2月 04 2017
等しい力
ちょっと前回のブログで訂正するところがありますので書いておきます。
それは「子イルカが腹ばいで泳いでいた」という部分なんですが、あれは腹ばいではなく、腹を上に向けて泳いでいたでした。(腹ばいで腹を下に向けて泳いでいるのなら普通の泳ぎ方ですから。〔笑〕)
子イルカが、こちらを見ながら腹を上に向けて泳いでいたから珍しくて可愛かったということです。
そこは訂正しておきますが、このような愛嬌のある動物たちと違って、この辺りの人たちの私に対する怒りようといったらありません。(苦笑)
何をそんなに怒っているのでしょう。怒りたいのはこちらなのです。
何せ私の方が、そのような(怒りまくっている)人たちから一方的に嫌がらせを受けているからです。
勘違いしないでください。私が被害者で、そちらが加害者なのです。
私は一方的に嫌がらせを受けまくっているのです。それなのに何で、その嫌がらせをしている人たちがそんなに怒っているのですか?
どう考えも逆でしょう。
この辺りの人たちのやっていることは本当に何から何までおかしいのです。
何でもかんでも悪いことは私のせいにするわ、嫌がらせはするわ、それでも飽き足らず、何もしていない私に一方的に怒りまくりです。
どれだけ悪いことが起きているのか知りませんが、どう考えても自業自得でしょう。多くの人が、それだけ訳の分からないことをし続けているからです。(分かりませんか?自分たちのやっていることのおかしさがです)
それにしてももったいない話ですね。この辺り、そういう自分たちの間違った行いを正せばどれだけよいことが起きるか分からないからです。
それはこの辺りでたくさん起きている災いが教えているのです。
よく考えてみてください。
この辺り、これだけの災いが現れているということは、逆に考えれば、それだけの奇跡もまた現れるということです。
なぜなら力は一つではないからです。
一つの力が現れれば、必ずもう一つ、それに等しい力も現れて来るからです。(原因結果、作用反作用の法則をお忘れですか?)
ということは、この辺りでどれだけの災いが現れているのか知りませんが、そのような災いが現れていればいるだけ、それに等しい奇跡も現れるということになります。
法則は必ず作用するからです。
では、その災いが起きている分、奇跡もまた起きるということになりますが、何で起きないのでしょうか?
その多くの奇跡がです。
別に起きていないわけではありません。多くの災いと同じように多くの奇跡もまた起きているのです。
ただ、その奇跡の起き方が災いと違い一ヵ所に集中しています。それで奇跡が起きていると誰も気づかないのです。
災いは多くの人にばらけて起きている、奇跡は一人の人に集中して起きている、その差が、この辺りは災いばかりが起きていると多くの人が錯覚している理由なのです。
もちろん、その奇跡が集中して起きているのは私なのですが、災いに対する作用反作用の法則である奇跡の方が私にだけ集中しているものですから、多くの人がこの辺りは法則が作用していないように思っていますが、とんでもありません。
ちゃんと、原因結果、作用反作用の法則は作用しているのです。
だから心を正さないといけないと私はいっているのです。訳の分からないことをしていてはいけないといっているのです。
悪いことがそれだけ起きていれば、同じ分だけよいことも必ず起きるからです。それが原因結果、作用反作用の法則であるからです。
ではなぜ、この辺りにそれだけよいことも悪いこともたくさん起きるのか?
