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10月 16 2016

素晴らしい世界

11:17 AM ブログ

昨日道を歩いているとです。

バスやトラックの運転手の皆さんが、ずいぶんお怒りのようでブシュブシュやられました。

しかし、元気がない人が多いようです。(ブシュブシュに元気がありませんでしたから)それはそうでしょう。そのような行為は本気ではないからです。

本心からではありませんよね。私に対するそのような嫌がらせはです。

そういうことをすればするだけ、また多くの人が病気をするのです。(もちろん自分も含めてです)もうそれを多くの運転手が知っているのです。

それは元気もなくなるでしょう。誰でも良心はあるからです。

それだけ罰当たりな態度もないのです。

心を救われている者に、そのお返しを嫌がらせで返している。これ以上の罰当たりな態度はありません。

だからそういう人たちを含めた多くの人に罰が当たっているのです。いつまでも罰当たりな行為をやめようとしないからです。

そういう自分に対する怒りもあるんでしょうが(何でこんなことをしたのかというです)それをいつまでも私のせいにして八つ当たりをしていたところでどうにもなりません。(それどころか、事態は悪くなる一方です)

心を入れ替え、心を救われた人には素直に感謝で返されませんか?

そうしなければ、この辺りで起きている災いは止まらないからです。(そうしなければ、この辺りで起きている事態は収拾〔しゅうしゅう〕しないということです)

しかし、自分のことばかりでなく、少しでも人のことを考えるのであれば(それは自分の家族でも恋人でも友達でもいいのですが)自分が頭を下げてこの災いがなくなるのならと、そのような人たちのためにも、少しくらい私に詫びを入れようという気が起きてきても不思議ではありませんが、そういう人が一人もいません。

この辺り、よほど愛のない人が多いのでしょうか?

自分の子供が可愛くはありませんか?親に何かあってもいけないという心はないのでしょうか?自分の好きな人は大切なのではないのですか?

そういう心が少しでもあるなら(自分のためではなく、そのような人たちのために)自分が率先して私に頭を下げるべきでしょう。

そういう心になるのなら(自分のためではなく人のためにとです)そのような人たちに災いが起きることはなくなるからです。(そのような愛の心は一変で神の光を降ろします。その神の光が自分も家族も守るのです。〔もちろん、その人の心に応じてですが〕)

しかし、自分のことしか考えない、そういう人が最近は増えたのでしょう。この辺りで(これだけ大変なことが起きているのに)いつまでもくだらない意地を張って、私に頭を下げようとしない人ばかりということでもそれは分かりますし、保育園をつくるなというところが増えたと今日の新聞にも書いてありました。

そういうところでも、自分のことしか考えていない「狭く小さい」心の人が増えたということは分かるからです。(今日も朝からバシバシ、ドンドン、バカマンションの連中がやっています。パソコンの音がうるさいからなんでしょうが〔家の中でパソコンを打っているだけでうるさがるのですから〕そういうことをしている人に限ってこのブログを読んでいます。それだけ自分本位の人が多いのです。そりゃ罰も当たります)

しかし、こういう心が狭く小さく愛のない人たちに比べ、少し心を広くして愛を出すのなら、楽しいことが次々に起きてきます。

そういう例を少し書いておきましょう。

昨日また内海に行ったということを書いたのですが、途中下車して辻説法をするのなら、わざわざ内海まで行かなくても、最初からその駅に降りて、そうして辻説法をすればいいのにと思う人もいるでしょう。

確かにその方が手間がないのですが、私がわざわざ内海まで行くのは、やはり、そこまで行ったのなら内海の海が見たいからです。

海には多くの生き物がたくさんいるからです。そういう生き物と会うことがまたことのほか楽しいのです。(笑)

私はいつも内海の駅につくとその辺りをプラプラ歩いて海まで行きます。

前は辻説法をしながら行くことが多かったんですが、最近は減りました。内海の人たち、最近はあまり何もしてこなくなったからです。(それでも何かされたらしますけどね。辻説法はです)

内海につながっている川沿いを歩くことが多いのですが、なぜかといいますと、その川に魚がいて、呼ぶとたくさん寄ってくるからです。

その川を見ながら歩いている最中も空では鳥たちがあちこちで騒いでいます。すずめはまだいいのですが、ムクドリが騒ぎだすとうるさくていけません。(あの声は半端ないですから。町中に響きます。〔苦笑〕)

