12月 09 2018
正しい祈り、奇跡の起こし方
改正入管法、改正水道法、そうして改正漁業法などなど続々とおかしな法案が成立していますが、そのような日本の行く末も心配なんですが、とりあえず名古屋の行く末が心配です。
最近は顔を引きつらせて怒っている人が、相当、多いからです。
歩いていると顔色が悪い人をよく見かけますし、皆さんおかしな病気になっているのではないかと心配なんですが、これだけ車が減ってくると平常心ではいられないというのが本心なんでしょう。(そりゃそうなんでしょうが)
しかし、これほどの現象を私一人のせいにしますかね。よく考えてみてください。
これだけ走る車が減っているということは、皆それこそ病気か何かになっているんですよね。しかも軽い病気などではなく、相当重い病気か、または、最悪、死んでいる、ということも想像できるはずです。
軽い病気か何かで、一時いないだけなら、これだけ車が減ることはないはずだからです。
しかし、ここまで走っている車が減っているということは(昨日もガラガラでした)例えば減り方が激しいトラックなど、そのトラックの運転手が重い病気か、あるいは死ぬ人まで出てきているから、ここまでトラックが減っていると思うからです。
仕事がなくて減っているわけではないんでしょう。(どこも忙しそうですし)それか最近、トラックの運転手連中が大量にやめたとか、そういう理由も考えにくいですし、では、重い病気か何かになって(大けがかもしれませんが)それでトラックに乗れなくなった人が大量に出ていると考えた方が当たっているのではないでしょうか。
軽い病気か何かなら(たいした理由でないのなら)これだけ急激にトラックが減るなどということもないと思うからです。
これだけ車が減って、増えてこない(前のようにならない)のは、何か相当な理由がなければならないと思うからです。(トラックの皆さん、いま起きていることの本当の恐ろしさを正しく理解していますか?相当やばいはずなんですが…よく私にまだブシュブシュやってますね。自分の身は大丈夫なんですか。〔汗〕)
いつまでも現実を見ようとせずにいてよいのですか。これほどの現象が実際に現れているにもかかわらずです。
多くの人たちが次々に重い病気になり死んでいるのかもしれないのです。本当に滅ぼされつつあるのです。この辺りの人たちなど特にです。
それでも本当の神の教えを無視するのですか?
これほどの現象を私一人のせいにし続け、自分たちの行いを正そうとはしないのでしょうか?この辺りで、このブログを見ている人たちはです。(この辺りだけではなく、他も同じであると思いますよ。こちらではこれほどの現象まで起きてきているのです。もう何が〔どんな悪いことが〕どこに起きても不思議ではないからです)
この本当の神の教えを理解しないともう本当に危ないのです。いい加減それを理解されたらどうでしょう。自分たちの無理解な態度が(神に対してです)どれだけ危ない現象を現されているのかということをです。
そのような災いばかりが起きてい人たちの中にいても、私には次々に奇跡が起きています。
なぜ、私には奇跡が起きるのか?
もう少し奇跡も起きないと、これだけ災いが多くては本当に日本が滅ぼされてしまいます。ですから、その奇跡の起こし方を、園頭先生が書かれている正法誌の中から抜粋しておきましょう。
1987年一月号より抜粋
<高橋信次先生のことば
祈りについて
問 祈りについて……。その必要性はありますか。どのような効果があるのでしょうか。
答 あの世、実在界(天上界)では、祈りという想念はありません。なぜないかといえば、行為が祈りとなっているからです。いうなれば、現実の生活と理想とが一つにとけ合っているからです。調和されています。
ところが、人間が肉体を持ち、地上の生活をする段になりますと、現実と理想のくいちがいが、毎日の生活の場において出て参ります。このために、肉体を持った人間は、どうしても祈らずにはいられぬように出来ております。一つには、地上の人間は10%の意識で生活し、天上界は90%の意識で毎日を送るための違いといってもいいわけです。一寸先がヤミですから、祈る心のわくのも当然であります。
さて、そこで、ではその必要性があるのかどうかです。これは大いにあります。
祈る自分は10%の意識です。祈られる相手は、自分を守り続けている守護霊であり、指導霊であります。
想えば、想われるで、守護、指導霊にたいして、絶えず、心を向けていれば、守護・指導霊は守りやすく、指導しやすくなります。守りやすく指導しやすくなれば、その人の毎日の生活は、安心と喜びに満ちてきます。当然の帰結です。したがいまして、10%の意識で生活する地上の人間にとって、祈りは、欠くことのできない生活の重要な行事の一つとなります。
次に祈りの効果です。これは重要です。
祈りの本質は、10%の表面意識が、守護・指導霊の住む己の90%の潜在意識に投げかける光りの橋です。守護・指導霊は、常に10%の意識で修行する現象界の人間にたいして、道を外さぬように見守り、指導していますので、10%の意識が思いを向ければ、祈れば、いつでも手をかし(光りのかけ橋)てくれるからです。
ただ問題は、その祈りが、自己保存のためか、調和のためかによって、大きな差が出て参ります。普通は、誰しも、病気や家庭不和、事業不振が出てこないと祈る気持ちはわいてこないようです。ですから、最初はそれも仕方がありません。しかし、本当の祈りというものは、現実的な幸、不幸ではなく、現在、生かされているそれ自体に感謝することであり、その感謝の想いで、日々の生活を行じることが大切です。
人間は、生かされ、生きていくものです。だが、調和の心で生きていく、という自覚が出た時は、感謝の気持ちが報恩の行為となってきます。いうなれば10%の意識と90%の意識が同通したことを意味します。その時こそ、人は、真の安らぎを得、環境も、健康も整い、天命のままに生きることになります。
天命に生きるということは、自分が地上に生まれてきた目的、使命が分かり、それに向かって生き続けることをいうのであります。
