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6月 26 2009

一眼の亀の浮木の穴

3:41 PM ブログ

大海の中より、千年に一度しか浮かんでこない片目の亀がおりました。その亀は手足が
なくヒレもありません。そして、この亀は腹が焼けた鉄のごとく熱く、甲羅は雪山のように
冷たいのです。この亀が昼夜願うのは、熱い腹を冷やし冷たい甲羅を温めることでした。

赤栴檀(あかせんだん)という聖木があるのですが、この栴檀こそ唯一この片目の亀の
腹を冷やすことができる木でした。しかし、この亀が、赤栴檀の聖木にであうのは非常に
難しい話でした。
なにしろこの片目の亀は、大海の中より千年に一度しか浮かんでこず、海は広大です。
凡木にであえることはあるかもしれませんが、聖木に出会うことはほとんどありません。
それに仮に聖木にであったとしても、その聖木がちょうど亀が乗りやすい木で、しかも、
その木に亀がすっぽり入れる穴があいてないと、日の光で甲羅を温め腹を聖木で冷や
すということができません。聖木にあいてる穴が、大きければ亀はストンとそのまま海に
落ち底に沈み、また上がってくるのに千年かかり、小さければ穴に入ることはできません。
聖木にあいてる穴が、大きくても小さくてもだめで、ちょうど亀が入れる大きさでないとだ
めなのです。そして、そのような聖木が仮に亀の前を流れていったとしても、その聖木が
片目の亀の眼の見えない方を流れていけば、亀は聖木に気づくことはありません。
はたして、この片目の亀は聖木にであうことができるのでしょうか?

これは仏様の法に、であうことの難しさを示した説話ですが、この片目の亀が聖木にであ
うより、仏陀の法にであうのは難しいのです。
イエス・キリストがイスラエルに出られて、二千年の月日が流れました。その間、多くの名
僧、高僧、宗教家といわれた方々が出てこられましたが、キリストほどの奇跡を起こし、
福音を説かれた方はいません。
仏陀と呼ばれる方は、数千年に一度しかこの世に出世されず、しかも同じ時代に生れても
その方に気づかず、一生を終える人も多いのです。キリストの時代キリストを救世主と信じ
た人がどれほどいたでしょう?もし、ほとんどの人がキリストを本当の救世主と信じ、キリ
ストの説かれた福音を実践していたならば、キリストが十字架にかかることはありませんで
した。ほとんどの人は、キリストの奇跡を見てその奇跡に驚き、祭り上げたにすぎません。
それは、エルサレムにキリストが入った時に、あれほど熱狂した民衆が、手のひらを返した
ように十字架にかけた、その事実を見てもよくわかります。あの時代、ほとんどの人がキり
ストを救世主とは見ていなかったのです。
しかし、二千年たった現在キリストは救世主であったと世界の人が認めています。
本当の歴史というものは百年~二百年たたないと分からないのです。

現在の日本に仏陀が出世され、その法はかろうじて残っています。高橋信次先生が仏陀
であったということは、科学が発達することにより分かってきます。それは、科学が発達す
ればするほど、高橋先生が説かれた法を裏付けてくれるからです。
科学で裏付けが取れない宗教の教えなど、本当の教えではありません。なぜなら宗教と
科学は一致しなければならないからです。キリストの教えも、釈尊の教えも科学と一致し
ます。ただ、キリストの時代も釈尊の時代も科学が発達していなかったため、それが分か
らなかっただけです。
仏陀が説く法とは、神がこの世をつくられた時からあり、そして、科学がまだ到達すること
ができない、最新の科学でもあるのです。

仏陀の法に巡り合うのは、片目の亀が聖木にであうことより難しいのです。もし、その法に
巡り合い実践することができたのなら、生きている間はもちろんのこと、死んだその先まで
救われることになります。
仏陀の法に巡り合う難しさ、大事さを知ってください。







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