3月 21 2016
視点を変える
また朝からお怒りのようですが、本当に毎日同じことを続けています。(よくそれだけ悪いことが起きて、それでもまだ同じことをやり続けますね。そこまで行くとバカを通り越してすさまじいです)
しかし、仮に私が謝っても、その災いは止まらないのです。
だから、こちらが折れたくても折れようがないのですから、そちらが折れるしかありません。反省されてはどうでしょう。それ以外で救われる道はないからです。
それはどこかの会社の人たちだけではないのですが、最近はよく自由、自由といわれます。
だから、折れようが折れまいが、そんなことは自由だといわれればそれまでのことなのですが、しかし、最後にはその自由を捨て、従わなければいけないものもあります。
それが法であり、神理であるのです。
法や神理に従わない自由は確かにありますが、そちらの自由を取るなら、それが苦痛となり、不幸となって自分に跳ね返ってきます。
それを多くの人は言葉ではなく、実践で体験させられているのです。
では、これほど正しいことが分かる教えはないのはないでしょうか。口だけではなくすぐにお蔭が現れるからです。
それは最近ブームだといわれている風水などと比べても一目瞭然でしょう。(国家をあげてやっているところもあるようですが)
今日はあちらの方位がいい、明日はあちらの方位がいいといったところで、そのよいといわれる方位に行って、それで奇跡が起きるのでしょうか?
方位のいい方に旅行など行って気分がよかった、パワーをもらえた、とかいう話をブログに書いている人がいますが、その方位に行って奇跡が起きた、と書いている人はいません。
では、その気分がいいとか、パワーをもらえたとかいうのは気のせいなのではないでしょうか?
何か奇跡的な現象が起きなければ、パワーがもらえたかどうかの証明など出来ないからです。
奇跡的な現象が現れてはじめて、その方角に行ってよかった、パワーがもらえたと証明出来るからです。
だいたい東西南北すべて神がつくられたのです。
何で神がつくられた場所によい悪いがあるのでしょう。そのようなものはすべて、勝手に人間がつくりだした知と意の産物にしかすぎないのです。
日本では東北が鬼門だと昔からいわれています。
では、その東北に住んでいる人たちには悪いことばかりが起きているのでしょうか?
名古屋から見たら静岡の辺りが東北になりますが、三重県の人から見たら名古屋が東北に位置します。
東北が鬼門だといわれても、その住んでいる場所によって東北の位置は変わるのですから、そのような言い伝えのおかしさはよく分かります。
それに、どの場所に住んでいようと悪いことが起きる人には悪いことが起きますし、よいことが起きる人にはよいことが起きるのです。
では、よいことが起きるのも悪いことが起きるのも場所は関係ないと思われないでしょうか。(その場所が鬼門の場所であるなら、そこに住む人、全員に悪いことが起きないといけないからです)
名古屋がそのよい例でしょう。
名古屋はずいぶん悪いことが起きている人が多いようですが(さすが三重県から見たら鬼門です)私には悪いことなど起きず奇跡が起きています。
場所で、よいこと悪いことが起きるのであれば、私にも悪いことが起きないといけません。(ある意味、悪いことは起きていますけどね。人から嫌がらせばかり受けるからです。〔苦笑〕)
しかし、同じ場所にいても、私には災いとは正反対の奇跡が次々に起きているのです。
このようなことからもよく分かります。よいことが起きるのも悪いことが起きるのも、場所など一切関係ないということがです。
場所ではないのです。
心なのです。
その一人一人の心(と行い)が、その人に起きるよいこと悪いことに大きく関係しているのです。(そうでなければ説明がつかないからです)
このように、人がつくったものはいくつもの間違いがあるのですが、法は神がつくられたのです。
したがって間違いがないのであり(ただし説いている人が間違わなければという条件付きですが)だから、その法を正しく実践すると奇跡が起きるのです。
唯一無二の本当の神がつくられた正しい教えであるからです。(神がつくられた教えなのですから、その教えを実践すれば神の奇跡が起きるのは当たり前のことなのです)
だから、この教えに逆らうとろくなことが起きないのであり、従うなら奇跡が起きるのです。
だから、この教えを勉強しなければいけないし、この教えが拡がれば拡がるだけ、そこが平和になるのです。(ただし、実践する人が多ければということですが)
この教えに従うも逆らうも自由です。しかし、従えば奇跡が、逆らえば災いが起きる、それは事実であるのです。(証明する人この辺りにたくさんいます)
この教えが拡がれば世界が平和になります。小さな心は捨て、自分の幸せとともに世界の幸せを願ってはどうでしょう。
そのような大きな心が自分をひいては世界を救うからです。
(私に従うのではないのです。世界を平和にするためにこの教えを勉強し実践するのです。私のためではありません。自分のため世界のためにやるのです。もう少し視点を変えられてはどうでしょう。同じ視点から見ていては難しいことでも、別の視点から見てみれば、なんということはない、ということはいくらでもあるからです)



人目の訪問者です。

この前ふと分かった便利な機能の弊害が有ります。それは携帯電話です。俗に言うガラケーと普及しているスマホです。さてこの機器の何処が弊害がというと、携帯の機能を利用したGPSによる場所の確認です。本来は子供さんとか高齢者の迷子対策での機能となりますが、中には年頃の娘さんや恋人関係の彼氏彼女等の追跡で使用している人がいるようです。これはもう間違った使い方であり人間不振におちいる苦境ではないのでしょうか。自分に自信がない相手が信用できないで使ってる人がいたならば止めた方が身のためだと思いますね。どんな物でも使い方を間違えれば大事な自分自身をダメにしてしまう。それも自己責任であり自業自得といったところですが、そういう方々には自分を豊かにする正しい使い方を学び日々を楽しく過ごせることを祈ります。
何でもそうですが、機能は関係ないのです。(というか、便利であればあるほどいいのでしょうが)
それを使う側の人間が正しく使えばそれでいいのです。(それは原発などでも同じでしょうが)
すべてそれは神が与えてくださったものであるからです。
正しく感謝して使う、そのようなことも含め、すべて心が大事であるということです。
はい、そうでした。人有りきということですね。物が有って人が使うという思考自体がミスの元ですね。人が物を使うことによって生かされる、そういう世の中へと導けたら良いですね。