象が次々に現れているにもかかわらず、その坊さんをただの生臭坊主としか思わず、そのような不遜な態度を続けていたのです。(もしかしたら徳が高い坊さんかもしれないのにです)

その坊さんは、そのようなことをしていてはいけないと何度も注意をしていましたが、その会社の連中は、その坊さんの意見を全く聞こうとはしませんでした。

それでも、その坊さんは注意を繰り返していたのです。これだけ多くの人の意識を変えるほどの教えです。その教えの偉大さと、その説法をじゃますることの罪の深さを知っていたからです。

しかし、寺の横にある会社の連中は、説法のじゃまをするのをやめようとはしませんでした。毎日のようにでかい音を立てて、説法のじゃまをし続けています。その会社が出すでかい音は、横のお寺だけではなく、その近辺の家にも迷惑をかけていました。

それだけ大きな音を、その会社は出し続けていたからです。

そこで、その寺の坊さんは、これ以上いってもこの者たちは説法のじゃまをやめようとはしないだろう(ということは、この者たちは、どれだけ多くの罪をつくるか分からないということです)さりとて、こちらがこの教えを、みなに説くのをやめるわけにもいかない(この教えを説くことをやめれば、多くの人が救われることがなくなるからです)ということで、この者たちのことを天に祈ることにしたのです。

もう自分の力ではどうにもならないので、天にすべてを委ねようと思ったからです。

それで坊さんは「どうぞ、この者たちを正しくお導きください」と祈りました。

すると、この者たちに次々に災いが起きたのです。天がその祈りをきいてくださったからです。

その災いは(現象は)横の会社の連中がやっていることの罪深さと、この坊さんが説いている教えの偉大さを証明するものであったのですが、この会社の連中は、それをいくらいっても認めようとせず「横の生臭坊主の祈りのせいで、俺たちはこんなに不幸なことばかり起きている」と周りに吹聴し、その災いに怒り、説法のじゃまをし続けました。

すると、その災いは段々激しさを増していったのです。

自分たちの罪を一切認めようとせず(どれだけ大きな罪をつくっているのか、単に自分たちが知らないだけなのに)「自分たちは何も悪いことはしていないのに、あの坊主の祈りのせいで、うちの従業員が次々に病気になっている。あの坊主は何とひどい奴か」と、その責任を坊さん一人にかぶせ、自分たちは少しも反省しようとせず、大きな音を立てて(その坊さんだけではなく)周りに迷惑をかけ続けているのです。

しかし、これほど身勝手な態度もないでしょう。自分たちの会社に起きている災いは、自分たちがしている悪行の報い以外の何ものでもないからです。

単に、自分たちがこれまでしてきた数々の悪行の報いが出ているだけなのに、それを全部坊さんのせいにして、自分たちは一方的な被害者であると周りにいいまわって「だから怒るのも仕方がない」と自分たちがやっている(でかい音を立てる)迷惑な行為を正当化しているのです。

しかし、この世で間違った行為をごまかし、どれだけ自分たちの行為を正当化しようと、天はすべてを知っています。自分たちのやっている行為が間違っているから、災いが止まらないのであり、その激しさも増しているのです。

自分たちが悪かったと、その悪行を認め、その行為を反省しない限り、その災いは続くのです。

その会社に起きている災いは、その坊さんの祈りのせいではなく、そのような悪行を行った報いが出ているにすぎないからです。

坊さんの祈りは、その自分たちの悪行の報いを早く現したにすぎないからです。

例えていうなら、このような状況が、どこかの会社の現在の状況なのです。

名古屋の多くの皆さんは、こちらの状況もよく知らず、私が祈ったりして起きたことの悪い部分だけ取って、あいつが悪いといっているのですが、それは部分にしかすぎないのです。(例えば、私が祈って人を病気にしているとかです。何度も書いていますが、私は人を病気にするような祈りは一度もしたことがありません。「正しくお導きください」と祈っているだけです。すると病気になる人もいるということです。その病気は正しく導かれた結果そうなるのですから、そうなった人が反省するしかないのです)

これまでの経過をまるで知らないのです。(例えば、私が、そのように祈った人たちに散々嫌がらせをされているとかです。私は何もしてこない人を、いきなり祈ったことなど一度もありません。それに私の祈りは呪いではありません。その人が、そのようなことをしていてもいけないから「この人を正しくお導きください」と祈っているだけなのです。そういう祈りが悪い祈りなのでしょうか?)

それに人の噂がそれほど正しいのでしょうか?

人のことなどあることないこというでしょうし、それにねたみやひがみも入ります。こいつは気に食わないからと、人から聞いていない悪いことまで付け足していう人もいるでしょう。

それに自分がやった悪いことなどいうわけありません。(例えば、一方的な嫌がらせなどです)自分は善で、私は悪と常にこのような前提でしゃべるのです。

このようなことを考えるのであれば、人の噂をそのまま信じる方が、よほどおかしいといわざるを得ませんが、何回もお聞きしますが、ではなぜ、そんな悪い者に鳥が寄ってくるのですか?

あのような、小さなすずめなどが喜んで寄っていくような人なら、よほど愛が深いと思うのですが(愛が深くないと、あの気の小さいすずめなど寄っていかないと思うのですが…)そんな愛深い者が、理由もなく(また少し気に食わないというだけで)人を病気にさせるような祈りをするのでしょうか?

このような鳥や魚が寄って来るという奇跡は、釈尊やキリストにも起きています。

あのような救世主と呼ばれた方々に起きていた同じ奇跡が、そんな悪魔のような男に起きるということは、あり得ないと思うのですが、では、私に対する悪い噂の方が間違っているのではないのでしょうか?

そのように思わざるを得ないようにも思いますが、不思議なことに名古屋の人たちは、そのような起きている奇跡の現象より、人の噂を信じている人が多いようです。

しかし、人の噂など信じるに値しないのではないでしょうか。そのような噂より、起きている現象を見て判断した方が、正しい判断ができるのではないでしょうか。

噂を信じるのか、それとも現象を信じるのか、どちらを信じるのかは本人の自由ですが、しかしです。

もしかしたら名古屋の多くの人たちは、大変な間違いをしているのかもしれませんね。

1コメント

1コメント to “噂を信じるのか、それとも現象を信じるのか”

  1. ウナッシー2015/04/05 at 10:05 PM

    昨日の宣言通り悪しき日々の反省をしました。その一例で、私は小学校の時下級生の女の子の顔になんと唾を吐いた事があったのです。
    始めは、そういう事をしましたと反省しましたが何か引っ掛かりがありました。もう一度反省し振り返ると、その女の子の気持ちを全く考えていない事が分かりました。これまでの反省は、単に自分のやった悪しき事をスミマセンと言っていただけのレベルに恥ずかしさを感じました。唾を吐いたことにより、女の子は悲しくなった。その訳は楽しみを奪われ、信頼を無下にされ、仲良くなることを裏切られた等々
    本当に神に祈るしかないくらい、その女の子を救って頂きたいと思ったのでした。いわば、普通の人間のする事でないことであり、恥ずべき事として自分が普通の人間でない事を知ったのでした。

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