6月 29 2017
死への自覚
将棋の藤井四段が前人未到の二十九連勝を達成しましたね。
いや実に強いです。(プロデビューしてから負け知らずだというのですから)どこまで記録がのばせるのか楽しみですが、しかし、この辺りの人たちもまた藤井四段に負けず劣らず本当に強いです。
何が強いのかといえばです。こちらの人の場合、もちろんそれは将棋などではなく『我』なんですが。(苦笑)
今日など朝から(九時頃です)救急車がサイレンを鳴らしながら走って来て家の前に止まりました。(ほんと真ん前です)
そうして誰か運ばれて行ったようですが(どうも前のアパートの爺さんのようでしたが…やはり年寄りは危ないようです)こういうことが(頻繁に)起きているにもかかわらず、誰一人、私に頭を下げようとしないのです。
お前のせいと怒っているだけなのです。
なんという愚かさでしょう。いま何が起きているのかお分かりではないのでしょうか?
こういう(悪い)ことは特別この辺りに限ったことではないのです。(何度も書いていますが、もう多死社会となっているのですから)
このような救急車で運ばれる人が増えているのはもちろんのこと、前のウナッシーさんのコメントではありませんが、何か取りに行って帰ってこないと思い見に行ったら心筋こうそくか何かで死んでいたとか、トイレに入ってなかなか出てこないと思ったら、トイレの中で(脳いっ血か何かで)死んでいたとか、そういうことが頻繁に起きているのです。
全国的にです。しかも年齢にかかわらずです。(ウナッシーさんのコメントでは若い人が何人か急死したらしいですから)
そういうことが起きる時代になったのです。多死社会とはそういう時代なのです。(だから毎年死ぬ人が増えていってるんでしょう)
しかし、人の死は思えても自分が死ぬなどあまりピンと来ない人も多いのではないでしょうか。
特に若ければ若いほど死は遠くに感じるだけなんでしょうが、しかし、それは単にその自覚がないというだけであって誰も彼も確実に死ぬのです。
それこそ、いま生まれたばかりの赤ん坊から、いつ死んでもおかしくないような年寄りまでです。
性別や年にかかわらず、皆、死ぬのです。
人は誰でも生まれた瞬間、死は約束されていることであるからです。(この世に生まれたということは確実に死ぬということですから。それが遅いか早いかだけの話であり、生きると死ぬということはある意味、同義語なのです。生きるということは死への道を進んでいるということであるからです)
だからこのブログを読んでいる人、全員が死ぬのです。それもそう先ではない未来にです。
だって数年、数十年といったってあっという間のことでしょう。(一年たつことの早さを自覚している人は多いと思います。〔今年だってもう半分が終わったんですから〕では、そのあっという間の一年がどれだけ重なってもあっという間にはかわりがありません)
では、近い未来に全員が死ぬということは嘘ではないということになります。(それは感覚の問題ですが。しかし、年寄りで自分の人生が長かったなどと思う人は一人もいないということです。すべての人が死ぬ時は自分の人生は短かったと感じるのです)
それが現実なのですが、そのような中にも明日死ぬ人がいるかもしれないし、それこそ五分先、十分先に死ぬ人がいるかもしれないのです。(かもではなく、確実にそういう人は存在しているのです。去年は一年間で約百三十万人の人が亡くなりましたので、それを三百六十五で割れば一日に三千五百人以上の人が亡くなっている計算になります。では、今現在も刻々と日本のどこかで人が死んでいるのです)
縁起の悪い話ではないのです。それが現実なのです。
それなのに、その死をまるで思わずに自分の好き勝手をいつまでも続けていて本当によいのですか?と私はいっているのです。
私たちは死と隣り合わせで生活しているにもかかわらず、まったく神を思わなくてもよいのですか?と私はいっているのです。
その神に誰も死の直前になれば頼るはずであるのにです。
それが何時来るのか分からないからと、神など思わなくてもいいということにはならないでしょうし、その神の業が次々に現れているところもあるのです。(マァ、細かくいうなら日本中で現れているんでしょうけどね。だから多死社会になっているんでしょうし)
では、これほどのチャンスはないのではないですか?その誰もが最後の最後には頼る神を知ることが出来るです。
それなのに傲慢不遜な態度を取る人が多いのには呆れます。(その神に対してです。いつまでも神を無視する態度は傲慢不遜以外の何ものでもありませんから)
だから私は愚かであるといっているのです。そういう人に対してです。
そのような人たちは、いつまでも一寸先は闇だということを理解しようとせず、今の生活が永遠に続くかのごとく思い、未だ神を思おうとしないからです。
だから悪いことが起きるのです。神の業が現れているにもかかわらず、その神をまるで思わず、自分の我ばかり通しているからです。
ずいぶん災いが起きているところもあるようです。(大丈夫ですか?どこかの会社など青息吐息〔あおいきといき〕のようですが)
明日寿命が尽きる人もいるのです。周りがそうだからと、その周りにあおられ神を思おうとしなければ、自分が損をするだけなのです。(この辺りは本当に勇ましい人が多いですから。大人から子供までです。〔苦笑〕)
いま周りに多くの人がいたとしても、死ぬ時は一人なのです。そうして、その自分の死はいつ来るのか分からないのです。
真剣に神を思わなくて本当によいのですか?
後悔先に立たずです。(この意味お分かりですよね。ことが終わった後で悔いても取り返しがつかないということです)
神に逆らうくらい愚かな行為はないのです。その一番愚かな行為を続けている人がたくさんいるのです。
だから悪いことが次々に起きているのであり、そのまま、その人たちが死を迎えるのであれば、そのような人たちは確実に地獄行きなのです。(だから悪いことが起きっぱなしのまま死を迎えれば地獄行きだということです)
奇跡が起きているのは私一人なのです。(この大きな意味がお分かりになりませんか?奇跡が起きるようにならないと天上界には行けないのです。では、私のいうことをきかないと天上界には行けないということになります。年寄りの皆さんお分かりですか?)
神に対する思いをすぐにでもかえませんか?(そう奇跡が起きている私がいっているのです。だから当然私に対する思いもです。私を悪く思っていることは間違いであるからです)
自分の死がいつ来るのかは誰にも分からないからです。
追伸…ある有名人のブログに、家に泥棒に入られて、その取られた物すべてに呪いがかけてある、などと書いている人がいました。
大切な物を取られて腹が立つのは分かりますが、どんな相手に対しても呪いなどかけてはいけないのです。
そのかけた呪いは必ず自分に返って来るからです。
こういう時は「神よ、わが家に盗みに入った人に光をお与えください。安らぎをお与えください。どうぞ正しくお導きください」と祈ってあげればいいのです。(もちろんその泥棒に怒りや恨みの心など持たずにです)
すると、その泥棒が捕まり、返してほしかった物が返ってきたり、または思いがけないよいことが起きて取られた金の分が返ってきたりするのです。(それが神の導きです)
どんな相手に対しても(また、それが仮に物であっても)呪いなど絶対にかけてはいけないのであり、愛の心で正しい祈りをするのであれば、その祈りは正しく自分に返ってきます。
そのような行いこそ正しいものであり幸福への道であるのです。



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