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8月 20 2015

お門違い

11:17 AM ブログ

何か大変なようです。

このブログをやめていた三日間(月、火、水)前の会社は大騒ぎでした。

月曜日は確か午前中からそうでした。二日目の火曜日は夕方あたりから、昨日は昼からキレ出してうるさいうるさい(さすがに昨日、一昨日は暗くなってもうるさかったので文句をいいに行きましたが、文句をいいに行くと「すいません」とか、へらへらしながらいっています。そうして「何かあったのか」と聞くと「別に何にもありません」です。いつも同じようなこといっています)そうして今日ですが、今日は(単発では何かしていますが)さしてうるさくありません。

だからブログを書いているのです。

この連中が静かになるということは、よほどのことが起きていると想像できますが、このブログを書かなかった三日間、私は、そのブログを書いている時間(だいたい午前中の九時から十一時くらいまでです)ずっと前の会社を祈っていました。(だから私はブログを書く時間を祈りの時間に変えただけなのですが)

そうしたら、そのような異変が前の会社に起きたのです。

しかし、悪いことをしていない人たちに私がいくら祈っても悪いことは起きません。(私は呪っているわけではないからです。「この人たちを正しくお導きください」としか祈っていないからです)

悪いことをしているから悪いことが起きているのです。それを私の祈りのせいにするのはお門違いでしょう。私が祈らなくても、どちらにしてもこのような人たちに悪いことは起きたからです。

自分たちが、その悪いことを反省したらどうでしょう。そうすれば誰が何をどれだけ祈っても自分たちに悪いことは起きないからです。

本当に、どれだけいっても分からない哀れでお門違いな人たちとしかいいようがありませんが、しかし、お門違いな人たちはこの人たちだけではないでしょう。この辺りにはずいぶんいるようです。

この辺りは、悪いことを全部私のせいにして、嫌がらせをしてくる人がたくさんいますが、前のブログにも書きましたが、もし私に何の罪もなかったらそのようなことをしている人たちはどうするのでしょう。

そのような人たちは、無実の者を悪くいって(ということは、無実の者に罪を着せているということになります)嫌がらせをし続けているのです。

もしそうなら、そのような人たちは無実の者に罪を擦り付け、なおかつ嫌がらせまでしているというのですから、二重の罪になり、大きな罪を負っていることになりますが、では、そのような人たちに天罰は下らないのでしょうか?

あのサイレンなど(最近はまたよく聞こえてきますが)その天罰なのではないでしょうか?

そうでなければ起きてきた順序がおかしいからです。

だって、多くの人たちが(バスやトラックの運転手が)よってたかって私に嫌がらせを始めてから、あのサイレンは始まったのです。

もし、私があのサイレンの犯人であるなら、もっと早くからサイレンがしていてもおかしくはないでしょうし、私にそんな次々に人を病気に出来る業があるなら、同じ知らない人を病気にさせるにしても、まず、嫌がらせをしてきた運転手連中を病気にさせると思いますが、何でまったく知らない人を(しかも私に嫌がらせしたこともない人を)私は病気にさせないといけないのでしょう?

あのサイレンが私のせいというなら、起きる順序もおかしければやることもおかしいのですが、何で私はそんな意味のないことを、というか、そんな誰彼かまわず病気にしていたら、どういう恨みを買うか知れません。

私にとって何一つよいことはないと思いますが、何で私は自分にマイナスにしかならないようなことをするのですか?

逆に、あのサイレンを私のせいにしている人たちにそれを聞いてみたいですね。

しかし、聞いても無駄でしょう。誰一人その質問に答えられる人はいないと思うからです。そこまで深くあのサイレンの原因を考えている人はたぶんいないと思うからです。

「あのサイレンはあいつのせい」人にいわれるままに、そう信じている人が多いと思うからです。

しかし、やはりあのサイレンは天罰なのではないでしょうか。

皆さん方のあまりに神から遠い心が、私に嫌がらせをすることで(私は、その神から遣わされた者ですから)その神の怒りを買い(そのような行為が、ついに神への不遜の限度を超えたということです)そうして、神の業(サイレン)は現された、ということなのではないでしょうか。(あのサイレンはどう考えても人の業ではなく神の業であるからです)

そうであるなら、あのサイレンは、これまでこの日本の多くの人がしてきた神への不遜な態度の天罰だとしか思えませんが、そこはどうなのでしょう。(じゃなければ、あれほど無制限に多くの人が病気になるなど考えられませんが)

マァ、そんなことを書いても、名古屋の誰もそれを認めないのでしょうが(しかし、あの現象を一人の者のせいにしますか?凄まじいですね、名古屋の人たち)一つだけいっておきますが、もし、私がなんの罪もないなら、その私に嫌がらせをしてきた人は大きな罪を負っているということになります。(私の悪口ばかりいっている人もそれは同じでしょう。私に罪を着せていることになるからです)

