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6月 11 2017

法への協力

10:58 AM ブログ

昨日のブログの(追伸で書いた)布施のことをもう少し詳しく書いておきます。ずいぶんこの辺り(朝から)お怒りの人が多いようだからです。(そういう悪い行いが災いを呼ぶのです。少しくらい私に対しいいことをしてはどうですか?朝から怒って嫌がらせしているあなた方も、このブログを読んで散々心を救われているのですから。〔笑〕)

ご近所の皆さんばかりでなく、本当に布施くらいしないと危ない人たちがこの辺りにはたくさんいます。

だから布施の仕方を書いておきます。(書くだけ無駄でしょうか。〔笑〕)

布施などいくらでもいいですしなんでもいいのです。法の流布に協力してくれることが私に対する布施ということになるからです。

例えば、このブログを読んで実践すると奇跡が起きますよと、多くの人に宣伝してくれることも布施の行為の一つであるのだし、このブログを読んで実践すると本当に奇跡が起きるのです。

では、多くの人が読む週刊誌でも新聞でもいいから、私が何か文章を書けるようにしてくれるとかそういうことでもいいのです。(多くの人の目に私の文章〔法〕がとまれば多くの人に奇跡が起きるからです)

とにかく法が拡がるよう協力してくれればいいのです。

物でも金でもいただけるのなら、それはもちろん布施の行為なのですがお金にしてもです。

例えば、年金生活の年寄りが私のブログを読んでいて、そうして布施しようとしてもお金に余裕がないので出したくても出せないと。

しかし、そういう苦しい生活の中から五百円でも千円でも、その年寄りが私に布施してくれるのであれば、その五百円、千円というお金はお金持ちが私に布施してくれる五百万、一千万というお金と同じくらいの価値があるのです。

苦しい中から、それでも法に協力するというその心が尊いのであり、何より神が喜ばれることであるからです。

しかしまあ、金がある人は金を出せばいいのだし、ない人は自分のやれることをすればいいのだし、要はそういう(法に協力するという)態度が何より大事なのであり、尊いのであるということです。

それなのに、せっかくその(なによりも)功徳を得られる行い(法への協力)を何もしようとしなかったり、あるいは本人はしているつもりでも、それが自己満足の範疇(はんちゅう)であってはならないのです。

神から法の流布に協力していると思われる範囲でないとやったことにはならないからです。

それは周りに起きて来る現象で分かります。法を伝えてもらったのなら、少なくとも一度や二度、周りに奇跡的な現象が現れるくらいの協力はしないといけないのです。

それくらいして初めて法に協力した(報恩の行為をした)ことになるからです。

だから周りで起きて来る現象が、法を伝えてもらった人に対し、報恩の行為をしているかどうかを教えてくれるということです。

ところがこの辺りの人たちは、その正反対のことをしているのです。

法に協力しないどころかじゃましているのです。これでは悪いことは起こります。

このような行為は、もっとも神が嫌がられる行為であり、神の子の人間がやってはいけない最たることであるからです。

その人間として、もっともやってはいけないことを平気でしているから、この辺りは災いが続出しているのです。(それもまた周りに起きて来る現象が教えているということです)

これほど神の怒りを買う行いもないからです。だからこれほどの恐ろしい災いを現されているのです。

こう書いて「ああ自分が悪かった」「なんて自分は恐ろしことをしていたんだ」と素直に反省してくれればいいのですが、この辺りのほとんどの人が「何をこの野郎」とか「やっているのはすべてお前だろう」くらいにしか思わないのです。

だからこの辺りは災いがずっと止まらないし増え続けているのです。

そのような心根を神はすでに知っていられるからです。(神はそのような傲慢な人たちの心をすべて見通していられます)

とにかく、このブログを読んでいながら(法を伝えてもらっていながら)何のお返しもしないのが一番いけないし、このブログを読んでいるにもかかわらず嫌がらせをするなど言語道断であり、それほど恐ろしい行為もないということです。

そのような行為は神にまともに逆らっているからです。(そのしていることの恐ろしさ、いい加減理解しませんか?それだけ恐ろしい目に遭っているにもかかわらずです)

