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11月 05 2018

謙虚さ

10:17 AM ブログ

正法誌 1986年四月号より抜粋

<高橋信次先生の言葉

謙  虚

人はややもすると自分を過大評価しがちである。それは自分が何であり、何をなすべきかを悟っているならまだしも、地位、名誉、知識が人より優れているという理由から、そのような偏見が生まれるとすれば、その人はなかなか悟ることは出来ないだろう。

人の一生は、普通五十年、長くて百年である。だが、本当の人間の生命は、そんなに短いものではない。何億、何十億年の年齢を重ね、現在、ここにある。

人はこうした過去を持って、現在を生きているのだが、そうした長い年輪と、その短い現象界の一生とは、比べものにならないひらきがある。その短い一生の過程の中で得た知識、地位、名誉におぼれるとすれば、これほど浅薄にして、自己を偽るものはないだろう。今世の一生を点とすれば、過去世の生涯は線に相当する。線と点を比較してみてほしい。………とすれば今世で得た知識、名誉というものが、いかに頼りないものであり、夢のようなものであるかということを知ることが出来よう。

正法の智慧は、線の中に内在されている。

その智慧は現象界の知識が呼び水となることはあっても、知識そのものから生まれるものではない。点のその一生を、謙虚に、素直に、正道に基づいた想念と行為を重ねていくうちに、半ば、こつ然と現れてくるものである。

自己を過大評価し、知識におぼれ、地位に固執した生活を習慣にしてしまうということは、こうした内在された智慧をひもとくカギを、自ら閉ざしてしまうことになる。

さらにもっと具体的に、率直にいうならば、人の過去世は十人が十人、正道に学び、自分の血肉になっているかというと、必ずしもそうではないのである。正道を学んでいない人は、それに基づく智慧が出てこないのも道理ではないか。

過去世には縁があり、今世もその縁につながったことは、何よりも大事にしなければならないが、しかし、過去もわからず、実在界も知識の範囲しか知りえないとすれば、まず、現在の自分自身を、正直に、素直に見直すことがなにより大切である。

自分の心に、誰もウソはいえないはずだし、そのウソのいえない自分に立ち返り、日常生活についても、謙虚になることが、悟りを進める導因となろう。

己を知るには、まずなにはさておき、謙虚な心から始まり、謙虚な心を持ち続けることである。そうして、その謙虚な心の培養は、今をおいて、永遠に、そのチャンスは訪れてこないということを知ってもらいたい。

解 説

「謙虚」を辞典で見ると「自己の弱小、無力、罪業に対する深刻な自覚から、神の意思にあくまで従順になろうとする心」と書いてある。これは本当の謙虚の意味ではない。

謙虚の真の意味を知るためには「敬虔」(けいけん)を知らなければいけない。敬虔も辞典を見ると「うやまいつつしむこと」としか書いていない。

敬虔さと謙虚さと、この二つの心と切り離して考えられないのが「尊敬」である。この三つの言葉は一体として考えなければいけない言葉である。謙虚な心を持つ前に持たなければいけないのは敬虔な心である。敬虔さのない謙虚さは真の謙虚さではないし、謙虚さの心には必ず尊敬の念がある>

これからの時代は、特にこの謙虚さが求められます。

この謙虚に対比するものが傲慢ということであり、この傲慢な人たちに現在、次々に災いが現れているのです。

そのようなことから考えましても謙虚な心が、この時代いかに大事なのかということがよく分かるのです。

せっかくここに救われる方法を書いても、それを行わなければ絵に描いた餅にしかすぎません。このブログを読んでいるだけではダメなのです。(それはこのブログを読んでいるだけの人たちに次々に災いが起きていることでもその事実が分かります。〔この辺りの人たちや運転手連中などなど〕)

ここに書いたことを行わなければ救われないのです。

では、行ってはどうでしょう。他に救われる道はないからです。

(他に救われる道があるなら、日本中にこれだけ災いが現れているわけがないですから)

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