それは法が説かれている場所には、それだけ神のエネルギーが集中するからです。
それは釈尊が現れたインド、キリストが現れたイスラエルを見てもらえれば分かるはずです。
釈尊在世当時のインドはたくさんの奇跡が現れました。その奇跡は釈尊だけではなく多くの釈尊の弟子たちにも同じように現れたのです。
しかし、現在のインドには釈尊在世当時の奇跡など現れていません。法を説く人がいなくなったからです。
もちろんそれはキリスト在世当時のイスラエルも同じであり、キリストだけではなく、キリスト昇天後のキリストの弟子たちが起こした数々の奇跡は、多くの人が知っているはずですが、現在のイスラエルにそのような奇跡は起きていません。
やはり現在のイスラエルには法が存在しないからです。
そうして、そのような時には奇跡ばかりでなく大きな災いも起きているのです。
釈尊を殺そうとしたダイバー・ダッタ、キリストを裏切ったユダの末路の哀れさ、そうして、その当時ローマは、キリストを十字架にかけただけではなく、多くのキリストの弟子たちも迫害します。
その結果、火山が大噴火を起こしてローマは滅びることになるのです。
このように釈尊やキリストの在世当時から原因結果、作用反作用の法則は作用していたのであり、それは現在に至るも同じように作用しているのです。
だから私はいっているのです。
それだけ災いが起きているのなら、それだけの奇跡も起きますよとです。
しかし、奇跡が現れるには現れるだけの心にならないといけません。
そのような心になっているのは、少なくともこの辺りでは私だけだということです。
だから、私一人に奇跡が集中して起きているのです。
今、この辺りには神のエネルギーが集中して現れているからです。それは私が法を説いているからです。
しかし、せっかく現れた、その神のエネルギーを正しく現す(奇跡)のも、間違って現す(災い)のも、すべて本人の心次第なのです。
それでも災いが現れている人たちは心を入れ替えようとはしないのですか?
それはずいぶんもったいない話なのですね。(もうそれ以上いいようがありません。何をいってもきこうとしないからです)
追伸…どうもこの辺りの人たちは(法を説くことにより)せっかく現れている神のエネルギーを悪い方(災い)にしか使う気がないようです。
そうするとよい方(奇跡)のエネルギーがずいぶん余るということになります。(なんせ、災いを現す人はたくさんいますが、奇跡が現れるのは私一人ですから。〔苦笑〕)
他の地域の人で、このよいエネルギーを使いたい人がいるようなら連絡してください。
こちらは、これだけよい神のエネルギーが余っているのです。(何せ毎日私に奇跡が起きるくらいですから)私が祈れば、その神のエネルギーは祈った人に作用して必ず何らかの奇跡が現れると思うからです。(私の母が最近、体の調子がよくなかったんですが、私が祈ると急によくなりました。よいエネルギーがずいぶん余っていたから、そういう奇跡が起きたのですね)
よい方のエネルギーを私一人ではとても使いきれません。
下手なお寺やパワースポットなど行くより、私に頼んだ方がよほどよいことが起きます。
また何かある方は連絡してください。(メールでもなんでも結構ですから)こちらに現れているのは本物の神のエネルギーであるからです。



人目の訪問者です。

今日は午後静かな時間をとれたので心の中を整理してみました。その中の1つにで整然と動いている宇宙の中で人は本当に自由なのか考えてみました。その切っ掛けは休み明けの出勤はどうもその気にならないことが、ふとこれは間違えた心なのだという気付きの思いでした。それは自分を優先した、現実逃避のものだからです。働く事を与えられているから働くことができるのであり、与えられているという事は自らの意思で動かなければ感謝に対する行いにならないからではないえしょうか。働く働かないは本人の自由意思であることは間違いないないでしょうが積極的に取り組む事によって心が安定するのであれば、人は本来心の安定する方向にしか進めないという事によって統制されているのかもしれません。自由だと思っているのは人が勝手に考えた結果であり自ずと心を掻き乱しているに過ぎないと考えられます。先生の言葉をお借りするなら、人だけが自由にいられるのではなく不安定な世の中で法に従い進むので有れば祝福があるのであり、それが神の子である人間が反省を通し感謝と報恩の行為によって進むべき姿、と言うことではないでしょうか。
ウナッシーさん、文章が高まいすぎて今一よく分かりません。(それに誤字が多すぎませんか。マァ、私も人のこといえませんが。〔笑〕)
もう少し分かりやすくお書きください。
このコメントは他の人も見ています。どうか見本となるような文章をよろしくお願いします。(笑)