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11月 22 2017

法が基準

10:16 AM ブログ

昨日は久しぶりに名古屋港に行ってきたんですが、その行く時の話です。

私が歩いていると何人かの中学生とすれ違ったのですが、まだちょっかいをかけてくる中学生がいるのですから、本当に呆れます。これだけ災いが起きだしたことは知っているはずなのにです。(この辺りの中学生はこのブログの愛読者ばかりですから。〔苦笑〕本当に感謝がありません。これでは罰も当たるはずです)

そういうちょっかいをかけてきた中学生がどうなるのか、それは知りませんが、それとは別にです。

最近の中学生はあれなんですね。カップルで平気で帰ってきて(二組も三組もそんな連中がいましたから)手までつないでいるではないですか。

「ハァ」と思いましたね。

ああいうことを平気でやるんですね。最近の中学生はです。(私が中学生の頃など女の子と一緒に歩くだけでも恥ずかしかったんですが…そういう発想すらないのでしょうか?今の中学生はです。純情もへったくれもありませんね)

これ問題なんじゃないんですか?まだ中学生のくせに同じ中学の同級生か何か知りませんが、学生服やセーラー服を着ているのに手などつないで帰って来るのですから。

少なくともまだ中学生くらいでカップルで帰って来るなといいたいです。まして手などつなぐなど論外です。異性にうつつを抜かしている暇があるならもっと勉強しろといいたいですね。

中学や高校くらいまでは、まだ勉強や運動を一生懸命やる年頃であるからです。

最近は、こういうことをいうと古いだの時代が違うだの(たしかにもう時代は違っていますが。〔苦笑〕)いう人も多いのですが、古い、新しいではなく、正しいか、正しくないか、なのです。

年相応というものがあります。中学生くらいならまだ友達くらいにしておけばいいのです。恋愛などその後いくらでも出来るからです。

しかし、この連中だけではなく最近の風紀の乱れはひどいものです。このようなこともまた災いが起きる原因ともなっているのですが、では、正しい基準とは何か、ということになりますが、それはもちろん法(正法神理)が基準であるということです。(人の意見などきいていたら、いろんなことをいう人がいて何が正しいのか分からないからです。しかし、そういう人たちは何の奇跡も起きていません。奇跡が起きていないということは、その人たちのいっていることはどこまで正しいのか分からないということです。それにそういう人たちのいうことをきいているからこれだけ災いが起きているのだし)

その法を説いて、次々に奇跡を起されていた園頭先生がちゃんと性の基準は書いていられます。(善の四要素)それを基準とすればいいのです。そうすれば間違いないからです。

性をなすべき時は、目的、人、時、処が正しければ、それは正しい行いなのであり、性をなすべき正しい相手である夫と妻とが、正しい目的を持って、なすべき時と場所で行うのは善で正しいことですが、なすべきでない相手と、なすべきでない時に、なすべきでない場所で行うことは悪で間違っているということです。

これが基準です。

そうであるなら、欲望だけで遊び半分で性行為を行うのはもちろん間違いですが、夫婦でもないのに愛しているだの何だのいって(これも昨日の話しではありませんが、心の低い人たちは感情が先に来るのですぐに好きだの何だのいうのです。しかし、それはどこまで本気か分からないのです)性行為を行うのも間違いなのであり、夫婦の性行為だけが神に認められた正当な(神聖な)行為であるということです。

ですから、いかにいろいろな理由をつけ男が体を求めてきても、女性は結婚するまでは純潔を守った方が(それが正しい行いなのですから)幸せになれるということになりますし、それは男も同じということになりますが、ただ、男と女では体のつくりが違います。

そうして目的と使命も違います。

だから、性行為の場合は女と違い、男は多少は許されるという部分はあります。(男はよくても女はダメというものもあれば、女はよくても男はダメというものがあります。それぞれの使命の違いにより、ある程度許されることと許されないことは違うのです)が、理想をいうなら男も女も純潔のまま結婚し、一生を添(そ)い遂(と)げるということが正しいことなのです。

