1月 22 2019
レベルの違い
やたら怒っている人がいますね。(しかも何人もです。〔苦笑〕)
前回のブログのせいだと思いますが、私が歩いていたら、家の雨戸をガッタン、ガッタンでかい音を立てておもいっきり閉めている人はいる。洗濯物をでかい音を立てていれている人はいる。そうかと思うとシャッターをおもいっきり閉めている人もいましたね。
オバちゃんばっかりでしたが多士済々です。(笑)
人のブログを見てそれほど怒るなら、見なきゃいいのにと思いますが、分かっちゃいるけどやめられないのが私のブログなのでしょう。(笑)
その反面、私の顔を見て頭を下げていくオバちゃんもいました。
同じオバちゃんでもえらい違いですが、こういうところに心のレベルが出るのです。
この前のブログなどこの辺りの人たちを正しく言い表しているのでしょう。
それで自分たちの行いを反省した人は、私に頭を下げるのでしょうが(こういう人は比較的、心が高い人です)本音をつかれて感情的に怒りまくっている、雨戸やシャッターなどをおもいっきり閉めていた人たちなど、まだまだ、心が低く反省など出来ない人たちなのです。
こういう人たちは、このブログを読んではいけないのです。
このレベルの人たちでは、この教えをまだ正しく理解できないからです。だから、少し本当のことを書かれただけで感情的になって怒ってしまうのです。
まだまだ、心のレベルが低くく、自分の悪いところを素直に認めて反省できないからです。
そういう人に本当の神の教えを伝えても、結局、今回のように少し本当のことを書かれただけで、とたんに腹を立ててしまい、かえって自分の心のレベルを下げてしまいます。
それではこの教えを知る意味がないのです。
だから、釈尊は「人を見て法を説け」といわれたのであるし、キリストは「豚に真珠を与えるな」といわれたのです。
そういう人たちにはまだ法を説いてはいけないと戒めていられるわけです。
だから、前回のブログを見て怒っているような人は、このブログを見てはいけないのです。そのような人はまだこの教えを知るレベルではないからです。(よかったですね。怒っていたオバちゃんたち、自分たちの心のレベルが分かってです…こんなこと書いたらよけい怒るでしょうが。〔苦笑〕)
だから、そういう人はこのブログを見ない方がいいでしょう。そのような人がこのブログを読み続けても、結局、不幸にしかならないからです。
それは、この辺りの人なら誰だって分かるはずです。今いなくなっている運転手連中や不幸になっている人たちなど皆それであるからです。
自分たちがまだ私のブログを読むレベルではなかったのに、読んで腹を立てて私に嫌がらせなどしてしまい、その結果、不幸になる人が続出しているのです。
私のことを知らなければ、そのような人たちは、今ほど不幸にはなっていなかったでしょう。
何か不幸なことが起きても、よいことも悪いことも起きるのが人間であると、自分勝手に納得し、それですましていたはずです。
そうしてたいして幸せでもない、不幸でもない、進歩のない生活を続け、一生を終えたのです。
そういう生活が当たり前であると、人の人生などそんなものだと、勝手に決めつけて、そうして死んでいったのです。(そのような人たちは死んでから百パーセント後悔しますが)
しかし、私を知り、この教えを知ったばかりに、そのような人たちも、そういう当たり前の人生が間違っていたと、人生とはそういうものではないのではないかと理解まではしなくても、疑問くらいは出てきて、そうして私に次々に奇跡が現れてくるものですから、それを素直に認めることも出来ず(自分たちのこれまで考えてきた人生とあまりに違うため)くだらない意地を張って私に逆らい続け、そうして次々に不幸になっているのです。
だから、いっているのです。
そういう心のレベルの人たちがこの教えを知ってはいけないとです。
よけい不幸になるからです。心の低い人が、この最高の教えを知るとです。まだそこまで自分の心のレベルが達していないからです。(まだ小さい幼稚園児や小学生に大学の勉強を教えるようなものだからです。幼稚園児や小学生が大学の勉強をしても理解出来るわけがありませんし、ついてもこれません。だから不幸になるといっているのです。理解できない、ついてもこれないものをきいていても不幸でしかないからです)
とはいえです。では、こちらがそのような低い心の人たちに合わせて、法を説かなかったらよかったのかといえば、これはまったく違うのです。
こちらが法を説かなかったら、もっと不幸になる人が出るのです。法を知らないまま一生を終えることくらい不幸なこともないからです。
それに、この教えを学んでくると約束して生まれてきている人もたくさんいます。(この時代、そういう人の方がはるかに多いでしょう。正法の世は、それほど心の低い人はもう出てこれないからです)
要は、その正しい教えをちゃんと理解して、どれだけ自分の心の向上をはかれるかが勝負なのであり、その教えを自分が知ろうが、知るまいが、それは自由なのでありますから、お前がこんな教えを説くからいけないなどと、トンチンカンな泣き言をいって不幸になっている人たちなど、論外であるということです。
だから、いってはいけませんが、この辺りでこのブログを読んで不幸になっていっている人たちなど、まったく話にならない(ダメな)人たちであり、問題にするだけ時間の無駄であるということです。
私のブログなど、読もうが、読むまいが、自由なのであり、それを気にしようが、気しまいが、それも自由なのであり、それを行おうが、行うまいが、それも自由なのであり、自分でどうとでも出来るはずであるからです。
私は強制などしていないからです。(私が何をいって〔書いても〕このブログを見ているほとんどの人はきかないでしょうが。〔苦笑〕)
しかし、この教えを実践して奇跡が起きることだけは確かなのです。
それは私を見てもらえれば分かるでしょうし、ウナッシーさんのコメントを見ても分かるはずです。
だから、そのような心の低い人たちはともかく(こういう人たちは何をいってもききませんから)前回のブログを見て反省できるような人たち(こういう人たちは心が高い人たちです)そういう人たちにいっているのです。
このブログを無視したり、逆らったりしている人たちは確実に不幸になっていくのです。それはこの辺りの人たちを見ていれば分かるはずです。
しかし、この教えを実践する人たちは違うのです。この教えを実践すればするだけ奇跡が現れて幸せになっていくのです。
奇跡が次々に現れているのに、不幸になるわけがないからです。
私たちには、なぜ、これだけ奇跡が現れているのか分かりますか?
