3月 23 2016
法の世の深まり
昨日は知多の海に行ってきました。ソロソロ魚たちも出てくる頃ではないかと思ったからです。
名鉄で内海まで行って、そうして内海から野間(南知多ビーチランドがある)知多奥田の辺りまで海岸を歩いて行きましたが、もう、内海の駅についた時点ですずめたちが大騒ぎです。(笑)
そうして、その内海駅から海岸に出るまでには畑がたくさんあるのですが(あの辺は本当に畑が多いです)その畑の中の道を歩いて行くと、あちこちですずめやらムクドリやらが飛び回り、私の方に飛んでくる鳥も何羽もいました。
「ピィピィ」「ギャーギャ」楽しいものです。
そのような鳥たちが大喜びしている光景を見ていると、何か自分が天上界いるのではないかとも思えました。
しかし、そのような鳥たちの声を聞くと、すぐに大きな音を出す人たちがいます。(ドンとか、ガンとか物を叩き付けてです)
「ああ、ここはまだ現象界(この世)であるのだな」と一瞬で我に返りました。
そのような奇跡の現象を(天上界で起きている現象を)素直な心で見ることが出来ない人がたくさんいるようです。本当に哀れなものです。
だから、その辺りでも辻説法をしましたが(内海の駅に降りて早々にもしました。駅の中にある売店のオバちゃんや喫茶店のオバちゃんに嫌がらせをされたからです)私のことを悪く思っている人は相当多いようです。
キリストはなぜ十字架にかけられたのか?
そうしなければ、キリストはあの時、あれ以上福音を説くことが出来なかったからです。
その当時、キリストに対する反発の心を持っている人がたくさんいたのです。キリストは、それまでとは違う価値観で法を説き、多くの奇跡を現したからです。
そのような普通の人と違う行いが人々の反発を買い、それが多くの人の耳をふさがせ、あの偉大なキリストさえも十字架にかけることになったのです。(当時の人たちには、キリストの偉大さがまったく分からなかったのです。そのような反発の心がじゃまをしてです)
今の私も同じでしょう。これまでとは違う価値観で法を説いて、そうして多くの奇跡を現しているのです。
そのような行いが人々の反発を買い、そうして、多くの間違った噂を流されています。
世が世なら、私も十字架にかけられていたのでしょうが(魔女狩りにでもあってです)すでに時代は変わっています。
法が堂々と説け、そうして奇跡も自由に現せることが出来る時代となったのです。(ただし、それは日本においてはという条件が付きますが。法が自由に説けない国もまだたくさんありますから)
では、聞くべきでしょう。
本当の神の教え(法)を説いているのは私だけであるからです。そうして本当の神の業(奇跡)を現しているのも私だけであるからです。(本当の神の教えを説くことが出来なければ、本当の神の業など現すことが出来ないのですから、当たり前といえば当たり前のことなのですが)
どうして、それほど悪い者に、これだけ鳥が寄ってくるのでしょう。悪魔の噂を信じていては、こんな簡単な質問さえ答えることが出来ないのです。
しかし、この質問の答えが分からない人など多分いないでしょう。多くの人が、この質問の答えはすでに分かっているのです。
分かっているのですが、それを認めたくはないのです。それを認めると、自分たちの間違いを認めることになるからです。
私が善人であるから、これだけ多くの鳥たちが寄って来ているのです。(これも当たり前のことですよね)
悪人にあの臆病な鳥たちが寄ってくるわけがないのです。
また、それほど多くの鳥たちが寄って来て、そうして奇跡まで起きているというのなら、それこそ普通の人以上の善人でなければ、そのようなことが起きるわけがないのです。(釈尊しかり、キリストしかりです)
そのようなことは、すでに多くの人が気づいているのです。気づいていながら、それを認めようとしないのです。
先ほど書きました「反発の心」がそれを認めることを許さないからです。
しかし、法を自由に説ける時代になり、そうして、その法を実践しなければいけない『正法の世』となったのです。
では、法を無視していてはもうまともな生活さえできないでしょう。正法の世になり法を無視して生活するなら、災いが次々に降りかかって来るからです。
その法を知らないばかりに起きている災いを、未だ私のせいにしている人たちも多いのですが、もう限界でしょう。
そのような態度を取る人たちで、すでに泣きが入っている人たちがあちこちにたくさんいるからです。(どこかの会社もそうでしょうし、昨日は名鉄を利用しましたが、乗務員の皆さん、ずいぶん変わりました。〔私に頭を下げていった人までいましたから。前は絶対そんな人いませんでした〕それとは正反対に市バスの運転手はやたら怒っている人がいます。こういう両極端の態度の人が増えたのは泣きが入ってきた証拠でしょう)
いい加減、認められてはどうでしょう。自分たちの間違いをです。
どれだけ反発したところで、法の世になれば、法を知らないまま生きて行くなら、今のように災いが次々に起きることになるのです。
法の世と自分の心が合わなくなるからです。
末法の世であるならば、末法の心のままでいても生きていけます。しかし、正法の世になれば、その正法(釈尊が説かれた本当の正法です。キリストの説かれた福音も同じですが)を知らずにいては生きていくことも困難になるのです。
法を知らずに生活する人には次々に気づきの現象が現れるからです。(それが災いです)
私と、他の人たちとなぜ起きることが違っているのでしょう?
その理由はただ一つなのです。
心が違っているからです。
それだけなのです。心の違いが、起きることの違いとなって現れているのです。(だから私はいっているのです。皆さんの心が現れる時代になったとです)
私は法を物差しとして生活しているのであり、他の皆さんは、その法の物差しを持っていない。
その差が起きることの違いとなって現れているのです。
いつまでも怒っていて、それでどうにかなるのでしょうか?
それではどうにもならないほど、すでに法の世は深まっているのです。



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