だから、それを目指さないといけないのであり、今はもう婚前交渉が当たり前になり、できちゃった結婚も普通にしていますが、しかし、そういうことは正しいことではありません。(先ほどの法の基準を知ればそれは分かります)

間違ったことをしているのであれば、その反動はどこかで現れます。間違ったことを平気でいくつもして、後で泣かなければいけないことになるのは自分なのです。(当然、その間違いは自分に返ってきますから)

だからこそ、正しい行いをしておいた方がいいのです。

正しい行いをしているのであれば、その正しい行いは後で奇跡となって自分に返って来るからです。

今は、男女平等を過度にいわれ、何でも男も女も同じことをするのが正しいかのようにいわれていますが、それはまったく違います。(だから、男女平等をいう人たちに何の奇跡も起きないのです。男女平等の解釈が違っているからです)

男と女は体も違えば思想も違います。だから当然、生まれてきた目的も使命も違っています。男は男としていかに男らしく生きられるか、女は女としていかに女らしく生きられるか、それを極めた方がよほど幸せになれるのです。

男女それぞれに、それぞれにしか出来ない使命、役割があるからです。

そのような男と女の使命と役割をしっかり果たせるようになることが、男は男としての、そうして女は女としての本当の幸せであるのです。

だから、男女平等などとよく分からないことに力を注ぐより、男はより男らしく、女はより女らしく生きる方に力を注ぐことです。

そうすれば、男女それぞれに、それぞれにあった奇跡が現れてくるからです。(だいたい、男女平等などとことさらいわなくても、そんなことは当たり前のことですよね。何でそればかりいっているのか意味が分かりませんし、男と女に同じことをさせようとすること自体、無理があるのではないでしょうか。男女は体のつくりも違えば性格も違うのに同じことを同じように出来るわけがないからです。それよりも、それぞれの特性を活かした方がお互い生きるしいいに決まっているではないですか。いま男女平等をことさらいっている人たちなどきっとバカなんでしょう)

世にはいろいろな意見があり、いろいろやっている人たちがいますが、しかし、これだけ多くの奇跡が起きている教えは他にありません。

では、法を信じたらどうでしょう。

その法を信じて、法に合わせれば合わせるだけ奇跡が起きて幸せになり、法から外れれば外れるだけ災いが起きて不幸になります。

だから、何でも自由だといって好きかってにやるのはなく、正しいことをしないといけないのです。

そうしないともう次々に災いが現れる時代となっているからです。

どれだけ災いを人のせいにしたところで、自分に災いが現れれば自分が不幸になるのです。

これまでのような考え方を反省し、もう少しこの法を真剣に勉強し実践してみませんか。

日本の多くの人たちが法を実践するなら、いま現在、日本に起きている多くの災いも段々減っていくからです。

追伸…昨日の話ですが、その後、名古屋港に行って岸壁から声をかけていたら、底からたくさんの小魚たちが海面近くまで上がってきて泳いでいました。(何匹か跳ねているのもいましたが)

いわしのようでしたが、あれいわしなんですかね。

海の魚はよく分かりませんが(といっても川の魚もよく分かりませんが。ボラくらいしかです。〔笑〕)この前、名古屋港に行った時もそのような小魚たちが上がってきていましたが、本当にかわいいものです。

海に向かって声をかけているとたくさんの魚たちが出てくるというのですから。

ずいぶん静かになってしまいましたが、大丈夫でしょうか?(そういうところが多いということです。特にどこかの会社など極端に静かになってしまいました。ところどことで怒ってはいるようですが…)

モタモタしていればしているだけ不幸は続きます。

心を入れかえ、この教えを勉強するなら、このような愛ある奇跡が毎日のように起きるのです。

毎日、怒りと不安な心で過ごすのと、毎日、愛と安らぎの心で過ごすのと、一体どちらがいいのでしょうか?

くだらない我さえ捨てれば、愛と安らぎの心で過ごすことが出来るのです。

では、捨てませんか。そんなくだらない我などです。

神は、そのような人たちが間違いに気づくのを辛抱強く待っていられます。

その間違いに気づいた人から救われていくのです。

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