4月 23 2017
天の意志に従う
昨日はブログを書くには書いたんですが(どこかのバカ会社もうるさかったし)今一まとまらなかったものですから公開するのをやめました。
もういっぺん書き直しているんですが、ずいぶんどこかの会社はテンパっているようです。
昨日出て行く時、横を通ったのにシーンとしていましたから。(初めてじゃないですか、こんなこと。私があの会社の横を通ると必ず誰か彼かがでかい音を立てて嫌がらせをしていましたから)
他のところもずいぶんテンパっているところがあります。(ある会社の従業員など私が近くを通るともう血走った目で見てきて、怒りながら掃除をしていました。そこの会社は散々私に嫌がらせをしているところなのです)
いつまでも怒ったり落ち込んだりしているのではなく詫びを入れたらどうでしょう。自分たちの行いを反省し私に詫びを入れない限り、その起きている災いは止まらないからです。(どこかの運転手連中もそうですが)
もういい加減理解しないといけないのです。自分たちがいかに罰当たりなことをしているのかをです。
しかし、そういう謙虚に反省する人は増えそうもありませんね。一昨日、久しぶりに東山動物園に行ってきたんですが、その時つくづくそう思いました。
その日、東山動物園に行くともう凄い人で(特に子供が多かったです。私はゴールデンウイーク前でしたので多少はすいているだろうと思ったんですが大ハズレでした)とてもじゃないがいられないと思い(もう、そこかしこの人がちょっかいをかけてきますから)昼飯を食べた後すぐに出てきました。
その後、五時間もかけて歩いて帰って来たんですが(辻説法もしたかったものですから)私が五時間も歩いているといろいろ事件が起こります。(ほんと、事件は現場で起こりますね。〔笑〕)
一昨日もいろいろ起きて、もう辻説法をしすぎて声がかれるくらいでした。(東山動物園でも大勢の人の前でガンガンやりました。〔苦笑〕)
しかし、前回のブログに法の下で意識改革をしないといけないと書きましたが、とても無理ですね。
一昨日は改めてそう思いました。(ほんと一人じゃ、どうあがいても無理です。何をやってもいいようには取らないでしょうから。そういう〔心の悪い〕人が多いから、これだけ悪いことが起きているのでしょうから)
凄まじい嫌われようです。(苦笑)大丈夫なんですかね。あんなに私にちょっかいをかけて来てです。
癌になる人が続出したりして。(汗)
この辺りの人たちの怒りようを見ているとあながちそうならないとも限りません。
もう私は人が多いところには行かない方がいいのかもしれません。行けば、凄まじい数の人が天罰を食らいかねないからです。(マァ、辻説法をするには手っ取り早いんですけどね。いくらでもちょっかいをかけられますから)
凄い反発の仕方ですが、しかし、どれだけ反発しようが正しい方に奇跡が起き、間違っている方に災いが起きるのです。
それはどこまで行っても変わらないのです。それが善悪の目安であるからです。(一昨日もそうでした。私はどこに行っても鳥が騒ぎ寄って来るのです。それこそ東山動物園の中にいても帰り歩いていてもです。しかし、私にちょっかいをかけてくる人たちには誰一人そういう奇跡は起きていませんでした)
そうしてこれからは正しい人は残され、間違っている人は引き上げられます。
なぜなら、間違った人たちがたくさんいても結局、不幸は止まらないからです。正しい人が増えない限り不幸はなくならないからです。
そうであるなら、必然的に正しい人かそれに近い人を天は残すでしょう。
そうしなければ、この世に起きている災いはいつまでたっても止まらないからです。
だから人数が多いか少ないかではないのです。どちらが正しいか、なのです。
例えば、名古屋の人口が二百万だとして、その中の一人が正しくて後の百九十九万九千九百九十九人の人が間違っているのなら、その正しい一人の方が残され、百九十九万九千九百九十九人の人の方が引き上げられるのです。
数はまったく関係ないからです。天から観たら、その人の心と行いは正しいのか、それとも正しくないのか、基準はそれのみだからです。
だから、こういうこと(多死社会)になっているのです。
私たちは天からこの世に降ろされているのです。
では、その天の意志には従わないといけません。その天の意志に逆らうというのであれば、そういう人は当然この世からその天に戻されてしまうからです。(最終的には天上界に行くのですが、とりあえずは地獄界ですね。そういう人たちはです。この世の修行に失敗しているからです)
だから私によいことが起きているのです。私はその天の意志に従っているからです。
