6月 09 2015
神の国に入ることの難しさ
昨日も書いたのですが「神の国に入るはいかに難しいか。富める者が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が、かえってやすし」とキリストがいわれている通り、神の国(天国)に私たちが入ることは、それほど簡単なことではないのです。
それなのに、これだけの災いを神から与えられ、それでもまだ多くの人は神を思おうとしないのです。そのような人たちが神の国に入るのはまず無理であるということです。
本当に心を変えようとしません。なぜこれだけ頑ななのか呆れてしまいますね。
昨日もどこかの会社は何か起きたようなのです。夕方帰ってくると明らかに雰囲気が変でしたし、死にそうな顔をして出てきた従業員までいたからです。
それなのに、今日も朝から(明らかに腰は引けているのですが)同じようなことをやっています。
これでは今日もまた何か起きるのではないですか?反省の態度がまるでみられないからです。
何で反省しようとしないのでしょう。悪いことが起きているのに(それも次々とです)それでもまだ反省しようとせずに同じことを続けている、これでは起きてくることは変わりません。そのような態度がいけないと分かるまで、その恐ろしい現象は起き続けるのです。
態度が間違っているからです。(しかも大きくです)それだけ法の流布をじゃますることはいけないことだからです。
いっても分からないんですから、こればかりは仕方ありませんが、自分たちが滅びる前に気づいてほしいものです。
しかし、本当に同じことばかり書いています。(私も少しあきてきていますが)なぜ、皆さんこれだけの災いが起きていて、それでも態度を変えようとしないのでしょう?
本当に不思議です。(間違ったことをしているから災いが起きているのに、その自分たちの間違いを絶対認めようとしない、傲慢というほかありませんね)
今日も関東で震度4(栃木)の地震がありましたが、関東の皆さんはどうでしょう。
地震の巣といわれているくらい危ない場所もあるのです。(茨木南部ですが)前にも書きましたが、今のままでは本当に危ないのです。
現在の日本は神を思う人があまりに少ないのです。
それは死ぬ間際になっても、神のかの字もいわない人が多いということでもその事実が分かります。
芸能人が癌になって死ぬ間際まで仕事のことをいっていた、本当にあの人は立派な人です、などという報道の仕方をどこもしていますが、そのような報道の仕方は間違いなのです。
あのような死に方をした人はみな地獄に堕ちているからです。(地獄に行く人を立派な人とはいわないでしょう)
亡くなられた人が不憫で、それで気を使いそのような報道の仕方になるのかもしれませんが、そんな報道をすれば、それが立派な死に方であると多くの人が思ってしまいます。
報道の仕方も、これからはもう少し考えた方がいいのではないでしょうか。その報道の仕方一つで、多くの人を救うことも出来れば地獄に堕とすことも出来るからです。
そのような、この世に執着を持ったまま死ねば地獄に堕ちるのですが、では、どのような心で死ぬのがいいのか、それを書いておきましょう。
それにはキリストが昇天された時のことを書くのが一番いいでしょう。あれだけ世界の人々に大きな影響を与えて(もちろんそれは後世の人も含めてです)亡くなられた人もいないからです。
キリストは、数々の奇跡を現して福音を説きたくさんの人々を救われました。しかし、最後は十字架の人となり生涯を終えられます。
多くの人々の心を福音を説かれることで救われ、そうして肉体さえも癒しの奇跡で救われたキリストが、その救った人たちに最後は十字架にかけられ殺されるのです。
普通の人であれば「あれだけ救ってやったの」と恨みもするのでしょうが、キリストは違いました。
それはキリストの最後の言葉で分かります。キリストは昇天される寸前に次のようにいわれたからです。
「神よ、人々を見捨てたもうな、そのなすところを知らざればなり」
こう叫ばれキリストは昇天されたのです。
キリストは、最後の最後まで少しも人を恨まず(もちろん、この世に執着されることもなく)自分を十字架にかけた人たちも含めたすべての人々を神に祈ったのです。
「神よ、この者たちを見捨てずお導きください。この者たちはまだ知るべきことを知らないのです」
死ぬ間際になっても、キリストは自分のことより人のことを神に祈られているのです。ちょっとレベルが高すぎますが、私が、死ぬ間際くらい神のことを思わなければいけない、といったことが少しはお分かりになるでしょうか。
死ぬ間際に、このような心になるならば、私たちはみな神の国(天国)に入れるのです。
もちろん、キリストと同じ心に私たちがなれるわけありませんが、この死ぬ間際のキリストの心は参考になるのではないでしょうか。
人を恨むわけでもなく、この世に執着されるわけでもなく、最後まで人々のことを神に祈る、これこそ私たちが死ぬ間際に思っていなければいけない心であり、神の国に入ることが出来る唯一の心であるのです。(最後まで人のことを思え、というのも無理かもしれませんが、自分のことくらい思えるはずです。最後の最後はキリスト同様、神に祈ることが出来ないといけないといっているのです)
死ぬ間際にそのような心であればいいのなら、死ぬ間際だけそのような心になればいいのではないか、と短絡的に思う人もいるかもしれませんが、普段、人の悪口ばかりいって、怒ったり恨んだり平気でしている人が、死ぬ間際になって、このような安らかな心になれるわけがないのであって、だから私は、いまから神の心を勉強していないといけませんよ、そうしないと神の国には入れないのです、といっているのです。
普段から神に祈って安らかな心になっていなければ、死ぬ間際に、そのような心になれるわけがないからです。(死ぬ間際など、特にそのような執着の心や恨みつらみの心が出てくるのです。〔これでこの世の終わりと分かるからです〕だからこそ、よけい普段からそのような安らかな心になっていないと、そのような心が死ぬ間際に出てくるはずがないのです)
神の国に入るには、生きている間もそうですが、死ぬ間際まで神を思う安らかな心を持っていないと入ることが出来ないのです。
金、地位、名誉、そのようなことばかりに執着していてはいけないと、私がくどいほどいう理由も少しはお分かりいただけるのではないでしょうか。(もちろん、怒りやねたみ、ひがみなどの心はもっといけませんが…そういうことばかり思っている人がこの辺りは多そうです。態度で分かります。残念です。そのような人たちはみな地獄行きです)
いつまでも人を恨んでいても仕方ないでしょう。(それもほとんど責任転嫁の逆恨みだし)キリストは救った人にまで裏切られましたが、それでもそのような人たちを恨むことなく、最後はその人たちを神に祈って亡くなられたのです。
もちろん、この世の金や地位や名誉に執着されたわけでもありません。
少しくらい、このキリストの心を見習われたらどうでしょうか。
人はいつ死ぬか分かりません。安らかな心、神を思う愛ある心にすぐにでもならないと神の国に入ることは出来ないのです。



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