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4月 12 2010

祈りと布施

10:43 AM ブログ

祈りや布施というと何か抹香くさい響きを感じ、縁遠いもののように感じますが、そんなことはありません。お寺などに行って、お参りしてお賽銭を投げるのも祈りと布施の行為ですし、何かに寄付するというのも布施の一つの行為です。

しかし、この祈りや布施するという行為一つとってみても、現代の人は間違ってやっている人が多く、正しい祈りや布施の行為を行っていません。

普段無神論を言っている人が、正月に限っては初詣に行っています。無神論をいっている人が初詣に行って、一体何に対して祈っているのでしょう。神様などいないと言っている人たちなのですから、何もないところに祈っても意味がないのではないでしょうか。普段神などいないといっている人が、正月だけは神社やお寺に行って一生懸命祈っている、矛盾も甚だしいですね。しかも、十円か百円をお賽銭で投げただけで、家内安全、交通安全、よい大学に入れますように、大企業に入社できますように、よい結婚ができますように、なかには宝くじが当たりますように、という祈りをしている人もいます。

わずか十円や百円を賽銭として布施しただけで、何十万も何百万もかかることを普段は神などいないといっている人が、平気で神に祈るのです。厚かましいにもほどがあります。しかも欲望丸出しの心でです。現代の人々は、このような祈りが恥ずかしいことだとは露ほども思いません。それは現代は現世利益信仰が、当たり前のようになっているからです。

しかし、前にブログにも書きましたが、このような心で祈り、布施する行為は正しいものではありません。お返しを当てにしてする布施など布施ではなく、ただの取引です。正しい布施とは、お返しなど当てにせず、相手のことだけを思い、無償の心で布施したものだけが、神の心にかない自分の徳となるのです。もちろん金額も関係ありません。自分の分に応じてだせる範囲でだせばいいのです。

そのような無償の心でした布施こそ尊いのです。先ほどの欲望丸出しで神に祈ることが、どれだけ神の心に反する、自己中で恥ずかしい行為であるかを知ってください。

正しい祈りは(それが自分の分にあっていればですが)きかれますし、正しい布施には、それなりに自分の分に応じたお返しがあります。仕事が非常に調子がいいとか、何か運がいいとか、当てにしてない幸運が舞い込むとかしたときは、何かそれ以前によい行いをしているはずです。自分にそのような自覚があろうとなかろうと、よい結果が出たときはよい原因をつくったからそうなったのであり、逆の場合もまた然りであるということです。

正しい祈りや布施の行為にはいろいろあり、お金を出すことが不得手の人は、ボランテアでもそこらのごみを拾うでも何でもいいのです。よいことをしようとする心(祈り)と行為(布施)が尊いのであり、またお金を儲けることが得手の人は、お金を儲ければいいのです。(ただし悪いことをして儲けてはいけませんが)お金を儲けることは悪いことではありません。しかし、その儲けたお金をどのように使うかで、その人の価値は決まります。自分のためだけに使うのか、それとも一部でもいいので、世の為人の為に使のか、それも自分の判断であり、その自分でした正しい判断だけが、自分自身の点数となります。

よいことは積極的にやったほうが心の向上になり、自分自身も人として成長していきます。神は人に自由を与えられました。善を行うも悪を行うも自由です。しかし、神の心には善しかなく、神が悪をつくられたわけではありません。だから神の子である人間は、神と同じ心(善)と行いをすれば心が軽く気持ちよくなり進歩向上していきますが、それ以外(悪)の心と行いをすれば、それだけ神の心から離れることになり、心が重く懺悔の念が出てきて、心のレベルも下がっていくのです。心はそのことを知っています。しかし、多くの人はそのことにまだ気づいていません。だから「善いことも悪いこともするのが人間だ」とへんに妥協して、悪いこと(神の心に相反すること)をしてしまうのです。

正しい祈りと布施の行為は自分も進歩向上し、世の中も救っていくことになります。一人でも多くの人が目覚め、努力精進していかれることを願ってやみません。

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