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11月 22 2019

心のきれいさ

11:23 AM ブログ

昨日の話です。金山に行ってきたんですが(辻説法をしに)すさまじい怒り方をしているところがありましたね。

私が近くを歩いていたら、もう町中にきこえるようなでかい音をガンガン立てるのだから驚きました。本当にバカじゃないかと思いました。

そこはマンションか何かを建てている大きな工事現場なんですが、一週間ほど前にそこを通るとガチャガチャやってきたのです。

それで私が、そんなことをすると悪いことが起きると、如来の教えを説いている者に嫌がらせなどしていたら罰が当たると、くどいくらいいったのです。その連中にです。

しかし、その連中はやめませんでした。そのようなくだらない嫌がらせをです。

だから私は、それなら何が起きても知らないと、罰が当たっても知らないからなと、何か悪いことが起きたら、それは天罰だからこちらのせいにはしないでくれよと、これもまたくどいほどいったのです。

そうして一週間ぶりにそこを通るとこれです。

本当にバカじゃないかと思います。私は何度もそれをいい(罰が当たると)実際その通りのことが起きているのに、自分たちの態度はまったく反省しようとせず、ただ起きたことだけを(どうせ癌か何かになった人がいるんでしょう)怒っているのです。

あれではまた出ます。このようなことをしている人たちは、私のブログを読んでいても感謝もせず、自分たちの行いをまったく反省もせず、怒って嫌がらせをしているだけの人たちであるからです。

こんな理不尽で傲慢な人たちが、このようなバカな態度を取り続ける限り罰はまだまだ当たるのです。

高橋先生のご著書に次のようなことが書かれてあります。(前にも書きましたけどね)

高橋先生のお名前が(ご著書と共に)売れだした頃、ある宗教家がそれが面白くないからと、高橋先生に呪いをかけようとガンガン祈っていたそうです。

そうしたら、その祈っている最中に、その呪いの祈りが自分に返って来て自分がひっくり返ってしまったそうです。

それであまりに苦しいので高橋先生に電話で救いを求めたという話なのですが、これでは笑い話にもなりませんね。(苦笑)

自分の呪いで自分が倒れてしまっているからです。

つまり、こういうことが起きるということです。私に嫌がらせなどすればです。

これは特別、私にだけ起きるわけではありませんが(高橋先生にも起きているのですから)正法神理を実践している者たちはみな心がきれいなのです。

そのような心のきれいな者に、怒りや憎しみの心で嫌がらせなどすれば、それは、その人を呪っているのと同じです。(その念の強さの違いはありますが、似たようなものでしょう。そのような悪い念を人に発しているのには変わりがないからです)

では、同じことが起きるのです。高橋先生を呪ってひっくり返った宗教家とです。

そのような念が全部自分自身に返ってくるからです。

心がきれい者は悪い念など受けつけません。心がきれいな者は心が鏡のようになっていて、悪い念を心のきれいな者にどれだけ発しても、それは全部発した人に返ってしまうのです。

しかし、普通の(心が汚い)人たちは、そういう念をすべて受けてしまいます。心が汚くては悪い念も跳ね返すことが出来ず同化してしまうからです。

だから、普段は人に嫌がらせなどしても何も起きないのです。その悪い念がすぐに自分に返ってくることはないからです。その念を相手がそのまま受けてしまい、相手が苦しむことになるからです。

それは周りにいる人たちも自分同様、心が汚い人ばかりであるからそうなるのであって、自分の周りに一人でも心がきれいな人がいるなら、こういうことは起きるのです。

その心のきれいな人に嫌がらせなどすればそれが自分に即座に返り自分が苦しむのです。

心がきれいな人は、その悪い念を受けるということはないからです。

その通りのことが、私と私に嫌がらせをして来ている人に起きているだけなのです。

私に嫌がらせをして来ているそのような人たちは、多分、普段からそのようなことをしているのでしょう。(少し気に食わない人がいるとすぐに嫌がらせするみたないことをです)

そうであるならもうずいぶん心は汚れていることでしょう。悪いことをすればするだけ心は汚れていくからです。

その汚い心でです。他の人たちと同じように私に嫌がらせなどすれば、その汚い心から発せられた強い念がまともに本人自身に返ってしまいます。

だから、人によっては(私に嫌がらせしたばかりに)癌にまでなる人がいるのです。自分の心がそれだけ汚れているからです。

その自分の心の汚れに自分自身がやられてしまったということです。

そういうことが実際に起きるのです。私に嫌がらせをして罰が当たった人は(正確にはそれは罰ではなく自分の念が自分に返っただけなのですが)この辺りにはごまんといるからです。

