10月 06 2017
原因は一つ
どこかの会社もお怒りですが(今日も朝から凄い音を立てているのがいます。ほんとバカです)しかし、そこらじゅうで怒っていますね。(マァ、場所にもよるんでしょうが)
昨日など、あちこちに怒り心頭という人がいました。しかも大人から子供までです。
最近は子供などもう頭を下げてきたり「こんにちわ」と挨拶して来る子もちょくちょくいるのですが、歩く場所でずいぶん違うものです。
どことはいいませんが、あの辺り相当程度が悪いです。見ていますか、昨日歩いた地域の人たち。(苦笑)また悪いことが起きていませんか?(どんな会話でしょう。〔苦笑〕)
どれだけ私を白い眼で見て嫌がらせをしたところで、それだけ悪いことが起きているということは、それだけ自分たちが悪いことをしているから、それだけの悪いことが起きているのです。
私のせいではありません。自分たちのせいなのです。いつになったらそれが分かるのでしょうか。(昨日書いた国の借金問題ではありませんが、理解しない人は本当に理解しません)
その怒っている人たちはすべてです。すべて私のブログを読み心が救われているのです。(本当の神の教えを伝えてもらって心が救われないわけがないからです)それにもかかわらず少しの感謝もせず、嫌がらせを繰り返しているのです。
そのような行いが正しい行いなのでしょうか?どこをどうとっても間違っているのではないですか。(そんなこと子供でも分かりそうですが…)
そのような(間違った)行いをしている限り、その災いは止まることはありません。
その災いを止めてほしいのなら(といっても人が止めるわけではありませんが)そのような行いを反省し、心を救われた私に感謝し、報恩の行為をしてください。
そうすれば、その災いはすぐにでも止まるからです。
何がどれだけ起こっているのか知りませんが、本当の神の教えを伝えてもらったのならです。感謝して報恩の行為をするのが当たり前のことなのです。
ところが、そういう当たり前のことをまったくしようとせず、嫌がらせを繰り返しているようでは罰が当たるのも(これもまた)当たり前のことなのです。(それだけ恩を仇で返す、不遜な行為もないからです)
そこをよく理解して、自分たちの心と行いを変えない限りは、その起きている災いは止まらないのです。
その災いは、自分たちの行いが自分たちに返ってきているだけであるからです。(もう何回これを書いたでしょう。他の地域の皆さんは申し訳ありませんが我慢して読んでください。何度も同じことを書くのは、それだけこの辺り不幸になっている人が多いからです。といういより、その不幸になる人が〔怒っている人が〕増えているからです)
本当に何度同じことを書けば分かるんですか?私が人を病気になどしているのなら、私はもうとっくに病気になり死んでいるのです。
ずいぶん多くの人を病気にしているんでしょう。私は。それが自分に返ってきてです。
因果応報です。
しかし、私はピンピンしています。(いたって健康です)そうして不幸どころか奇跡が起きているのです。(昨日も堀川に行ったらたくさん魚が跳ねて水面近くを泳いでもいました。声をかけると大喜びしていました。人とえらい違いです。〔笑〕)
怒っている人たちとはずいぶん起きていることが違うのですが、なぜでしょうか?
そういう人たちとはやっていることが違うからです。(それもまったくです)だから、違うことが返ってきているのです。(私はよいことしかしていないからです。だから奇跡が次々に起きるのです)
これもまた因果応報なのです。
何度もいいますが(ほんといい加減にしてもらえないですか)私と皆さんで起きていることが違うのは、やっていることが違うからです。
それだけの理由なのです。
この世は自分がしていることが自分に返ってくるのであり、そのような法則(原因結果、作用反作用の法則)はどこであっても、また誰であろうと必ず発生するのです。
神がそのような世界につくられているからです。
だから自分の行いを反省してくださいと私はくどいくらいいっているのです。それ以外、自分に起きている悪いことを止める方法はないからです。
その起きている悪いことをどれだけ私のせいにして怒っていたところで、そんな責任転嫁をしているだけではよけい悪いことが起きて来るのです。それでは自分の罪を増やしているだけであるからです。(だから返ってくる災いも大きくなるのです)
本当に何度もいっていますが、そのような怒っている人たちは私に感謝して布施してください。
それ以外、その災いを止める方法はないからです。
これ以外ないんです。その災いを止める方法はです。私に心を救われているのに、それを感謝しないことが怒っている人たちに災いが起きている原因であるからです。
原因はこれだけなのです。それ以外のことが原因ではないのです。
原因はこれ一つなのですから、では、その原因(心を救われた私に感謝せず嫌がらせをしている)さえ取り除けば、その災いは止まることになります。
その原因を取り除く方法が、私に感謝し布施することなのです。
実にシンプルで分かりやすいのではないでしょうか。今この辺りのそこらじゅうで起きている災いを止める方法が私に感謝して布施すればよいだけの話なのですから。