私たちの祈りも、ここまで高めたいものです。
解 説
正法は自力だから祈ってはならないと考えている人がある。
自力だからこそ、祈らなければならないのである。
キリストは「求めよ、さらば 開かれん」「求めよ さらば 与えられん」といわれた。
正しい祈りと、そうでない祈りと、どこが違うかというと、その「求める」心、姿勢が違うのである。
この世とあの世は相互に連係されている。人間は生まれてくる時に、すでに指導霊、守護霊があって、指導霊、守護霊は、求めによって指導しなければならないことに仕組まれているのである。しかし、生きている本人が求めてもいないのに、また、求めていても、その求めていることが、本人の魂の向上にならないと思う場合は、絶対にその祈りは実現しないのである。
求めてもいないのに、一方的に与えることはその人の自由を妨げることになる。それは丁度、腹も減っていないのに、ご飯を食べろと無理矢理に口に押し込むようなものである。
「求める」ということは自力である。赤ちゃんは泣くことによって母親に訴える。泣くとおっぱいがほしいのだなと分かって、おっぱいを与えることになる。泣いて訴えないと母親はおっぱいがほしいのかどうか全く分からない。赤ちゃんは切実におっぱいがほしくなって泣くのである。その「泣く」のは自力である。「祈る」のは自力である。するとお母さんはおっぱいを与える。それは他力である。
だから「自力の極に他力がある」のである。その人が祈って求めると、その祈りが実現することがその人の魂の向上になる場合は、守護霊、指導霊があの世(天上界)から協力してくれて実現するのである。
だから「人間釈迦」第一巻一一九頁にも、次のように書かれているのである。
「正しき生活行為、つまり調和に向かって努めている時には、その願いごと、祈りはたいてい叶えられる。正しき「祈り」は、次元のちがったあの世の天使の心を動かし、その願いを叶えてくれるからだ。
この意味から「祈り」は天使との対話であるといえる。奇跡は、こうした「祈り」によって起こるものである」と。
ここで注目すべきことは、
「つまり調和に向かって努めている時には」と書かれてあることである。
調和に向かってであるから、まだ完全な調和になっていなくてもよいのである。調和に向かって努力していればよいのである。夫婦が調和しようと思う切実な心があって、一生懸命に努力しているが、まだ時々ケンカしていてもよいのである。
クヨクヨ、イライラしていてもいいのである。なにも完全に調和しきらなければ祈ってはならないということはないのである。
泣きながら、悔しいと思っていても祈ればよいのである。
調和に向かって努力する心もなく、ただ欲望だけで祈ることはいけないのである。他力本願がいけないというのは、自分は何の努力もせずにいて、また、切実に必要でもないのに欲望だけで、まるで神仏を、自分の欲望を満たしてくれる下男か下女みたいに思って、あれこれと祈って、祈りをきいてくれるのが神仏の勤めだと思うような心がけがいけないのである。
私の人生は祈りの連続である。もうこれ以上は自分の力ではどうにもならないと思う時ほど真剣に祈った。その祈りの時の心得が、キリストが祈りのはじめにいわれた。
「み心ならば……」ということである。
「その祈りが実現することが、すべての人の幸せにつながることでありましたら、どうぞこの祈りを実現せしめてください。
もし、それが実現することが、ふさわしくないのでありましたら、祈りは実現しなくてもよろしゅうございます」
という心が大事である。それを「全托」というのである。
他力信仰の教団が説いているような、自分は何の努力もしないで、ただ自分勝手な欲望で祈ってあとはお任せするというのは本当の全托ではないのである。
正法は自力だというので、祈ることは何か悪いことのように思って祈らない人があるようである。
正法だからこそ、切実に祈らなければならないのである。
(中 略)
祈ることによって奇跡は起こるのであって、祈りのないところには奇跡も起こらないのである
>
少しはお分かりいただけるでしょうか。なぜ、私に奇跡が起きるのかということがです。
それは正しい(自分の欲望だけではない)祈りをよくしているからです。
高橋先生は、祈りはあの世の天使との対話であるといわれました。
だから、祈りをよくしているということは、あの世の天使(守護、指導霊)と対話をよくしているということであり、あの世の天使と対話すればするだけ(祈れば祈るだけ)あの世の天使たちはその祈ってくる人を守りやすく、指導しやすくなるということですので、だから、私にはよく奇跡が起きるのです。
園頭先生の人生も祈りの連続であるといわれているのです。そういう人に奇跡は起きてきます。
もう自分ではどうにもならないことが次々に起きだしているのです。こういう時に祈らないで、では、いつ祈るのでしょう。
今ほど正しい祈りが大切な時はないのです。(あの世の光りの天使との対話が大切な時はないのです)
まだ、調和されていないとか、クヨクヨ、ムカムカ、していてもいいのです。正しい方向に向かい(それは調和する方向であり、ケンカする方向ではありません)正しい祈りをされるならです。
その心に(正しい方向に向かっているという)あの世の光りの天使たちは報いてくださるからです。
そのような祈りもしないで、ただ責任転嫁しているだけ、それでは救われようがないのです。



人目の訪問者です。

家内が、子供に対し言うのです。私、言っちゃいけないと分かっているんだけど、勉強のことになると感情が入ってきつく当たるんだ、と言って来たのです。確かに普段から見ているとそういう傾向なのです。親として言うべきことはあるにせよ、知恵を使って子供を生かす言葉を使うことが望ましいと感じました。しかし、やはり家内も心の中では分かっていることを教えてくれました。あとは、私が家内への感謝を通して神の子の祝福を祈りを日々実践するのみです。
そうですね。園頭先生も子供は褒めて育てた方がいいといわれていました。
祈りは様々な奇跡を現してくれます。頑張って実践してください。