4月 27 2011
如来の教えを知る、ということの重大さ
私は前にこのブログに、輪廻転生の記録は仏典だけでなく聖書にも書かれてある、と書いたことがあります。
それは使徒言行録に書かれてある“ペンテコステ「五旬節」の聖霊降臨”といわれる場面です。
エルサレムに集まっていたキリストの弟子たちに、聖霊が降り、その聖霊に満たされた弟子たちが突然異言を語りだすのですが、その聖霊に満たされた弟子たちの異言が、エルサレムに集まっていたいろいろな国の人々の国の言葉であり、そのいろいろな国の言葉で、それぞれの弟子たちはキリストが説かれた福音を述べます。
その言葉を聞いた多くの国の人々は、目の前に起きた奇跡に驚き、多くの人がその場でキリスト教に入信します。
弟子たち(キリストの最初の弟子たちは皆ガリラヤ人ばかりでした)がこのとき語った言葉は、自分が過去生まれたことがある国の過去世の言葉であり、その言葉でエルサレムに集まっていた、いろいろな国の人々にキリストの教えを述べたのです。
自分の過去世を思い出した弟子たちは、このときから憤然と立ち上がり、キリストの教えを世界中に伝えていくことになります。
当然、キリストの弟子たちは、今生初めてキリストにお会いしたということはありません。過去でもキリストの弟子として教えを受け、それをこの世に伝えたことがありますので、それを思い出して自分のやるべきことを悟り、キリストの教えを世界中に伝えていったということになりますが(今生は過去世を思い出しているにもかかわらず、高橋先生の教えを伝えようとしなかった弟子のせいで大変なことになっています)、では、仏典にはこのような輪廻転生のことがどのように記録されているのでしょうか?
それを書いてみましょう。
輪廻転生の記録は華厳経十地品に次のように書かれてあります。
<かれはいろいろな以前の住所を記憶する。一生を記録し、二・三・四・五・十・二十・三十・四十・五十・百生を記録し、数百生・数千生・数百千生・数百千億無数生を記憶し、破壊のカルパ・生成のカルパ・破壊と生成とのカルパ・生成と破壊との数カルパを記憶し、百カルパ・千カルパ・百千カルパ・億カルパ・百億カルパ・千億カルパ・百千億カルパ・ないし数百千億無数のカルパを記憶する。
『あそこでわたしは、こうした名である、こうした種姓である。こうした生まれである。こうした食物である、こうした寿命のたけである、こうした久しい居住である、こうした苦楽を経験する者であった。そのわたしはあそこから身をかくして、他所に生まれ、そこから身をかくして、ここに生まれたのである』という(こうした)様相をそなえ、しるしをそなえ、標示をそなえて、いろいろな以前の(生涯の)住所を記憶する。>
このように聖書や仏典にも書かれておりますが、人は輪廻転生するものであり、私たちは今まで何百回も何千回も何万回もいろいろな国に生まれ、輪廻転生して魂を磨いているのであり、それが如来がこの世に生まれたときは、現象として証明されるのであり、如来と同時代に生まれることが、どれほど自分の魂の修行にとって、ありがたいことなのかを知らなければならないのです。(普通はこの世に生まれてしまうと何も分からなくなり、自分の心の判断だけで一からそのようなことすべてを、悟っていかなければならないからです)
如来が出世された時は常に同じような現象が現れて、神の心を如来の言葉だけでなく、その現象からも理解できるようになっています。如来が優しく教えてくれているのに、それに眼をつぶり耳をふさぎ、一切知ろうともしないのは自分自身であり、それがどれだけ自分自身にとって損なことであるのか後で分かります。死んでから「シマッタ」と思っても後の祭りなのです。(ほとんどの人が死ぬと「シマッタ」自分は何もしてこなかった、と思うそうですが)
如来はこの世に数千年に一度しか出世されませんが、出世された時は何らかの形で教えが遺され、その教えによって多くの人が救われていくことになっています。
今生、如来が出世され話された教えや現象を伝えないということは、今生の人だけでなく、後世に如来の教えによって救われるはずの、多くの人々に対しても、大きな罪をつくることになります。
『如来に会うことまことに難し』といわれますが、その如来にお出会し教えを聞いた者の責任の重大さも、よくよく知らなければならないのです。
突然ですが、さすがにこれ以上ブログを続けるのは困難な状況になりました。(まるで売り上げありませんので)それで一応今回のブログで最後ということにします。ありがとうございました。



人目の訪問者です。