何度も書いていますが、ここに書いてあることを実践すると奇跡が起きるのです。そうして逆らうなら災いが起こります。

奇跡も災いも神の業が現れていることには変わりがないのであり、これだけ神の業が現れる教えもないのです。

その起きていることの凄さをもう少し実感されてはどうでしょう。それが分かるのなら、自分たちがしているずいぶん不遜な行為も分かるはずであるからです。(そうして自分たちの〔神に対する〕あまりの無知さもです。多くの人は神に対しすさまじく不遜なことをしているのです。それが分かっていないというのですから無知以外の何ものでもありません。これだけの現象が現れているにもかかわらず感謝もしないし恐れもしないというのです。昔の人であるならもう土下座もんの神の業が現れているにもかかわらずです。その神の業を何とも思わないというのですから、これだけ神に対し無知で不遜な態度もないわけです)

法に協力すればするほどよい導きがあり、逆らえば逆らうほど悪い導きがついてきます。

法に協力することなどやりたくないならやりたくないで結構ですが、しかし、それでは災いは止まらないのです。

その災いは神が現しているわけでも、人が現しているわけでもなく、自分自身が現していることであるからです。

この辺りで起きている多くの災いは、法に非協力的な態度を取り続けているこの辺りの人たち自身が現していることであるのです。(そのような態度が大変な神の怒りを買ってです)

では、自分たちでその災いは収めればいいでしょう。その災いの原因をつくっているのは他ならぬ自分たち自身であるからです。

法に協力するならば多くの奇跡が起こります。

そのような大変な悪の原因をつくっている人たちは好きにやらせておき、そうでない人たちは、この法に協力願えませんか?

そうすることが、この世だけではなく、あの世も含めた未来永劫、幸せになる片道切符を手に入れることになるからです。

追伸…あの将棋の最年少プロの子は凄いですね。(中学三年生で十四歳だそうではないですか。この辺りのバカ中学生とはずいぶん違います。〔笑〕)

昨日も二連勝して、これで公式戦二十五連勝だそうですが(歴代二位の記録だそうですね)こんなデビューからのこれほどの連勝記録は、漫画や小説にも書けないような奇跡的な記録だそうですね。

本当に神がかっています。

多分、私が前から書いていますように、ああいう子は高い世界(菩薩界)から出て来たような子なんでしょう。

だからこれだけ勝てるのでしょうが、しかし、それだけではありません。

それだけであれほどの(漫画や小説にも書けないほどの)奇跡的な連勝記録がつくれるとはとても思えないからです。

あの子には誰か憑いているようです。昔のずいぶん強かった将棋指しの霊がです。(指導霊としてです。私は将棋に詳しくないのでそれが誰かは分かりませんが)

そうでなければ、わずか十四歳の少年が(いくら天才とはいえです)海千山千のプロの将棋指しの中であれ程の連勝は出来ないからです。

しかし、そのような指導霊も、今のようなひた向きで謙虚な心を忘れてしまうと離れてしまいます。(昔は神童であったが、今は凡人などという人はたくさんいますから。それは憑いていた指導霊が、その憑いていた人の心が変わることにより離れて〔憑いていられなくなって〕しまうからです)

彼のような人ほど(将棋ばかりでなく)この法をしっかり勉強しないといけないのです。この法を勉強して謙虚な心を忘れなければ、凄い記録をこれからいくつもつくることになるからです。

それもマァ、本人の心次第といったところでしょうか。

せっかくすごい資質の人が現れたのです。周りの人たちも、そのようなところ(謙虚さを忘れない)に気を配って育てていってあげてほしいと思います。

2コメント

2 コメント to “法への協力”

  1. ウナっしー2017/06/11 at 12:53 PM

    先生の言われる事が少しずつですが分かって来ました。この世は神が創られたのであり、それは何も自然界だけでなく一切の法則もであるのです。と言うことはこのブログを書かれている先生の行為も、またそれから受ける恩恵に感謝をするその行為つまりはお布施も神が作られた順序であると言うことですね。神が創られたのだからそこを通らなければもう先へは進めないと言うことになります。そこを縁ある方々に理解して頂きたいと思うのです。そして、このブログの凄いところは一貫して内容が変わらないところだと思います。これだけ長い間同じことを繰り返し言われているそのお心の内を察し、素直に受け入れられることをお祈り致します。

  2. gtskokor2017/06/11 at 1:10 PM

    その通りです。
    そういう素直な人がたくさん出て来てくれることを願ってやみません。

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