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1月 08 2019

祈りの効果

10:49 AM ブログ

えーと、正月休みは終わったんですよね?

こちらは走っている車の量が正月とさほど変わらないので、よく分からないのです。

それでかどうか知りませんが、あちこちでチマチマ怒っている人が多いですね。怒っていてもしょうがないのにね。もう、こういう状況になってしまっているのですから。

今さら人のせいにしていたところでどうにもならないでしょう。これだけ車が減っているということは、もう相当危ないということだからです。

危ないことが次々に起きていなければこれだけ車は減らないでしょう。事実は事実です。それをどれだけ私のせいにしていたところで、その危なさは変わりません。

人のせいにするだけ無駄なのです。(私一人でこんなことやれっこないんだし)

しかし、そうはいってもこの辺りは責任転嫁の権化の人たちばかりです。(自分たちの罪は絶対に認めず)

だから私に八つ当たりして、怒っている人ばかりなのでしょうが、昨日でも神社でお参りしている人が歩いているとちょっかいをかけてきました。(人に嫌がらせしながらお参りしているようでは、お参りしている意味がありません。ほんと呆れます)それでいってやりました。

「おっちゃん、そんな意味のないことをしていても癌になって死ぬだけだぜ。ここに本当の神の教えを説いている者がいるんだから、こっちに頭を下げて、お賽銭でも寄付してくれないと救われないぜ。いつまでそんなことしているの。正法の世はドンドン深まっていくぜ。責任転嫁ばかりしていて滅びても知らないからな。責任転嫁ばかりしている心の汚い人たち。本当に滅びても元気で」とです。

あちこちで、そんなことをいって歩いていましたが、今のような状況を考えたらです。いつまでも同じ態度でいるのなら、そのような人たちはもう災いが現れてくるだけなのです。

この教えに帰依される以外、救われる道はないのです。

それがまだ分からない。本当に哀れな人たちばかりなのですが仕方がありません。そういうこの教えのすばらしさをいつまでたっても理解しようとしない人たちのために、もう少しこの教えのすばらしいところを書いておきましょう。

例えば、元旦の原宿(渋谷)の暴走事件の犯人など、車で人をはねるだけでなく(軽自動車で八人もはねたそうですが)灯油まで積んでいて、その灯油を高圧洗浄機でまくつもりだったそうですね。

この犯人は車ではねた人を殺そうとしていたそうですから、灯油を洗浄機でまいて人を焼き殺そうとでもしていたのでしょうか?

どちらにしても恐ろしい考えです。まさに悪魔の発想ですね。(この犯人は自分の部屋から、たびたび大声がきこえてきていたそうですから、その悪魔が来ていたのでしょう。完全に憑かれています)

しかし、このような悪魔の発想を持っている人であろうと、正しい神の祈りの前には変わらざるをえないのであり、このような人でも、神に祈りながらこの正法神理に従って正しい指導を行うならば改心させることは可能なのです。(時間はかかるでしょうが)

この正法神理の祈りで、犯罪者でも変えられるという具体例を正法誌から抜粋しておきましょう。

1987年、十二月号より抜粋。

<「あの人の心が変わってくれますように」という祈りは実現しない。それはその人の人格の侵害になるからである。

「あの人が私を好きになりますように」「夫が(妻が)こうなってくれますように」「子供がこうなってくれますように」このような祈りはくたびれ損になるのである。

なぜなら、こういう祈りは常識的にはよいように見えるが、実際は、神に波長が合わないのである。「あの人が(あるいは夫か妻)」と祈る時の心の中には、必ずその人の悪い状態が描かれているからである。例えば「子供をよくしてください」という時には「子供のこういうところが悪いから」という思いが必ずあるはずである。神の世界には本来「悪」はないのである。だから「悪」をありと認めて、それを神によくしてくださいと祈っても、神が悪を創造されたのではないから、悪をありと認めて祈る祈りは神に波長が合わないのである。

それならばどういう祈りをすればよいか。

「あの人は神の子である」「わが夫(妻)は神の子である」「わが子は神の子である」などという祈りをするのである。

昭和三十年二月、私が生長の家の本部講師として一番最初に行ったのが長野県であった。

(中  略)

