1月 15 2017
愛が足りないために起きた災い
今日は一面真っ白ですね。この辺りはずいぶん雪が降っています。
この雪のように真っ白な心であるなら、どんな災いも起きないのでしょうが、残念ではありますが多くの人が心をずいぶん汚しています。
だから悪いことが起きているのです。
昨日も雪が降っていたものですから家を出て行かなかったんですが、それでも家の周りの何人かの人たちが、家に私がいるのが分かると近くでガタガタ音を立てて怒っていました。
この近所の人たちは不幸が起きている人が多いからです。
そういう起きている不幸をみな私のせいにしているのです。本当にあいた口がふさがりません。
このような人たちは自分たちの汚い心を棚に上げているからです。
そういう人たちは普段から人の悪口はいっていないんでしょうか?意地の悪いことを人にしていませんか?(私は散々されていますが…)
中には悪魔に憑かれている人たちもいるようですが(自覚のある人はいくらでもいますよね。私がその耳元できこえている声は悪魔ですよと皆に教えてあげたからです)悪魔に憑かれているようでは相当心が汚れているということになります。(汚い心の人にしか悪魔は憑けませんから。心がきれいで光が出ているような人に悪魔は憑くことが出来ませんから)
なんでそんなに心が汚れているのですか?自分で自分の心を汚しているからでしょう。(人の悪口や嫌がらせなど、そのような間違った行いをし続けてです)
そういう汚い心の持ち主であるなら(その汚い心が原因となって)悪いことは起きます。それを私のせいになどしているからよけい悪いことが起きるのです。
それでは汚い心がよけい汚れるからです。(罪に罪を重ねるのですから、よけい心は汚くなります)
だいたい、この辺りの人たちなど私のブログを読んでいる人も多いのに、少しの感謝もしないし嫌がらせをするだけして詫びの一つもないのです。
そういう態度を普段から取っていて、なんで悪いことが起きると私のせいなのでしょう。
どう考えても悪いことが起きた原因は、その自分たちの普段からの行いにあるのではないでしょうか。
そのような悪い行いを悪いという自覚がなく普通に行っているからです。
そういう明らかに自分たちが悪いことをしているにもかかわらず、なお、その悪いことを私のせいにし続けて嫌がらせを繰り返している、そのような(悪に悪を重ねている)行いが、この辺りに次々に災いとなって現れているのです。
その起き続けている災いは、自分の行いが自分に返ってきているだけだからです。(善因善果、悪因悪果)
いい加減それを認め、自分のこれまでの行いを反省し、よい方に変えられたらどうですか?
そうしない限り、その起きている災いは止まらないからです。
それを責任転嫁し、どれだけ怒っていてもダメなのです。
悪いことが起きている、その原因は自分にあるからです。
そうして、中学生や小学生も同じなのです。
散々そういう子供たちも心を汚しているのです。普段から人の悪口をいったり、いじめなどしたりしてです。
そればかりでなく、家で親から毒をもらっているということもあります。(子供の前での夫婦喧嘩や人の悪口などは十分子供に毒を食わせています)
そういうことで心を汚している子供などが私に嫌がらせなどしてきた場合、一発で現象が現れます。(心が汚いため、私が祈ると即座に気づきの現象が現れるのです)
しかし、それを私のせいにするのはお門違いなのです。
親が普段から子供への愛を欠かしていなければ、私がどれだけその子を祈ろうと、そういう子供に悪いことが起きるわけがないからです。(親の愛で心がきれいになっているからです。心のきれいな子に不幸は起きません)
私に何かして(そうして祈られて)悪いことが起きた子がいるのであれば、それは親の愛がその子には足らなかったと、その子の親が自分たちの子供に対する愛の少なさを反省しないといけないのです。
子供が小さければ小さいほど親の影響は大きく子供に現れるからです。(そういうこと〔親の愛の少なさ〕まで私は教えてあげているのですから感謝してもらわないといけない。子供に何か起きたからと私に怒るのではなく、自分たちの子供に対する愛が足りなかったことを反省するのです。そうすれば奇跡は起きるからです。すべて心の持ちようなのです。その心の在り方一つで奇跡も災いも起きるからです)
どのような災いも自分たちの愛が深ければ起きませんし、愛がなければないだけ災いは起きやすくなります。
そのようなこともすべて自分たちの責任なのです。
だから、愛や慈悲を説かれ、その愛と慈悲の塊であられた釈尊やキリストには災いが起きなかったのです。
愛深く、慈悲深かった釈尊やキリストは、その災いの原因をつくられなかったからです。
このように考えるのであれば、悪いことをすべて私のせいにしている(この辺りの)多くの人たちが、いかに的外れなことをしているのかお分かりいただけると思います。
すべての悪いことは自分たちの愛が足りなかったから起きていることであるからです。
愛があるなら、私を悪人に仕立て上げることもなかったし、嫌がらせをすることもなかった、つまり災いの原因をつくることはなかったということです。(では、災いなど起きません。その原因をつくっていないからです)
しかし、この辺りの人たちは愛が足りなかったため、私に心を救われているにもかかわらず、まったくそれに感謝しなかったのであるし、きいている噂が正しいかどうかの確認もせず、一方的に私を悪人と思いこみ嫌がらせをし続けた、その結果、災いが次々に現れるようになったということです。
この災いが起き出したすべての原因は、この辺りの人たちに愛が足りなかったため(自分たちの行いを間違えて)起きたことであり、もし、愛深い人が多かったのであれば、これだけの災いは起きていなかったのです。(そういう人たちは私に対する評価も正しいものであったはずだからです。つまり間違った行いはしなかったということです)
それどころか、もし愛深い人が多かったのなら(正しい人が多かったのなら)多くの奇跡が起きたのです。
愛は奇跡を呼ぶからです。(キリストしかりです)
そういう愛深い人たちに私が法を説いたのなら、そのような人たちには一変に奇跡が現れます。
そのような(愛深い)心の持ち主がこの辺りに多ければ、今頃この辺りには多くの奇跡が現れユートピア化していたのかもしれません。
これだけ私のいうことを(法を)きいている人たちは他にいないからです。
しかし、残念ではありますが、そういう愛深い人たちがいなかった、それが現状のような悲惨な状況を現している理由であります。
すべて自分たちに愛が足りなかったから(判断を間違え)このような悲惨な状況になっているのであり、その現れている悲惨な状況は人のせいではないのです。
それをいつまで否定し我を張り続けるのですか?
その我を張り続けている間は災いは止まらないのです。



人目の訪問者です。

家内とNHKの大河ドラマ「女城主 直虎」を観ていました。第ニ話では、まだ幼少期のおとわ、鶴丸の親子のやり取りに感心していたら家内が「ドラマだね、こんな幼い子が考えることなのかね。」と言うのです。
しかし私はあり得ると思うのでした。それは時代背景を考えれば考えられる内容あであり、現代の視点で考えては到底理解不能なことなのだなぁと思うのです。環境によって子供だからこそ考察力に違いが出るのだろうと思いました。しかし、それはその時代の子が素晴らしいとかでなく、そういう環境であったということであり今の子供が劣っている分けではない。今の子供は現代の環境の中で精一杯生きているのであり未来ある素晴らしい子供達であることは間違いはないのです。親とて子供時代を過ごして来たのであることを心していなければならないと自分も振り返りながらそう思うのでした。
そうですね。しかし、現代の子供は神を知りません。(それは大人も同じですが)
神への感謝、神への畏れは、子供のうちからしっかり教えておかねばなりません。(少々厳しい態度をとってもです)
それが子供たちにとって一番の未来のためであるからです。