そうであるなら、このままでは済まないでしょう。

必ず、前の会社に起きていることと同じことが、そのようなことをしている人たちにも起きると思うからです。

罪を罪のまま残しておいて、それで何も起きないとは思えないからです。その罪の償いは必ずしないといけなくなるからです。

前の会社に何が起きているのか、それはこの辺りの人たちはよく知っているでしょう。私は知りませんが、ただ私も、そのような如来の悪口をいっていた人たちに何が起きたのか、それは知っています。

そのような人たちの多くが、癌になったのです。

前の会社に同じようなことが起きているのかどうか、それは分かりませんが、私に罪を擦り付け嫌がらせをしておいて、それをまったく反省しようとしなければ、同じように癌になる人は出てくるのではないでしょうか。

自ら罪をつくっておいて、それを放置したまま何も起きないはずはないからです。

私に嫌がらせをするのはいいのですが、それなら癌になっても仕方がない、その覚悟だけはしてやってください。その行為が正しいことかどうかは分からないからです。(というか、嫌がらせが正しい行為とはとても思えませんが)

しかし、釈尊やキリストに災いが現れたでしょうか?

釈尊やキリストには奇跡しか現れなかったのです。災いが現れる人は悪い人と、昔から相場が決まっているのですが、今生は災いが現れる人がいい人で、釈尊やキリストと同じ奇跡が現れる人は悪い人と思われるようです。

しかし、そのような考えは間違っているのです。(究極のご都合主義でしかありません)

昔も今も、奇跡が現れる人がいい人で、災いが現れる人は悪い人なのです。

いい加減お門違いはやめたらどうでしょう。悪いのは災いが起きている人たちだからです。

追伸…そういえば桜島の激しい噴火は桜島周辺だけではなく、東京も危ないとコメントに書いておきましたが、その理由も書いておきます。

高橋先生は「桜島が噴火するのは、東京の地下にたまっているエネルギーを、あの桜島から放出しているからである」といわれていました。

つまり東京の地下にはいつ巨大地震が起きてもおかしくない、巨大なエネルギーが蓄積されているということです。(そういう危ない心〔それは怒りや妬みやひがみなどのマイナスの意識です〕を持っている人が、他の地域に比べて東京の人たちは多いということです。〔人口も多いので、そのエネルギーも巨大になります〕東京は日本の首都であるのです。他の地域より、ストレスなど多くたまるのでしょう。そのようなことがマイナスの意識の多さにつながるのかもしれません)

その東京の地下のエネルギーを、少しずつ鹿児島の桜島から放出しているのですが、その桜島の噴火が激しいということは(もしかしたら大噴火するかもしれないといわれていますが)東京の地下のエネルギーは大変なことになっているということです。

大正三年に桜島の大噴火がありましたが、その数年後(九年後)に関東大震災が起こりました。

これは偶然ではないと思います。高橋先生がいわれていたことに近いことが起きているからです。

もし桜島が大噴火など起こしたら、そのあと東京にも大地震が起きるのではないか?それは注意しておいた方がよいと思います。その桜島と東京は地下でつながっているからです。

どちらにしても今のままの心では、いつ東京に大地震が起きてもおかしくはない、そのような状況であることは確かなようです。(桜島の噴火を見ればそれは分かります)

東京の皆さん、このブログを他人事のように見ていて大丈夫ですか?明日は我が身に災難が降りかかるかもしれないのにです。

もう少し真剣に心の勉強をされてはどうでしょう。それが(東京だけではありませんが)唯一の救われる方法であるからです。

(再開早々、ずいぶん恐ろしい内容のブログになりました。しかし、どこも非常事態です。〔異常気象もそうですが、こちらなど毎日神の業が現れている人たちもいますので〕軽い内容のものなどとても書けませんね)

2コメント

2 コメント to “お門違い”

  1. ウナッシー2015/08/21 at 7:36 AM

    我は今日も生きているのである。神より命を頂いているのであり祝福を受けていうのである。感謝。
    最近になり通勤で使用している自家用車に愛着が深まり、出勤前と帰宅後には一礼をして敬意を払っています。これは考えてやっているのでなく、心がそう仕向けているのです。でも一礼をした後の心地好さは良いものです。
    理由なく腑に落ち、自分でもこれで良いという思いになります。
    しかし、考えてみれば私の場合は自家用車がなければ勤めもできない、ましてや生活さえも不便になりますから感謝して当たり前だという思いに至りました。
    形だけでなく心から感謝できる環境であることを嬉しく思います。

  2. gtskokor2015/08/22 at 10:45 AM

    なんでも感謝することは大事なことです。
    そのような心を忘れないようにしてください。

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