しかし、そういう空には鳥たちが騒ぎ、川や海には魚たちが騒ぐ、それはそれで癒されます。そういう生き物たちの愛をヒシヒシと感じるからです。(そういう愛以上に心が癒されるものはありませんね)

そうして海につくと海沿いを野間あたりまで歩いて行くのですが(砂浜が続いていますから)その歩いている最中にもいろいろな鳥が飛んで来たり(トビなどずいぶん近くまで飛んでくる時があります。この前などふと気づいたらトビが上空を五羽も六派も飛んでいました。「お前らいたのか、元気か」と声をかけると、急に飛び方を変え、私の声に答えてくれるトビもいました)いろいろな海の生き物に遭遇します。

それがまた楽しいのです。

内海から野間まで行く途中にちょっとした岩場があるのですが、その岩場には潮が引いているとあちこちに水たまりが出来ています。

そういう水たまりをのぞくといろいろな生き物がいるのです。

そのような水たまりに小魚がいるのは当たり前のことですが(声をかけると細かいのがコチョコチョ泳ぎ回りますので、それを見ているだけでも楽しいです)この前などある水たまりを見ていたらなにもいませんでした。

「ここは魚も何もいないな」と思って「お前らいないのか」とその水たまりに声をかけていたら、その水たまりの底にある石がムズムズ動き出したのです。

「何だ、この石、動いているな」と思って見ていると、なんとそれは石ではなく、ヤドカリであったのです。

そのヤドカリの殻が、そこの岩と見分けがつかない色をしていました。それで分からなかったのですが「お前、元気か」と、その動きだした水中にいるヤドカリに声をかけていたら、近くにあったあちこちの石まで動き出すではありませんか。

「なにこれ」と思っていたら、その水たまりの中にあった小さな石ころはみなヤドカリであったのです。(ずいぶんいましたよ。十匹以上はいたんではないでしょうか)

そのヤドカリ連中が、その水たまりの中でガサガサごそごそやりだしました。あちらに歩いて行ったり、こちらにゆっくり歩いて来るヤドカリもいます。

面白かったので、しばらく、そのヤドカリたちを見ていたのですが「分かった、分かった、お前ら頑張れよ」といって、他の水たまりをあちこち見ていると、小魚ばかりか、急に大きな魚が泳ぎだす水たまりまであります。(大きな水たまりには割と大きな〔十センチくらいですか〕魚がいる時があります)

波打際の水たまりを見ながら「お前らいないのか」と呼びかけていたら、その水たまりからではなく波打ち際の岩場の裏からなんと割と大きめな(十~十五センチくらいあったでしょうか)カニが出てきたのには驚きました。

「お前もいたのか」と声をかけながら見ていると、しばらく私の前をウロウロして、また岩場の裏に行ってしまいましたが、そういういろいろな生き物が見られるのが楽しいのです。

そうして、野間の辺りまで歩いて行くと、今度は砂浜の辺りまで寄って来ている魚たちがいます。(この辺りの海岸だけですね。これだけ近くにたくさんの小魚たちが寄って来ているのはです。あの辺りの海岸の魚は岸の近くに寄って来る習性でもあるんでしょうか?)

そういう魚たちに声をかけていると、またビチャビチャバチャバチャ近くを泳ぎ回り楽しそうで面白いのです。

こういう生き物たちがたくさん見られるのです。これだけ癒される場所もありません。

だから私は(そちら方面に行く時は)わざわざ内海まで足をのばすのです。いろいろな生き物に会うことが出来るからです。

少し心を広くして愛を出すのなら、こういう楽しいことが毎日のように起こります。(毎日動物園や水族館に行っているようなものです。〔笑〕)

狭く小さな心でいつまでもいるより、少し広く大きな心で愛を出してみませんか?

そうすれば、素晴らしい世界が広がっていることに気づくからです。

(そこらじゅうに愛があふれている世界にです。狭く小さな心ではそういう世界に気づくことはありません。それどころか、もうそのような心ではいつ災いが起きるか分からないのです。時代に合わないからです。〔だからそういう心の人たちに悪いことばかりが起きているのです〕心が変われば見ている世界も変わります。〔また起きてくることもですが〕早くそれに気づいてほしいものです)

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