それは私たちがいっていることが正しいからです。そうして神の心に叶っているからです。だから、そこに神の力が現れてきて、奇跡が起きるのです。(正しいだけではダメなのです。どれだけその正しいことが神の心に叶っているのか、それが奇跡が現れるか、現れないかの違いなのです。正しいことをいっている人は他にたくさんいます。しかし、そのような人たちになぜ奇跡が現れてこないのか?それは、そのいっていることが、神の心に叶っていないからです)
奇跡は人が起こすのではありません。神が起こすのです。人の力に神の力が加わらなければ奇跡は起きてこないのです。
ということは、その神の奇跡が次々に起きてくるということは、その人のいっていることは正しく神の心に叶っているということなのであり、では、それをするべきなのではないですか。
正しく神の心に叶っていることをすることこそ、神につくられた、神の子の人間としての正しいあり方であるからです。
そうして、正しく神の心に叶ったことをしているのなら、奇跡も起き、死後は天上界にも往けるのです。(これもまた正しいことだということです。間違ったことを書いているのなら〔天上界など存在しないのなら〕奇跡が現れてくることはないからです。正しいことを書いているから、こういうことを書いても変わらず奇跡が起きてくるのです。その書いていることが正しく神の心に叶っているからです)
この教えを知っていながら、無視して死んでいった人たちはいま現在、地獄にいます。(そういう人たちはすでにたくさんいるのではないですか。ここ数年でずいぶん亡くなった人も多いですから)
生きている人だけではなく、そういう人たちのためにも、生きている人たちは、この教えを学んだ方がいいのです。この教えを学び、この教えの流布に協力するのなら、そのような地獄にいる人たちをも救うことが出来るからです。(そのような行いが、地獄にいる人たちを救うのです。これもまた奇跡です)
生きている人も、そうして死んでいる人も同じように救えるのがこの正法神理なのです。
いつまでも、この教え(正法神理)を無視していてはならないのです。
心のレベルの高い人たちであるなら、その重要な意味は分かるはずです。
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追伸…今度は新宿の歌舞伎町で発砲事件ですか。(撃たれた人は死亡したそうですが)
最近の東京は物騒ですね。
特にあの辺りは(渋谷から新宿にかけて)前回も書きましたが、元旦の車の暴走事件や暴走事故、爆発事故など、危ない事件や事故が続いています。
渋谷から新宿にかけてのあの辺りは、いろいろな人がいて、オカマバーなどもたくさんあるようで、まるで、旧約聖書に出てくる(同性愛者がたくさんいた)ソドムとゴモラの町にそっくりです。
そういうところはいいことが起きないでしょう。
早く、そのような霊域の悪い場所にもこの教えを伝えないと、災いがこれからは頻発することになります。
そのような兆しがすでに現れているようです。
益々この教えは重要になってきますね。



人目の訪問者です。

この私に最強の敵が現れたのです。今日の仕事で下手を打ってしまった私は当然のことながら指導して頂いている方やお世話になっている方に注意を受けました。これまではそのような事があっても周りでサポートしてくれましたが、今回も同じようにサポートしてくれるのです。これには大変頭が下がる思いと、返って申し訳ないと思う位の下手を打ったのにです。それからです、私の中で何故下手を打ったのだろうとか、何がいけないのか。そんな疑問に悩まされた終業間近に浮かんだ言葉が、周りは許しても己は絶対に許さない、そんな言葉だったのです。そうなのです、最強の敵とは私自身ということなのです。これを書いている今は一通りの反省を終え再確認の意味合いも含めているわけですが、それを気付かせて頂いた意味は深いものであると更に心は神へと向けられようとしている、そんな導きを感じます。
そうですね。その調子で頑張ってください。