そういう理解をいつまでもしようとしないのです。いま悪いことが起きている人たちは、この世のことしか分かっていないからです。
しかし、天の意志もあの世のことも分かっている人たちがいるのです。
それが昔でいうなら釈尊やキリストであり、今でいうなら私なのです。それは起きる奇跡が証明しているのです。
それなのに、それをいつまでたっても認めようとせず、私に逆らってばかりいるから、そういう人たちに悪いことが起きているのであり、そういう人たちに悪いことが起きていることも、私が天の意志を話している何よりの証拠なのです。
天の意志に逆らうからそういう人たちに悪いことが起きるのです。
私に逆らっているからではありません。
それは私が何もしていないのに、そのような人たちに悪いことばかりが起きているという、その事実を知るだけでも分かるのです。
そのような人たちに起きている悪いことは私が直接手を下したわけではないのです。(ここが一番のポイントなんじゃないですか)
その起きている悪いことに、私が直接手を下したというのであれば、その悪いことは私がやっているということになりますが、その起きている悪いことは私が手を下しているわけではないのです。
私に逆らっている人たちに勝手に悪いことが起きているのです。
では、それは私のせいではなく私以外の何かが手を下しているということになりますが、それが何かということです。
それが天なのです。
その起きている現象は天の力が現しているのです。
だから、そういうことが起きている人たちは「私に逆らっている」のではなく「天に逆らっている」といっているのです。
そのような人たちに起きていることは人が手を下して起きていることではなく、人以外の何かの力によって起きていることであるからです。
それは、私に起きている奇跡も同じなのです。
人の力では出来ないようなことが実際に起きているのです。(すべての生き物を喜んで寄って来させるようなことなど人間には出来ません)
では、それは誰が起こしているのか?ということです。
人が起こせないようなことが起きているのであれば、あとは天が起こすしかないのではないでしょうか?
神は認めなくても、人智を超えた力は誰もが認めるところであるからです。(それを神とはいわないのでしょうか?)
ですから、その起きている現象が、天に従っている者は誰で、天に逆らっている者は誰かを教えているのですが、それを認めたくないばかりに(自分たちの間違いを認めたくないばかりに)多くの人が自分たちが間違えている(天に逆らっている)その罪を全部私にかぶせ、私に反発しているというのが現状なのです。
しかし、何度もいいますが自分たちが天の意志に逆らっているから災いが起きているのです。
私は天の意志に従っているから奇跡が起きているのです。
それだけの違いなのです。その考え方の違い、心の違いが、起きることにこれだけの差を現しているのです。
一昨日、東山動物園に行ってつくづく思いましたが、大人たちがいつまでも天に逆らっていると(大人たちがいつまでも悪いことを私のせいにし続けていると)その間違いは子供たちにまで伝わり、子供が私に散々の嫌がらせをして来るのです。(一昨日も子供が多かったものですからそうでした)
しかし、天罰に大人も子供もありません。法を説いている者に嫌がらせなどすれば(それは天の意志に逆らい神を冒涜していることになりますから)当然、大人であろうと子供であろうと天罰はくだるのです。
もういい加減分かりませんか?自分たちがいつまでも天に逆らっているから、これだけいいことが起きないのであるということがです。
私に逆らっているのではないのです。天の意志に逆らっているから悪いことばかりが起きるのです。
たった一人で多くの人を次々に病気になど出来るわけがないでしょう。(何度もいいますが漫画じゃないんですから)そういう人たちは天の意志に逆らっているから天罰を食らっているのです。
そこには天の力が作用しているのです。
私のいうことをいい加減、信じてはどうでしょう。いま現在、奇跡が起きているのは私一人であるからです。
ということは、天の意志に従っているのは(現時点では)私一人ということになり、私に従うことは天に従うことになるのです。
天の意志に従うなら災いは止まり奇跡が起きてきます。
いつまでも(法を知らない人がいい出した)根も葉もない噂を真に受け、我を張り続けていたところで一つもいいことは起きないのです。(現に起きていません)
これまでの行いを反省し、私のいうことに従ってください。
それが唯一の救われる道であるからです。
