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4月 01 2017

仏壇やお経、仏像、寺の間違い

11:07 AM ブログ

前回のブログに仏壇に線香などあげても功徳にならないと書きましたが、何でこのような行いは功徳にならないのか?その理由を書いておきましょう。

亡くなったご先祖様が祀ってある仏壇にろうそくを灯(とも)して、線香をあげ、先祖を思ってお経をあげる、現在の日本の人々からすればこれだけよい行いもありません。

このような行いが功徳にならないわけがないと多くの人は思うでしょう。

しかし、このような行いは実は信仰でも何でもないのです。多くの人は、このようなことが信仰であると勝手に思い込んでいるだけなのです。

この仏壇にろうそくを灯して線香をあげてお参りする、このような風習の始まりはインドの釈尊在世当時のことです。

その当時、釈尊が説法をされる時は夜が多かったのです。

なぜ夜が多かったのかといえば、昼間は働いている人が多く、昼に釈尊が説法をしてもなかなかきける人が少ないということで、必然的に皆の仕事が終わった夜に釈尊はよく説法をされたのでした。

その釈尊が説法をされる時は夜とはいえ多くの人が集まりました。

当たり前のことですが、ブッダ(覚者)の説法は誰だってききたいからです。(また当時のインドは信仰深い人も多かったからです)

その時にです。真っ暗な夜に多くの人が一ヵ所に集まってくるのですが、もちろん当時(二千五百年前)のインドに電気が通っているわけではありませんから、歩いてくる道も真っ暗なら、その説法をする場所も真っ暗です。

しかし、いくら何でも真っ暗な中で釈尊の説法をきくわけにもいかないし(釈尊のご尊顔も拝したいですし)だいたい真っ暗では人とぶつかったり物につまずいたりして危なくて仕方ありません。

それで誰もが手にろうそくを持って、ろうそくの火を頼りに釈尊が説法をされる場所まで歩いて行ったのです。

そうして当時のインドは、蚊はもちろんですがいろいろな毒虫などがたくさんいました。(毒蛇などもです)それで誰もが体に、そのような毒虫除けの薬草を塗っていたのですが(今でいう防虫スプレーみたいなものです)その薬草がとても臭かったのです。

それで、そういう薬草の匂いを消すために誰もが香を持って、その香をたきながら釈尊の説法をきいていたそうです。

香がなければ臭くて仕方なかったからです。(あまりに周りが臭くては釈尊の説法もしっかり耳に入らないでしょうから。〔笑〕)

この片手にろうそくを持ち、もう一方の手に香をたきながら釈尊の説法をききに行った、当時のインドの人たちの習慣が日本に伝わって、そうして、仏壇にお参りする時にろうそくを灯して線香をあげるという風習になったのです。

当時のインドの人たちは、確かにろうそくと香をたきながら釈尊の説法をきき、またお参りもしたのでしょうが、しかしそれは必要にかられてそのようにしていただけで、それに宗教的な意義があったわけではありません。

今は電気もあれば、自分の体が異様に臭かったり、そういうやたら臭い人が周りにたくさんいるわけではないのです。(そういう人がいるというなら線香でも香水でもつけてくれて結構です。元々、香とはそのような匂い消しであるからです)

だから、現代にろうそくをつけたり(元々ろうそくは今の電気のかわりですから。暗いところを明るくするためにあるものですから)線香をたきながらお参りする必要はまったくないのですが、そのような当時必要にかられたためにやっていたことが、現代に伝わると、あたかもそれが信仰であるかのように多くの人たちは思い込んでいるのです。

しかし、そのような行いはまったく信仰とは関係ないものであり、そのようなやり方ではなく、要はそのしている祈りが(そのお参りする時の心の在り方が)正しいかどうかなのです。

そのように正しく祈り、行うことが本当の信仰なのであり、昔ながらのやり方をすることが信仰ではないのです。

これは、お経を上げたり、仏像やお寺にお参りすることも同じで、それが信仰であると多くの人は思い込んでいます。

しかし、これもまた大きな間違いなのです。

お経は前からいっていますが、釈尊の説法が書かれたものであり、では、それをいくら唱えても意味がないのであって、そのお経に書かれてある釈尊の説法の通りの心と行いを実践して、はじめて信仰しているといえるのであり、そのような正しい心と行いが功徳となって奇跡が起きるのです。

また寺や仏像も同じで、元々寺とは、僧たちの宿泊所であっただけであり(今の旅館や民宿、ホテルのようなものです)仏像も釈尊を直接見ることが出来なかった人たちのために、釈尊はこういう方であったと皆に知らせるために木や石に刻んで像として示しただけであり、仏像は今でいう写真のかわりであったのです。

つまり、いま信仰と思い込んで多くの人がやっていることを現代風にいいかえるなら、ホテル(寺)に人を集めて釈尊の写真(仏像)を飾り、釈尊の説法(お経)を一生懸命唱えているだけであり、そのような行いが信仰といえるのでしょうか?

こんなことはとても信仰とはいえないのです。(マァ、そういうおかしな信仰もないことはありませんが常識的に考えてです)

お経を上げることの間違いは先ほども書きましたが、ホテルでえらい人の写真を一生懸命拝むことが信仰なのですか?

それで功徳が得られるのでしょうか?

昔ながらのやり方をしているから、何かそのような行いが(お経を上げ、お寺に行って仏像を拝む)信仰をしているかのように思えますが、実際それを現代のやり方に直してみるなら、そんなものは信仰でも何でもないと分かるのです。

昔の人たちがそれを見るなら、そういうことを信仰だなどといっている方が笑われるのです。

だから私は、そのようなことをいくらしても意味がないし功徳も得られないといっているのです。

それは信仰ではないからです。

正しい信仰とは何か?それを知らなければいけない時が来ています。(本当に正しい信仰をしないと罰が当たりまくりです。この辺りは特にそれが顕著です)

早く目を覚まされてはどうでしょう。

目が覚めるのが遅れれば遅れるだけ災いが現れて来るからです。

(どれだけ自由を求めても、最後には自由を捨てて従わなければいけないものがあります。それが法〔神理〕なのです。神理に従わない自由もありますが、その自由は苦痛となり不幸となって自分に跳ね返って来ます。その苦痛と不幸な現象がいま次々に現れているのです。多くの人が神理に従おうとしないからです)

2コメント

2 コメント to “仏壇やお経、仏像、寺の間違い”

  1. ウナっしー2017/04/01 at 3:22 PM

    今日は何年か振りで手相占いに行って来ました。若かりし頃に一度行ってからですから実は数十年になるのですがね。きっかけは、最近になり手相が以前と何となく変わっている様で気にはなっていたものですから行った分けです。占いなど私は興味ないのですが、気になったその思いに機会を待っていました。そして見てもらった結果は良い手相だそうで占い師方もよほど珍しいのか何度も誉めていました。まあ、それはそれとして良いに越したことはないので嬉しいと思いました。仕事運、金運、人生運も精神的バランスも良いとのことでしたが、日常に戻りしっかりと反省を行い精進して今より向上していこうと思います。

  2. gtskokor2017/04/01 at 7:38 PM

    心が変われば手相も変わります。
    頑張ってください。

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