こんなことすぐにでも(また誰にでも)出来ます。まさにシンプルイズベストですね。(笑)
難しい話ではないのです。簡単な話なのです。それを勝手に難しくしているのは、その怒っている(災いが起きている)人たちなのです。
あれもこれもすべて私のせいにしているからです。だから私に腹が立って仕方がないのです。自分たちの罪を全部私に擦り付けているからです。
しかし、それは間違いであるのですから、少なくともそれだけは(自分の間違いだけは)認めないといけないのです。
それを認めない限り、私のような大悪人に頭など下げられるか、それなら死んだ方がまし、ということになってしまうからです。
しかし、そんな大悪人に鳥や魚が寄ってくるような愛ある奇跡は起きないのです。
口ではなく起きている現象がどちらが正しいのかを教えているのです。それなにの意地でも自分たちの間違いを認めようとしないのでは、あまりに心が狭いのではないでしょうか。
また人としての道に外れているのではないでしょうか。(このブログは子供たちも見ているのですが…大人たちは恥ずかしくないのですか?そういう態度を取り続けていてです)
あとは災いが起きている人たちが自分たちの間違いを認めるだけなのです。それさえ出来れば私に頭を下げることも出来るのであり、それが出来れば感謝することも布施することも出来るはずです。
私は自分が間違っているのに自分を正しいと認めろなどとも、法外な布施の金額を要求しているわけでもないからです。(そういう人の道から外れたことをしているわけではありませんが…)
私が正しいからそれを認めてくださいといっているだけであり、布施はいくらでも結構ですといっているだけであるからです。
そのどこが間違いだというのでしょうか?
もう小さな子供たちはそれを(自分が悪いと)認める子が(たくさんとはいいませんが)出てきています。
あとは大人たちなのです。大人たちがそれを認めなければ多くの子供たちも認めようとはしません。
大人たちが模範を示さなければ、多くの子供たちまで災いが起きるのです。その起きている災いは(自分たちの行いの間違いによる)天罰であるからです。
私に感謝することが出来るか、出来ないかで、その災いを止めることが出来るか、出来ないかも決まってきます。
私のいった通りのことがもう何度も起きているのです。(何でいった通りのことが起きているのに、それをきこうともしないのですか?いった通りのことが起きているということは、その人のいっていることが正しいということなのにです)
私に心が救われているのも事実なら、私に奇跡が起きているのも事実です。そうして、この辺りの人たちに災いが起きているのもまた事実なのです。
その災いを止めようとは思わないのですか?(自分だけではなく子供たちのためにもです)
もし、止めたいのであれば、正しいことを(私のいったことを)行ってください。
そうすればその災いはすぐにでも止まるからです。(そうすれば多くの人が救われるからです)



人目の訪問者です。

昨日の続きですが、なるほど教育には愛のある厳しさが必要なのですね。すると普段何気に、まっ良いか等と許す行為も相手の立場になって考え、しかもその考えには愛がなければ正しく教育できないということですね。所謂、過保護とかは良い例とでも言いましょうか。親子でさえ他人事として余計な詮索をしないような今の時代に、幼児をあやすのにスマホを与えているうような親のもとに産まれた子などは心の勉強では苦労する事も考えられますね。自分の心、子供の心、縁ある人の心を、その立場になって考えると真剣にならざるを得ません。
愛ある厳しさは必要であると思いますよ。この辺りなど神についてまるで勉強していない人たちばかりであるのです。
そういう人たちに神は厳しい修行の機会を与えています。(どこかの会社の連中など昼にも何か起きたようです。昼休みにも騒いでいたし今など午前中と打って変わって静かです。どうも恐ろしい現象が〔昼休みも何も関係なく〕起きまくっているようです)
神でさえ人に厳しい修行の機会を与えているのです。(神が与える修行はちょと厳しすぎますけどね。下手すると命を落としますから)では、人が人を教育する時にあまりに甘くしてしまっては教育にならないということになります。
園頭先生はよく物はつくり直しが出来るが、子供はつくり直しが出来ないといわれていました。
先生を蹴飛ばすような子供は、その時点で親が子育てに失敗しているのですから、先生は愛の心で、そのような間違った行いをしている子供を全力で教育してあげないといけないのです。
先生だからとはいえ、愛がないのに叩くのはただの体罰でしょうが、愛の心を持って叩くのであれば(子供があまりにひどい行いなどしている時はです)それは教育なのです。
園頭先生も母と子の研修会の時など、あまり悪さをする子供にはげん骨を食らわせていました。
少しでも先生が生徒に手を出せば体罰。そういう極端な体罰論は私は間違いであると思います。
だから最近は学級崩壊が止まらないのです。中道の教育をしていないからです。