(面と向かって私に賛同できない人も〔この状況では私と同じ目に遭ってもいけませんから〕メールで〔電話でもいいんですが〕詫びを入れたり布施くらいは出来るはずです。〔それなら誰にも気づかれずに出来ますから〕それくらいされてはどうでしょう。自分が悪かった、間違っていたと気づいて、そういう行いを実践するなら、少なくともその人に災いが起きることはないからです。今のままでは〔特にこの辺りの人たちは〕まず悪いことが起きます。それだけの罪をすでにつくっているからです。いつまでも間違いを認めず我を張り続けるのなら、最悪ミサイルが飛んでくる、そういう大きな災いまで起きかねない状況になっているのです。すべて自分たちの心が悪かったからです。自分が救われたいのであれば、自分で心を変えることです。自力本願、それ以外で救われる道はないからです)
追伸…北朝鮮からミサイルが飛んできた場合の情報が政府から出されたそうですね。(これはいよいよやばいです)
屋外にいた場合は頑丈な建物や地下街に避難する。屋内にいた場合は出来れば窓のない部屋に移動するという話ですが、こういうのもしないよりはマシという程度ですね。(だいたい、ムスダンか何かが飛んできた場合、命中すれば一瞬で百万もの人が消えるといわれているんですから。そんなのが近くに飛んできたら、頑丈な建物も地下街も窓のない部屋もくそもないですから。〔苦笑〕)
残念ですね。法を勉強する人が増えるのなら、こういう危ない状況でも助かる道があるのにです。
こういう状況になればもうジタバタしてもしょうがないのです。(少々逃げたところで近くにミサイルが落ちたら死ぬんですから。もう威力が違いますから)
こういう時は、運を天に任せその場に座って園頭先生や上杉謙信が行ったように神を思い禅定するのです。
「神の世界は平和である」「悪はこの世界に入ってこれないのである」と神の心を想念して、自分の体の回りを黄金色の神の光が覆っているという想念をアリアリと心に描いて、心静かに禅定するのです。(心静かにというのは無理かもしれませんが〔状況が状況ですから〕そういうことをすることが大事なのです)
そういう禅定が出来れば、その人に奇跡が起きてその人は確実に助かるということになります。(ミサイルが大きく外れたり、または近くに落ちても爆発しなかったり〔不発〕そういう奇跡が起きるのです。現に園頭先生にはそういう奇跡が起きたからです)
しかし、そういう危ない体験まで出来るようになるとは思いませんでした。(戦場でもないのにです)
本当に法を知らない人が多いと(いつまでも理解しようとしない人が多いと)最悪な順序までつきかねません。
こういう状況になり誰が一番迷惑しているのかといえばです。それは法をまじめに勉強している私たちなのです。
多くの人が法を勉強しているのなら、こういう状況には絶対にならないからです。(神に守られてです)
足を引っ張っている人たちが多くて本当に迷惑です。
ねぇ、ウナッシーさん。



人目の訪問者です。

昨夜のTVをつけたら、知的障害者である有名書道家の事をやっていたので途中からでしたが観ました。私が観たところからの内容は、その方の親が一人住まいをさせたことが子供を成長させこれほど子供の可能性を出せた事の驚きと、親がストッパーとなって可能性を止めている事に気付いたというものでした。アパートで一人住まいをする書道家(氏名は忘れました)は幼い頃から知的障害者であり、友達も出来にくく独りでいる時間を退屈させないようにと親が書道の先生をやっていた事もありやらせたそうです。それで年頃になり親として子供の先々の事を考え独り立ちを思い立ったようでした。今では家に帰りたいとは思わずアパート暮らしは楽しく、洗濯物をたたんだり料理もする買い物だって一人で行くそうです。買い物に行けば幼い頃から育った商店街には顔見知りの店の人達と声を掛け合って行く姿があり、親も周りの方々のお力添えもあり感謝も絶えませんと言っていたことも印象に残っています。また料理も亡き父が好物だったハンバーグを作るのですが父の遺影に線香を手向け、父様好物のハンバーグを作ります、絶対焦がさないようにします。といって手を合わせていたシーンも印書に残りました。現在はややもすると仏壇に向い言うことは、幸せになりたいとか夢を叶えたいということが多いと思う中でこういった祈りも実践的で参考になると思いました。これを観た方はどのように感じられたのか聞いてみたくなりましたね。
そうですね。こういう方や男は一人住まいをさせた方がいいのですが、女の子は一人住まいはさせない方がいいと園頭先生はいわれていました。(あまり女の子が一人でいて遊びすぎてもいけないし、家事や育児などは家にいた方が覚えやすいからです。〔家事、育児の先生である母親がいますから〕)
皆それぞれ使命が違います。自分の使命はしっかり果たして帰りたいものです。