そういう人たちにきけば分かるでしょう。その人たちの多くは、私のせいで病気になったというはずだからです。

しかし、それは違うのです。自分が発した(私に嫌がらせをしたため)汚い念が自分自身を病気にしたのです。

だから私に嫌がらせをした人がどれだけ病気になろうが、私自身が病気になることはないのです。

その人が病気になったのは、私のせいではなく自分のせいであったからです。

そういう人がこの辺りはたくさんいますが、それは高橋先生がご著書に書かれていたことが実際に起きているだけだと知るべきでしょう。

単に私はそれを証明しているだけなのです。高橋先生のご著書に書かれてあることは正しいとです。

この辺りは、他にもそのような誤解をしている人がたくさんいます。(私が人を病気にしている、お前のせいで病気になったなどとです)

しかし、それは心がきれいか汚いか、その差にすぎないということを知るべきなのです。心のきれいな者に嫌がらせなどすれば、それが即座に自分に返り、自分が反省させられるということです。

そのような病気になったのは、自分の心が汚れていたため(心と行いが悪かったがため)それで病気になっただけであり、その心を正すなら、その病気は治るのです。

その汚い心をきれいにするため、自分の心と行いを正す時が(正さなければいけない時が)もう来ているのです。

その自分の心が汚いせいで、ドンドン病気になっている人たちがこの辺りにはたくさんいるからです。(というか、日本中にたくさんいます)

そのような人たちは心をきれいにするなら、そういうことは起きないし(急に病気になるようなことは起きないし)仮に病気になっている人でも早くよくなるということです。(まあ、コロッと逝ってしまってはどうしようもありませんがね。昨日も女優さんが急死したニュースが流れていましたが、それもまた心がきれいならそういう死に方をすることもなかったのです)

周りはともかく(こちらがこの状況では〔もうドンドン出ているようです。どこかの会社などです〕周りの人に合わせていたら自分も病気になってしまいますから)自分だけでも心をきれいにしませんか。

そうしないともはや日本中に危ない現象が続出しているからです。(心をきれいにするなら、すべての悪を跳ね返すのです。心がきれいな者は悪を受けつけないからです。ということは心がきれいなら、どんな悪からも〔災害などからも〕守られるということです)

心をきれいにするにはこの正法神理を実践するしかありません。

この教えを実践するならこのような効果もあり(悪いことをして来た人に即座にその悪いことが返り反省せざるを得ない)やればやるだけよい結果が現れくるのがこの教えなのです。

実感してみませんか?この教えの凄さをです。

しかし、やらないともう危なくて仕方ないのです。(心が汚いままではです)そういう時代にすでになっているからです。

次々に危ない現象が現れて来ています。もうくだらないことを(嫌がらせなどのです)している場合ではないのです。

私は様々な正法神理の正しさの証明をしています。この教えを信じ行ってみませんか?その行った人から救われて行くからです。

(理不尽なことをしている人は世にたくさんいます。身近にもたくさんいるはずです。〔自分の仲間、会社、学校、近所、エトセトラ〕自分の心がきれいになるなら、そういう人たちも変えることが出来るのです。自分の心がきれいなら自分に横暴なことをしてきた人には、即座にそれがその人自身に返り、その人が反省させられるからです。そういう人に変わりませんか?そうすれば自分の周りの人たちも大きく変わってくるからです)

2コメント

2 コメント to “心のきれいさ”

  1. ウナッシー2019/11/23 at 6:37 AM

    私が過去の園頭先生のご存命中に実践していた時と、現在実践していることの違いを自分なりに反省してみました。何故か?それは現在の方が神理を勉強するには難しいのであるのに、その現在の方が明らかに心の変化があるからです。そしてその答えは、自分の心と向かい合っているのか?私の場合そう言うことであったのです。
    あの頃も、心行を連日拝読し反省をしては神に感謝する実践していました。なのに何故変わらなかったのか?それは、心行は神の子である自分の魂にその事を呼び覚ます為にあげるのに対し、拝読することに心を合わせておったのであり、反省と感謝は、それを実践している自分に陶酔していたことであったのです。それでは当然変わることはないきとは明らかです。その自分が縁あって現在に至っているのであり、そのことを忘れずこれからも進んで参ります。感謝・感謝です。

  2. gtskokor2019/11/23 at 11:41 AM

    園頭先生が亡くなられてもう自分でしなければいけないという、絶対自力のその感覚がより増したのでしょう。
    そのような自力が奇跡を呼んだのです。
    私がそのきっかけを与えたのなら幸いですね。

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