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12月 02 2018

正法神理の有難さ

10:37 AM ブログ

最近は引いている人がずいぶん増えているんですが(二、三日前に金山に行きましたが、金山でもそうでした。皆ずいぶん引いていました)しかし、そのような中でやたら怒っている人もいます。

何でそんなに怒っているのか(それだけ自分の周りに悪いことが起きているのか)それは知りませんが、一方的に私に怒ってくるのもお門違いでしょう。

だって、条件は同じであるからです。

同じでしょう。同じところで同じような生活をしているのですから。特別、私が安全な場所にいるわけではありません。

私もいつおかしな病気をするか分からないのです。(病気に場所は関係ありませんが)それどころか、私は(この辺りの)そこらじゅうの人から嫌われています。

だから、一番危ない生活をしているのは私なのです。

それなのに(私より)よほど安全な生活をしているはずの周りの人たちがずいぶんテンパっています。

なぜですか?よほど恐ろしいことでも起きているんでしょうか?などというとぼけたことを書くのも時間の無駄ですね。

それだけ恐ろしいのなら早くこの教えに帰依されることです。そうすれば安らぎの境地がえられるからです。

ウナッシーさんのコメントにも書きましたが(ウナッシーさんも気づいているようですが)もう自分の心に素直になってはどうでしょう。

この正法神理の有難さはすでに多くの人がお分かりであると思うからです。

それにもかかわらず、なぜいまだ突っ張っているのですか?まるで子供のようですね。(ピー・パップ・ハイスクールですか?ちょっと古いですね。今なら「今日から俺は」ですか?〔笑〕)

多くの人が、いつまでも突っ張り続けているのは、これまでのやり方を変えることが出来ないからでしょう?

ただ、それだけのことなのではないでしょうか。

くだらないプライドが、これだけ危ない状況になっても、それでもまだ本当の神の教えに対して、突っ張るという愚かな行為をさせているのです。

無神論の人たちは、これまで神など存在しないと、宗教などやっている人は心の弱い人だと、散々、神や宗教の信者の人たちをバカにした手前、今さら神を認めて、神に頭を下げることなど出来ないということなのでしょう。

これまで信仰をしてきた人たちは、そのしてきた信仰を捨てることが出来ないということなのでしょう。

そうして、この辺りの人たちは、これだけ病気なる人が出ていて、何で今さら自分が悪かったと認めないといけないのかと、自分がよい悪いにかかわらず感情的にそれを認めることが出来ないということなのでしょう。

しかし、どんな都合であれです。もう、これほどのことが(これまで起きたことがないような現象が)次々に現れてきているのです。

いつまでもそのようなことにこだわり、大局を見ようとしなければ不幸にしかなりません。

これまでの(小さな)こだわりは捨てるべきでしょう。そうしない限り、救われる道はついてこないからです。

そのようなことは、みな小さなことではないのかもしれませんが(その人、その人に取ってはです)しかし、この教えを勉強するなら、そのような考えがみな小さな考えであったと分かるのです。

自分たちの小さかった考えは後で分かるのです。それだけ大きな教えであるからです。

この正法神理というものはです。

もうこの教えをやるほかないと、このブログを見ている多くの人たちは分かっているはずです。

では、その心に(いい加減)従ってはどうでしょう。それが唯一の(本当に)救われていく道であるからです。

無神論の人たちも、間違った教えを信仰している人たちも、この辺りの人たちも、心の面から見たら、みな似たようなものなのです。

大して変わらないのです。

迷える衆生という点では同じであるからです。

どれだけ表面上はよい生活をしていても、心の中では必ず迷いがあるからです。(あるでしょう。ないですか?)

その迷いをなくし、心を進歩向上させるのが、この本当の神の教えである正法神理なのです。

これまで神を認めず、宗教をバカにしていた人たちも、その人たちはただ唯物無神論という教えを信じ、それを信仰していたにすぎないのです。

間違った唯物無神論教という教えを信じて、それを信仰していた哀れな信者にすぎないのです。

間違った信仰をしている人たちと一体何が違うというのでしょうか。

だから、迷うのです。間違った信仰しかしていないからです。(何でも信じ行っていることを信仰というのです。特別、宗教だけを信仰というのではありません。金しか信用しないという人は金の信仰者であり、科学しか信用しないという人は科学の信仰者であり、何も信用しないという人は、何も信用しないということを信仰している信仰者なのです。そういう信仰がみな間違っているから迷うのです)

そうして、この辺りの罪をみな私にかぶせて怒っている人たちもそれはまったく同じでしょう。

いつまでも間違った考えでいるから救われないのです。

正しい考えを(信仰を)持つまでは救われないからです。

私は、昨日もまた不思議なことが起きました。

昨日は堀川に行っていたのですが、堀川沿いを歩いていると最初は静かであったのですが、そこにいるカモメたちに声をかけていたら(お前ら元気か?とかです)そのうちに川面がザワザワしてきて「ン?」と思っていたら、なんと、そこにカモメが数十羽もいるにもかかわらず、そこらじゅうで魚が跳ね出したのです。

考えられますか?

カモメが数十羽も飛んだり、浮かんだりしているその川で、多くの魚たちが水面まで浮かんできて、あちこちでバシャバシャ跳ねているなどということがです。

しかし、昨日はそういうことが本当に起きたのです。(ほんとビデオで撮っておきたかったです。その不思議な場面をです。私がいる間じゅう魚たちは跳ねていました。カモメに一切かまわずです。幸いその魚たちをカモメが捕ることはなかったんですが)

だから私は、同じように堀川の川沿いを歩いていた人たちに声をかけたんですが(歩いてきたオバちゃんたちに「カモメがこんなにいるのに魚がバシャバシャ跳ねてるぜ。オバちゃん凄いことが起きている」とかいってです)しかし、そのような不思議な現象にこの辺りの人たちは無視を決め込み、川を見ようともしません。

それどころか、怒って嫌がらせをしていく人まであるのです。

こういうことをしているようでは救われるわけがないのです。

素直に神の奇跡に感動できない、意固地になって奇跡を奇跡と認めようとしない、なんと小さく哀れな人たちでしょう。

このような現象はもう一生見ることがないかもしれないのにです。(昨日、川沿いを歩いていた人たちは年寄りが多かったですから。この人たち、先も短いでしょうから。〔苦笑〕)

神に対し、正しい考えで正しい行いをするなら、このような奇跡が次々に現れてきます。(これこそ正しい信仰です)そうであるなら、そのような人に災いが現れることはないでしょう。

神の奇跡が次々に現れるということは、神の光が常にその人に降り注いでいるということでもあるからです。

そのような神の光が常に降り注いでいる人は、常に神の守られているということであるからです。

いつまで、心と裏腹な行いをし続けているのですか?これだけ奇跡が起きてくる教えを勉強したくない人がいるわけがないではないですか。(やらない時間がもったいないです)

しかし、この教えを勉強できる時間は限られています。(とりあえず、この世にいる間だけですよ。しっかり勉強できるのはです)

一歩踏み出されたらどうでしょう。そのような行いが、迷いを消し、心を進歩向上させるからです。

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