菊池というパン屋さんに泊めていただいた。その時、菊池さんが三千二百円のパンを買って金を払わない男がいる。この男から売掛金をもらう方法はないでしょうかときかれた。今はパン一個が百円するが、その頃は一個十円の時代だから、三千円分のパンというと数が多い。

「あなたは神の子である。あなたはパン代をひっかけるような人ではない。あなたは完全である」という祈りをしなさいと教えた。

それから二ヶ月して菊池さんは警察から呼び出された。「警察に呼ばれるような悪いことをしたことはないが」と心配して行かれた。

すると一枚の写真を見せられて「この男はあなたの家の親戚か」といわれる。「違います」といったら「おかしいな、この男はあなたの家のパン代は払ったというが本当か」「はい、二ヶ月前にもらいました」その男はパン代を持って来た時に「どうしてもおじさんところのパン代だけは払っとかないと気持ちが落ち着かない」といって来たというのである。これが「念の感応」即ち祈りが通じたのである。

「この男がどうかしたんですか」ときいたら、電機屋、ふとん屋、呉服屋などから何十万と取り込み詐欺をやっていたというのである。

警察官がいうには「あんたんところの三千円のパン代くらい、どうということないのに、それを払ったというからおかしいんだよなあ、おかしなこともあるもんだな」と。

祈りによってもう返って来ないと思っていた貸した金が返って来たという人はほかにも多い>

この菊池さんという人は、園頭先生に教えられた祈りをすぐにされたのでしょう。そうしたら、その三千円分のパン代を払っていなかった男がそのパン代を持ってきた。

その後、警察から呼び出されて分かったことは、この男は多くの取り込み詐欺をしていた詐欺師であったということです。

しかし、そういう詐欺師でも、正しい祈りの前には考えを変えざるをえないのです。

その正しい祈りとは「この詐欺師を正しい人にしてください」などという祈りではなく「あなたは神の子である。神の子は完全である。神の子はよいことしかしないのである」という祈りであって、その人の悪を認めず、善しか思わないという祈りなのです。

そういう祈りをすると、その祈りをしている人に対し悪いことをしている人は、悪いことをしていることが恥ずかしくなって、抜粋した中に書かれてある「おじさんのところのパン代だけは払っとかないと気持ちが落ち着かない」という風になるのです。

こういう祈りをしながら、正しく指導していくのなら、どういう人も変わらない人はいないということです。

なぜなら、すべての人は神の子であるからです。

元が神の子なのですから(悪魔の子ではなくです。だから分かりやすくいうのなら、悪の心とは神の子である私たち人間の一時の気の迷いということです)神の心に従って正しい祈りと正しい指導をしていくのなら、どういう人であろうと最後には、その神の子に戻るということです。(もちろん、その人の悪は、その人だけではなく周りの影響を受けている場合も多いですから、その周りの人たち〔例えば親の影響など〕も同じように変えていかないといけませんが)

いい加減、この教えのすばらしさ、偉大さが分かりませんか?

こういうことが可能なのも(どういう悪人も改心させることが出来る)この教えがあるからこそなのです。(他の教えでは無理でしょう。こんなことはです)

どちらにしても今の考え方を変えずにいるなら危ないだけなのです。特にこの辺りはです。(ずいぶん神の業が〔個人的に〕出ているようですから)

もう、本当の神の教えを知らなければいけない時がきています。

その時を無視するなら滅びるしかないのです。

追伸…「あの人が私を好きになりますように」という祈りも実現しない、というのは少々残念ですね。(笑)

誰だって好かれたい人の一人や二人、いるはずだからです。(笑)

あの人が私を好きに…と祈るということは、私のことが好きではないということが前提となります。(つまり第一念がそういう思いであるということです)そういう前提ではそれは好きになってくれません。

第一念がその祈りを支配するからです。

しかし、そういう祈りをするよりもです。自分を好きになってほしい人がいるのなら、自分を磨くことです。(もちろん心をですよ)

そうして、心からいい女、いい男になれば、黙っていてもその人は自分を好きになってくれるでしょう。

そういうことは祈りで叶えるのではなく、自分の心の向上で叶えるものなのです。

益々、この教えをやらないといけないのではないでしょうか。この教えを実践し心が向上するなら、恋愛まで成就するからです。(笑)

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