5月 24 2015
不信心
いま私の周りで次々に起きる奇跡と災い、これは昔から起きていることであった、昨日のブログでこう書いたのは嘘でもなんでもありません。
本当に起きていたのです。釈尊やキリストがこの世に出ていられた時にはです。
つまり昔から残る仏典や聖書などの神にまつわる書物には、この名古屋で起きていることと同じようなことが、いくつも記されているのです。
そうではないでしょうか。釈尊やキリストはもちろんのことですが、神の使いといわれる方々に罪を擦り付けたり、嫌がらせなどした人々は必ずといってよいほど悪いことが起きています。(不慮の事故に遭ったり病気をしたりです)
それと同じことが、名古屋で(その周辺で)起きているだけのことなのではないでしょうか?
だって、聖書や仏典に書かれている天罰を受けている人たちと、同じようなことを名古屋の人たちはしているからです。
だから同じ現象が現れているのです。だとしたら、それほど不思議な話ではないのではないでしょうか。
私が神の使いであるのか、ないのかは、これだけ次々に起きる現象を見ていただければ分かると思います。(動物たちの不思議だけではなく、私に嫌がらせをしている人たちに起きている現象も含めてです)
そればかりではありません。私が説いたこと(神の存在、あの世の存在、人の輪廻転生などです)を、そのまま信じている人々が多かった時には、名古屋にまだこれほどの災いは現れていませんでした。
それどころか、それを聞いて心が救われた人も多かったのです。
神は存在し、この世はこの世だけではなく、あの世もあり、人は永遠の生命を持って輪廻転生を繰り返し、死んだ人とも、子供や孫ともまたあの世で再会することが出来る、私はそのようなことを、事細かに、いろいろな事象も交えてこのブログに書いたのです。
その結果、多くの人がそれを信じ、唯物無神論から唯心有神論に考えを変えたのです。
そう考えを変えたことで、多くの人の心が救われたのです。(それこそ大人から子供までです。もっというなら、小さな子供からもう先も長くない年寄りまでです。そのようなすべての人に死への恐怖、すべての人との別れの寂しさ、そのような心はあったからです)
これだけの多くの人の心を変えるだけでも、並大抵のことではないのです。これだけの心の大転換など、そう簡単に人はするものではないからです。
しかし、私は常に神に祈りながら、そのようなことは宗教的にはこのように書かれてありますが、実は科学的にもこのような根拠があるのです、という書き方を何度もして、そうして祈って奇跡も現して、それでようやく多くの人の意識を改革をすることに成功したのです。
私は、このようなことをそんなに簡単にやったわけではありません。自分なりに努力を重ねた結果、やっと多くの人の心を変えることが出来たのです。
それなのに、そのこちらの努力など考えようともせず、その心を変えた人たちは、そのことに感謝することもなく、そのようなことを知ったら知ったで、もっと教えろ、もっと教えろと、聞くだけ聞いて一切報恩の行為などしようとしません。(ブログを書かないと怒るような人までいるのですから呆れます。自分は報恩の行為など少しもしないくせにです)
そればかりか、このブログに書いたことが自分の意に沿わないと、嫌がらせする人までいるのです。
これだけでもいけないのに、それにとどまらず、自分たちの心を救ってもらったことなどすっかり忘れたかのように、そのような現象がいけないと、見当違いのことをいって私に嫌がらせをする人まで出てきてしまうのですから、聖書や仏典に書かれてある天罰は当然起きてくると思います。
心を散々救ってもらった人に対し、やっている行為があまりにひどいからです。(無視に嫌がらせに見当違いな悪口などです。悪いことのオンパレードです)
心を救ってもらった人に、少しのお返しもしないことはよいことなのですか?
散々知らないことを教えてもらいながら、それにはお礼一ついわず、自分と考えが違うからと嫌がらせをすることは正しいことなのでしょうか?
自分たちがまったく神を信じようとしなかったから、神は恐ろしい現象を現して、その神の存在を多くの人に知らしめたのです。
その神の命により、現象が現れるよう祈ることがそれほど悪いことなのでしょうか?
