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10月 07 2018

奉仕・布施

10:40 AM ブログ

昨日は面白かったですね。

歩いていて嫌がらせをしてきた人に「別に、あんたらはあんたらで好きにやればいいじゃないか。正法神理など勉強しなくてもいいんだからさ。だからこちらにかまってくるなよ。でも、そこらじゅうで(日本中で)悪いことが起きているけどな」というと、みな嫌がらせしていた動きが一瞬ピタリと止まるのです。

その後、嫌がらせをして来る人もいますし、そこで嫌がらせをやめてしまう人もいますが、まだ嫌がらせをして来る人には「もう正法の世がどんどん深まっていくからな。心が汚い人たちは悪いことしか起きんわな」「自分たちの心が汚いので起きている悪いことをこちらのせいにしてくれるなよ。俺が人を病気になどしていたら俺も病気をするからな。因果応報という法則を無視した発想はやめてくれよ」「しかし、正法を実践しないでどうやって心をきれいにするの?心が汚いままならもうどんどん悪いことが起きてくるぜ」と畳み掛けていうと、もうほとんどの人が嫌がらせをやめて引いています。

私より、嫌がらせをして来る人たちの方がずっと切実ですからね。この辺りは周りの人にたくさん癌が出ていたり、トラックが激減しているのをみな目の当たりにしているからです。(日本中に起きている天変地変もそうなんですが)

しかし、このような状況でみな怖くはないのでしょうか?

トラックやバスの運転手などまだブシュブシュやって来る人がいますが、それは大変勇ましいのですが(?)どれだけそんなことをしたところで、自分たちによい事が起きてくるわけではないのです。

それに、それをされたからと私に悪いことが起きるわけでもないのです。

そういうことをすればするだけ、自分自身に悪いことが起きてくるのです。

もうそれが分かっているはずなのに、いつまでそんなことを続けるのですか?

それは、私に嫌がらせをしている人たちも同じなんですが、人に悪いことをすればするだけ、自分たちが不幸になるのです。(それももう分かっているはずです)

それなのになぜそんなバカなことをし続けるのですか?

意地ですか?

それとも感情だけで、そういうことをしているのかもしれませんが、ここまでひどいことが起きていて、もう意地も感情もないと思うんですが、怖くはないのですか?

正直なところです。

私なら怖いですけどね。それも非常にです。だって、周りに癌になる人がたくさん出ているのでしょう。

そういう体験は私にもあるからです。

あの未来の会員であった時です。毎月、会員の誰かが癌になったという話が出ていたので、さすがにそれが一年以上も続いた時は、ゾッとしました。

しかし、この辺りは、それが一年程度ではないはずです。大人から子供まで(子供までですから)よく怖くないなとちょっと神経を疑いますが(ほんと大丈夫ですか?皆さん)これだけこういう現象が続くのです。

では、この後もまだ、この現象は止まらないということになります。

自分たちが心を変えるまではです。

それでも心を入れかえる気はないのですか?こういう現象はこれからどんどん増えていくというのにです。

何度もいいますが、これから正法の世が深まって行きます。今の心のままの人たちなら、いま起きている現象はさらにひどくなります。

それはこの辺りだけではなく、日本全体も同じなのです。

起きている天変地変は激しさを増すということです。

実際、その通りのことが起きているのです。それでもこのブログを見ている人たちは心を変えようとはしないのでしょうか。

ここ何回か書いていますが、このブログを見ている人たちは、このブログを読むのは別に他の人のブログを読んでいるのとかわらない、ただ、人のブログを読んでいるだけ、心を救われても、知らないことを知っても、それは他の人のブログなど読めばそういうこともある、だから、それが当たり前なんだ、などとは思わないことです。(救われるレベルが違いますから。集中して救われているのですから)

そうして、このブログを読み、くだらないねたみやひがみや怒りの心など持たないことです。(特にこの辺りの人などです)

そういう不遜な心が、これほどの現象を自分や日本に現しているからです。

このブログを見ている人たちは、ここに書かれた神の教えに対する、少しくらいの感謝の心、奉仕の心は持つべきなのです。

そういう心がないから、これほどの現象を現されているからです。(神を怒らせてです)

こういう心になれば救われるということを園頭先生が正法誌に書いていられます。そこのところを抜粋しておきます。

1985年、一月より抜粋。

<奉仕・布施

奉仕とは「布施」である。

奉仕あるいは布施というと、多くの人は金品を奉仕し布施することだと考える。そのために、自分には人に施すべき余分の金品はないので、奉仕も布施もできないと考える。

金品を布施するのは「財施」といって、それが布施のすべてではない。「財施」のほかに「法施」がある。何一つ財産はなくとも、身体一つあればできる布施がある。

人の前で渋面(じゅうめん)をつくれば、あなたの顔を見た人は心を暗くする。いやな言葉を吐けば、人の心を傷つける。だからして、あなたの顔を見ただけでうれしくなるような明るい顔を、あなたがするのである。そうして、人をはげます言葉、やさしい言葉、いたわりの言葉、こころよいひびきのある言葉、人の心を明るくする言葉を使うのである。

重いものを持っている人があったら、持ってあげればよい。年寄りや子供を背負っている人があったら、席を譲ればよい。人からいわれない先にしてあげればよい。身体一つあればできる布施があり、思いやりがあれば心一つでできる布施があり、どんな貧しい人でも、自分が住む家のない人はいないであろう。そうすれば自分の家を、正法をきき学ぶための場とすればよい。

一番尊い布施が「正法」を知らせることである。法を伝えることは、身体一つあればできる布施である。>

こういう心と行いが出来るなら、救われていきますが(私は一番尊い布施である正法を知らせ続けているから、奇跡が起きているのです)いつまでも自分のことしかしない、考えないというのであれば、そのような人たちには、もう次々に不幸が現れてきます。

とにかくもう時代が変わってきています。そうして、この日本には本当の神の教えである正法神理が出現しています。

それに合わせた行動は非常に大事なことなのです。

(その大事さをいつまでたっても理解しないから悪いことばかりが起きるのです…ということを書いていたら大きな地震がありました。〔長野で震度四、愛知で震度三〕まだまだ、このような〔恐ろしい〕現象は続くようです)

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