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1月 13 2019

愛も慈悲もなし、無為無策(むいむさく)

10:43 AM ブログ

この辺りの皆さん、大変なことが分かりました。このままでは滅ぶそうです。早く心を入れ替えてください。

そうしないと本当に滅びます。

などと書いても、誰も心を入れ替えないんでしょうね。この辺りの人たちはです。

しかし、怒ってどうにかなるような状況ではないのです。

あまり感情的に怒っているとかえって危ないですよ。(ほんと、そういうような人ばかりですから)そういう人たちにもういつ危ない病気が発症するか分からないからです。

この辺りは、次々に、そのような危ない病気が発症しているようであるからです。

これほどの状況であるにもかかわらず(前回も書きましたが)年寄りは皆と一緒になって怒っているだけだし、坊さん連中は全然人を救う気がなさそうです。

本来なら、このような(神の業が次々に現れる)状況になった時、年寄りや坊さんがいわないといけない「もう神に逆らわない方がいい」とか「こうなったら神の意志に従おう」とか「こういうことが起きだしたのなら神を恐れないといけない」とか、そういう的確なアドバイスをする人がいません。

では、誰もそのような態度は取らないでしょうね。私が何をいってもこの辺りの人たちは誰一人きかないからです。

このような状況で(人に対する)愛もなければ慈悲もない、無為無策、これではドンドン人はいなくなっていくでしょう。

これだけ神の業が現れているというのに、まったく無反省で、自分さえよければそれでいいという、無慈悲な態度を取り続けている人ばかりであるからです。

それでは恐ろしい現象は止まりません。そのような態度では神の怒りは増すばかりであるからです。(それだけ自分勝手な人ばかりであるなら、それはそうでしょう)

しかし、せめて坊さんなどが、このような状況を打開するため、例えば、何日もお経を上げ続けるとか、滝行をするとか、護摩行でもいいでしょう。

多くの人のためにと、そのようなことを愛や慈悲の心から行うなら(そのような行い自体は正しいものではありませんが)神はその愛と慈悲の心を喜ばれ、恐ろしい現象も少しは防ぐことが出来るのでしょうが、そういうことをする坊さんはいません。(いないでしょうね。そういう坊さんたちがいれば、少しはそこに奇跡も起きてくるからです)

それは坊さんだけではありません。年寄りもそうだし、親が子のことを思ったり、子が親や家族のことを思う愛の心があるなら、それなりに奇跡も起きるのですが、そのような奇跡が誰も起きていない。

そうであるなら、そのような人のためにと愛や慈悲の行為を行う人がこの辺りにはいないのでしょう。

だから奇跡も起きないし、災いがドンドン増えるのです。何度もいいますが無慈悲な人たちばかりであるからです。

誰も、愛もなければ慈悲もない、そうして無為無策であり、特に最近はやけくそのような態度を取る人も多いのですが(もうどうにもならないので、感情的に怒っているだけ)しかし、それでは救われないのです。

こういう時こそ、愛と慈悲の心を出して、周りのことまで考えていかないと救われる道はついてこないのです。

まだ分かりませんか?

なぜ、私にだけは奇跡が起き続けているのかということがです。

不思議ではありませんか?

このような(凄まじい)状況になっても、私には、いまだに歩いていると鳥は騒いで飛んでくる、魚も同じように寄ってくる、動物園など行けば、動物たちがみな私にかまってくる、なんでこんな愛ある現象が私の周りにだけは起き続けているのですか?

皆さん方と違ってです。

この辺りの私以外の人たちの周りには、愛のない災いばかりが起き続け、私の周りには、逆に愛ある現象ばかりが起き続けている。

この違いはなんなのでしょう。何でこうも起きてくることに差があるのですか?

それどころか、まったくま逆のことが起き続けています。その違いはどこからくるのでしょうか?

それが先ほどからいっている「心と行いの違い」なのです。

私は(皆さん方にどう思われようが)人を救うことに一生懸命なのです。(そうして先々のことも考えています)

そのために(人を救うために)このブログも書いて、祈りもし、辻説法もしているのです。

私のこのような行いはすべて人を救うためであり、自分のためではありません。

そうして、していることも正しいのです。(皆さん方はそれを認めませんが)

それが事実であるから(そのような愛と慈悲の心から発した正しい行いであるから)愛ある奇跡が私の周りには次々に起きてくるのです。

善因善果、悪因悪果、因果応報、その通りの法則が働いているからです。

しかし、この辺りの他の皆さん方の態度はどうでしょう。

もう先ほどから書いている通り、人のことなど知らない、自分さえよければいい、悪いことは責任転嫁、気に食わなければ嫌がらせと、愛も慈悲もない、間違った態度の人たちばかりです。

そのような心と行いの違いが、起きる現象の違いとなって現れているのです。

何度もいいますが、それだけなのです。

それ以上でも、それ以下でもありません。その心と行いの違いが、起きてくる現象の違いとなって現れているのです。

どれだけ多くの人が私のことを否定しようと、周りに起きてくる現象の違いは、その一点(心と行いの違い)なのであり、私のいっていることが正しいから、書いた通りのことが起きているのです。

多くの人が私を誤解しているようですが(特にこの辺りの人たちは)私に人を病気にしようという心が少しでもあるなら、もうとっくに私は病気になっています。

しかし、私には奇跡しか起きていないのです。このことが、私には人を病気にする心などないという何よりの証拠なのです。

私が人を病気しているのではなく、この辺りの人たちの心と行いが悪いため、この辺りは多くの人が病気になっているというのが正しいのであり、それをこの辺りの人たちがいつまでたっても認めず、私に一切の責任を押し付けているのが、この辺りの災いが止まらないすべての原因なのであり、だから、その正しい原因を認めて反省しない限り、この辺りで起きている災いは止まらないのであり、そのようなことをしっかり考え、そうして愛と慈悲の心を出さないと、もうこの辺りの人たちは救われないのです。

愛も慈悲もなく、無為無策では救われようがないからです。

少しは私を見習ったらどうでしょう。(現実逃避して責任転嫁ばかりしているのではなくです)そのような(勇気のある)人から救われていくのです。

2コメント

2 コメント to “愛も慈悲もなし、無為無策(むいむさく)”

  1. うなッシー2019/01/13 at 11:17 AM

    先週は色々有りましたがその一つ。会社の上司はカッとななると自制心が無くなり支離滅裂なしかも一方的な怒り方をする方なのです。その方が朝礼で同僚が放った言葉にカッとなり、いつものように怒り始めたのです。私は最初の一声で分かったのでその瞬間に「また始まった、いけないね」と思った約10秒後に変化が起きたのです。言葉は相手をたてて自分の考えとを織り交ぜ、最後は同僚が放った言葉を認めたのです。凄いことが目の前で起きたとそのことが頭からは暫く離れませんでした。そうして迎えた午後は自分に怒りが向けられましたが、やはり最後は私をたてて事のなりを終えたのでした。その日に二回も同じことがあり看過出来ないと思いました。その晩の反省で、もしかしたらその変化は多々経緯はあろうが、私の日々の祈りによって現れた現象なのではないのかと心に浮かんできました。だとすればこれは素晴らしいことであり私自身がもっと素直に神に心から感謝すべきと思いました。

  2. gtskokor2019/01/13 at 1:31 PM

    ウナッシーさんの祈りがきかれているんでしょう。それを教えられたのです。二度同じことが起きることによってです。(しかし、凄い人が上司なんですね。〔苦笑〕)
    祈りは私たち法を実践している者の最大の武器です。ガンガン正しい祈りをしていきましょう。
    そのような祈りと正しい行いが世の中を変えていくからです。

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