この世のすべてをつくられた、全知全能の神を信じようとしなかったのはあなた方の方ではないですか、その罪の重さは私の比ではありません。
このような現象(地震や台風など)を私が現したのは、私の祈りのせいではありません。皆さん方がいつまでも神を思おうとしない、その心が、このような恐ろしい現象を現したのです。(だからさっき見当違いだと書いたのです)
先ほども書きましたが、私のいうこと(神の存在やあの世の存在、人の輪廻転生)を信じていた時までは、このような災い(サイレン)は現れていませんでした。(天変地変はありましたが。それは先ほども書きましたが、日本の人たちの不信心のせいです)
それどころか、私のいうことを信じていた時までは多くの人の心が救われ「あの世でもまた会える」「死んでもまだその先があるのだ」と希望ある生活ができていたのです。
それこそ、そのことを知った老若男女のすべての人がです。
しかし、その後、名古屋の多くの人たちが、私のいうことを聞かなくなり私に嫌がらせをする人が増えてきました。
それからではなかったでしょうか。このサイレンがよく響くようになったのはです。
このサイレンは、まだここ一~二年の話です。そのことを覚えている人も多いのではないでしょうか。
私のいうことを聞いていた時には(私のことを悪く思っていなかった時には)多くの人が希望をもって幸せな心でいられたのに、名古屋の多くの人が私に嫌がらせを繰り返すようになってから(私に罪を擦り付け、私を悪魔のように思い、私のいうこと聞かなくなってから)このサイレンがしだして不幸な人が続出するようになったのです。
つまり、私のいうことを聞いていた人が多かった時には幸せな人が多かったのに、私のいうことを聞かなくなったとたん、不幸な人が続出しだしたということです。
これは何を意味しているのでしょうか?
これだけ書けば、はじめに私が「このようなことは過去に何度も起きていることである」と書いたことは嘘ではないと、お分かりいただけるのではないでしょうか。
現代の人たちは、仏典や聖書に書かれている不信心な人たちと同じようなことをしているのです。(名古屋の人たちは特にですけどね。だから、これほどの現象を現されたのです。しかし、日本人の不信心は名古屋だけではありません。全国的にそうなのです)
だから、この名古屋で激しく起きた現象が全国に広がりつつあるのです。
「私は信仰をしているからよい」などと考えている人は、それもまた大きな間違いなのです。
なぜなら、間違った信仰をしている人は、それはどこまでいっても間違いなのですから(正しい信仰ではないのですから)信仰をしているとはいえないのです。(既存の宗教では救われないと、すでに名古屋の人たちみな知っています)
つもりそれも不信心なのです。(正しく神を思っていないからです)
私には釈尊やキリストと同じ奇跡が現れています。そうして私のいうことを素直に聞いていた時には、希望ある幸せな人がたくさんいたのです。
しかし、私のいうことに逆らい始めてから、不幸な人が続出し出したのです。
私に釈尊やキリストと同じ奇跡が現れているということは、私は釈尊やキリストと同じ神理を説いているということになります。(だから同じ現象が現れるのです)
釈尊やキリストが説かれた神理に従えば幸せになり、逆らえば不幸になります。
その通りのことが名古屋に、もっといえば日本全国に現れているのです。
この教えに従われてはどうでしょうか。
それが唯一幸せになれる道であるからです。



人目の訪問者です。

昨日は身内の法事がありました。久しぶりに会った親戚もいてお互い相変わらずの様子に話が進みました。バスでお墓参りの移動中に救急車と出会いました。すると遠方からこられた親戚が最近よくサイレンが聞こえることを言ってました。その方は関東圏に住んでいるのですが、徐々にサイレンが増えてきていることが伺えました。
ほうそうですか。
いよいよ神の業が日本中に広がり始めたようです。(日本は不信心の極み、みたいな人が多いから仕方ありませんね)
ということは、これからが勝負ですね。もう、モタモタしている人たちはほっておきましょう。
法を理解している私たちが、しっかり法を実践して参りましょう。そうすれば黙っていても、この法のことは多くの人たちに伝わるからです。
本当の勝負はこれからですね。(その現象が広がるなら、いよいよこれから、本当の神の教えを多くの人が捜し求めるようになるからです。現在の名古屋のように既存の宗教では誰も救われないと、多くの人が気づくからです)
今は庭で夕涼みしながら自然を眺めています。庭には5~6年前に親戚から頂いたユリが咲きだしています。ずっと天に向かい花びらも葉も、真っ直ぐ天に向かいまるで咲き誇る様に凛として。決して私たちに良く見られようとか、綺麗だと言われようなどではないのです。何か本当に自然は生き方を示しているようで、心からひきつけられます。神の命の現れですね。
本当にそうですね。