>>ブログトップへ

4月 09 2015

法の合格者

10:56 AM ブログ

私に対する嫌がらせは、ご存知のように乗り物に乗っている人だけにとどまりません。

前から歩いてくる人のほとんどの人や、回りにある家からも受けるのですから、すさまじいの一言です。現在は大分減りましたが、本当に一時はすさまじかったですね。

だから、辻説法を始めたということもありますが(それだけ、そこらじゅうでされたらそうなるでしょう。弁明しないと道を歩いていてもうるさくて仕方ないからです)一時、私が何かしてくる人を次々に祈っていたのも、そのような理由からでした。

「何でこれくらいのことで祈るのか」とムッとしていた人もありますが、その人はこれくらいのことでも、私は、そのこれくらいのことをそこらじゅうでされるのです。

一人一人がやることが小さなことでも、それをたくさんされたら、される方はたまったものではありません。(それが毎日なのですから)だから、少々何かされただけで、祈ったり、散々辻説法をしたりしていたのです。

少しのことでも、数が多ければされてるこちらはたまらないからです。

しかし、私一人ではその効き目もなかなか出て来なかったんですが、ようやく出始めましたかね。祈りや辻説法の効き目がです。

昨日でも、何人かの人が頭を下げていったような気がしますが、申し訳ありませんが、ここ何年の間、嫌がらせをされたことは数えきれないくらいありますが、頭を下げられたことはありません。

それですぐに対処できませんが(そういう態度に体が反応しないのです)決して無視しているわけではありません。(それに気づかなかったということもありますので)そういう人が増えてくれば(体がちゃんと反応するようになれば)私は頭を下げます。(相手が頭を下げてくれば、こちらも頭を下げるのは当たり前のことですから。また、法を知っている者なら、ちょっと人とすれ違う時でも、少し頭を下げていくくらいの謙虚な心は持っていなくてはいけませんから)

しかし、まだまだ嫌がらせをしてくる人も多いのですが、何としても私の評判は変えないと(誤解は解かないと)いけませんね。そうしないと法が拡がらないからです。

ただ、そういう嫌がらせの嵐の中で、あるおにぎり屋さんに行っておにぎりを注文したら、中に入っていた具がやたら多かったとか、故障だと思って見てもらいに行ったメーカーで(電子辞書を持って行ったのですが)結局故障ではなく電池が切れていただけだったのですが、そのメーカーの担当者の人が確認のために、そこで入れた新しい電池を「このまま持って帰ってくれていいですよ」と入れたまま返してくれたり(私は「えっ、そんな悪いからいいですよ」と何度も断ったんですが「わざわざ、こちらまで来てくれたので」とか、よく分からないことをいわれ、新しい電池をそこでもらって帰って行きました。電子辞書の故障を見てもらいに行って、それが故障でもなんでもなかったのに〔それだけでも冷やかしか、と思われても仕方ないのですが〕新しい電池までくれるなど初めてのことでした)多分、そのようなことをしてくれた人たちは、私と知っていて、そのようなサービスをしてくれたのではないかと思います。

こういう態度は、私に対する布施と同じようなことですので、そういう嫌がらせの嵐の中(ということは間違った行いをしている人が多い中)数少ない正しい行いをしている人たちということで、それは天の評価も高くなります。(特に名古屋の人たちはそうです。これだけ私の評判が悪い中、それでも正しい判断をしているということで、そのような人たちの評価はより高くなるのです)

当然ではありますが、その後の人生は、いろいろ天からの恵みを得ることになるのです。

このように、私に(法を説いている者に)よい行いをした人は、その後の人生でたくさんの天からの恵みを受けることになるのですから、当然ではありますが、私に悪い行いをしている人は(ずいぶんいるようですが)その後の人生の所々で、多くの災いを受けることになるということです。(それも理解していただけると思います。すでに、そのような災いを受けている人はたくさんいるからです)

ただしこれは、その人たちの心が変わらなければ、という条件付きですが。

よいことも悪いこともそうですが、その人の心と行いが変わらなければ、先ほど書いた通りになります。

法を伝えている人に対する態度は、それだけ天に届くことであるからです。

しかし、法を説いている人によいことをした人でも、途中で心が変わってしまえば(その法を説いている人に対する思いを変えてしまえば)天の恵みはなくなります。あくまでその心を持ち続けなくてはいけないのです。

これは、法を説いている人に悪いことをした人も同様で、その心を途中で変えるのであれば(反省するのであれば)その災いが起きることはありません。前非を悔い法を説いている人に布施するのであれば、そのような人も天の恵みは与えられます。

すべてその人の心と行い次第なのです。

もちろん一番いいのは、最初から間違えず、死ぬまで法を説く人に従い、法を依りどころとしていける人が一番いいのですが、これがなかなか難しいのです。

その難しさは、如来の弟子たちを見れば分かるでしょう。

高橋先生の弟子と称する人たちはたくさんいますが(現在においてもです)では、その弟子たちの中で、高橋先生が説かれた法をしっかり理解した人が何人いたでしょう。

何年も何十年も、高橋先生の教えを勉強している人はたくさんいますが、その中でしっかり法を理解された方は園頭先生だけです。(それは次々に起きる奇跡で証明されています。園頭先生は亡くなられる〔倒れられる〕まで、多くの人たちを祈りで癒されました)

つまり、高橋先生の多くの弟子たちの中で、合格者は園頭先生お一人であったということです。

そうしてこれは、園頭先生の弟子たちの中でも同じです。園頭先生の弟子の中で、私のように次々に奇跡が起きている人はいません。つまり、園頭先生の弟子たちの中での合格者は現時点では私一人なのです。

この事実を知ってもらうだけでも、この世の法の合格者の少なさ、難しさがよく分かると思います。

しかしです。このような時代となり(正法の世)その法の合格者(法をしっかり勉強し実践する)にならなければ、もう幸せは来ないのです。この時代に生まれている人は、みな、この法の合格者になるため生まれてきた人ばかりであるからです。(だから、法に逆らっている人は不幸になっているのです。自分がしてきた約束を自分で破っているからです)

これまでの如来の弟子たちは、ほとんどの人が失敗していますが、それでも合格者がゼロではありません。(園頭先生は合格されたのであるし、私も現時点では合格者です)

この法の合格者になりたければ(本当の幸せを得たいのであれば)合格している者に、それを習わなければもちろん合格は出来ないでしょう。

現時点での合格者は私一人です。(だから私に悪いことをしている人は次々に不幸になるのです。唯一の法の合格者に悪いことをしているからです)

いつまでも私に悪いことをしていてよいのでしょうか?

0コメント

Trackback URI | Comments RSS

コメント記入

Spam Protection by WP-SpamFree


あなたは人目の訪問者です。