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8月 01 2015

祈りの善悪

11:05 AM ブログ

昨日も暑かったですね。

今日も暑そうでさすがにバテ気味ですが、昨日あんなブログを書けば怒っている人ばかりです。誰一人反省しません。疲れも倍増ですね。(苦笑)

何一つ奇跡の起きない人たちが、よくもそう自信満々に「みんなお前が悪い」みたいな態度がとれるものと呆れますが、傲慢な人たちはそれが普通なのでしょう。(苦笑)

昨日でも、どこかの会社など午前中はこちら側の窓を開けて、また、うるさいことをしていました。散々でかい音を立てて嫌がらせを繰り返していたのです。(本当に昨日のブログでもそうですが、あれまともに書けていないのです。でかい音を立ててじゃまばかりしてくるからです)

そうしたら、午後から何か様子が変わったのです。シーンとなったり急にでかい音を立ててみたり情緒不安定丸出しです。

私が家を午後の三時少し前に出たのですが、私が家を出て行く時に、どこかの会社を見ると午前中開いていたこちら側の窓が全部しまっていました。(午後からの方が暑かったはずですが〔昨日の名古屋の最高気温36.7度です〕本当に変わったことやっています)

どうも昼の間に何か起きたようでした。(それで午前と午後では態度が変わったのです)

そうして夕方帰ってくるとまたこの会社、興奮状態でした。こういう時は何か起きています。(凄い顔をして会社から出てきたのもいましたから)どうも私が出て行った後にも何か起きたようでした。

この会社(毎日どころではなく)もう日に何度も災いが起き始めているようです。

これだけ災いが起きている会社でも、それでも反省しようとしないのです。では、それほど災いが起きていない人たちが反省するわけがありません。

どうせ「悪いことが起きたのもあいつの祈りのせい」くらいにしか思っていないのでしょう。

何か、私が祈ると悪いことばかり起きるので(奇跡だって起きているのですが)私が祈るのが悪いという人も多いようですが、なぜ祈ることが悪いことなのでしょう?

私は、私によいことをしてくれた人にも悪いことをしてくる人にも同じように祈ります。その祈りがなぜ悪いことなのですか?

私が祈るのが悪いという人たちは、キリストの言葉を知らないのでしょうか?

キリストは次のようにいわれています。(もう何度も引用していますが)

「目には目を、歯には歯をといわれることあり、されど汝らにいっておく。汝の敵を愛し、責め憎む者のために祈れ」

私は、このキリストの言葉を実践しているだけです。

だから私は、嫌がらせをしてくる人たちを祈るのです。キリストに「責め憎む者のために祈れ」といわれているからです。

そのキリストの言葉を実践している私のどこがいけないというのでしょう。

私は縁もゆかりもない人を祈ることはしません。私に嫌がらせをしてくるということは、その人と私は、その時点で縁を持ったことになるのですから(袖振り合うも他生の縁〔そでふりあうもたしょうのえん〕というくらいですから)だから縁ある人を祈るのです。(だから私と縁を持ちたくなければ私に嫌がらせなどしないことです。私もそちらと縁など持ちたくはないからです)

私との縁が出来た以上、悪いことをしている人を、そのままほってはおけないからです。

そのようなことを人にしていては、その人にとってよいことではないと、だから天に「どうぞこの人を正しくお導きください」と祈るのですから、これ以上よいこともないわけです。(自分を責め憎んでいる人たちを愛の心で祈るのです。これ以上よいことはありません)

その、これ以上ないよい祈りを実践している私の祈りが悪いとは、一体どういう料簡でいわれているのでしょう。

ぜひそれを、そのようにいう人たちに聞いてみたいものです。

結局、そのように祈られて、もし病気かなにかになる人がいたとしたら、それは病気なった人が悪いのであり、祈った私が悪いわけではないのです。(私はただキリストのいわれていることを実践しているのです。なんでそんな私が悪いのでしょう)

普段からの心の在り方、行いが悪いから、正しい祈りをされると災いが現れるのであり、そうでなければ、そのような祈りをされたくらいで何か起きるわけがないのです。(間違った祈りをされても現れませんが、正しい祈りをされると心と行いが悪い人には、そのような気づきの現象が現れます。全員にではありませんが、時期から何から整った時に正しい祈りをされると、そのような天上界からの気づきの現象が現れるのです)

だから、年寄りから子供まで私は平気で祈るのであり(誤解があるとはいえ)憎しみから嫌がらせをしてくる、そのような人たちを愛の心から祈っているのです。憎しみを愛で返しているのです。

これ以上よい行いを実践している者もいないのではないでしょうか?だから私には奇跡しか起きないのです。

よいことしかしていないからです。

ところが法を知らない人たちは、嫌がらせをしてきたとはいえ、年寄りや女子供まであいつは平気で祈っている、なんてあいつは悪い奴だとこう思うわけです。

しかし、要はその祈りの内容の問題なのであり(呪うとか恨みからの祈りではもちろんいけません)人を祈るという行為は、決して悪いことではないということです。

むしろよい行為であるということです。

だから釈尊やキリストも、同じように善人に対しても悪人に対しても祈られたと思います。

釈尊やキリストが善人だけ祈り、悪人に対しては一切祈らなかったなどと思われますか?

そんなことあり得ません。釈尊やキリストは、善人に対しても悪人に対しても同じように祈られたのです。それと同じことを私はしているだけです。

だから、今と同じような(悪人が祈られて病気になるなどの)現象は釈尊やキリストの在世当時にも現れていたと思います。

ただそれが記録として遺されていないだけでしょう。モーゼのことが書かれてある旧約聖書には、そのような場面がたくさん書かれてあるからです。

悪人が天罰を受ける場面はたくさん出てくるからです。

しかし、モーゼが祈り災いが起きる場面(十の奇跡など)はみな知っていて、それは災いを起こされた方が悪いとみな分かっているのに、私が同じようなことをすると、災いを起こされた方が悪いのではなくて、それはお前(私)が悪いということになってしまいます。

モーゼはよくても、私が同じようなことをすると悪いようです。(苦笑)

しかしそれはご都合主義以外の何ものでもなく、災いを受けている人たちが悪いのです。自分たちが悪いから自分たちに悪いことが起きているからです。

それはモーゼが起こされた奇跡だけではなく、釈尊やキリストもいわれていることだからです。(善因善果 悪因悪果)

私は悪いことは何一つしていません。(だから奇跡が起きるのです)悪いことをしているのは皆さん方の方なのです。(だから災いが起きるのです)

悪いことを全部人のせいにしている暇があるなら、少しは反省されたらどうでしょう。

その方がよほど幸せになれるからです。

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