11月 15 2011
三人よれば舎利弗の智慧①
昨日発売されたプレジデント(これってビジネス誌じゃなかったですか?)にブッダとキリストの言葉を載せていて、ブッダとキリストの特集記事が組まれているようです。いろいろな人がブッダとキリストの言葉を解説されているようですが、その真意はともかく(その人たちは法を知らないんですから、百パーセント正しく解説しているわけではありませんが)ブッダやキリストの言葉が多くの人に知られるのはいいことです。
最近はブッダがブームだそうですが(ブッダがブームってどういう意味でしょう?)世間でそのようなことを言い始め、またこのような(釈尊やキリストの)特集記事まで雑誌で組むようになったということは、いよいよ法の拡がる時が来たのかもしれません。私がコツコツブログを書いてきた影響も少しはあるのかもしれませんが、いずれにせよ、もう正法の時代に入っています。法が拡がらなければならない時はすでに来ています。
しかし、特にブッダ(釈尊)の物語(仏典)など、釈尊滅後、三~七百年後くらいに書かれたものばかりですから、すべて正しいことが書かれてあるわけではありません。中には間違ったことも書かれてあります。
その間違ったことを仏典に書かれてしまったため、現在においても間違った言われ方をしている典型的な例を一つ書いておきましょう。
よく“三人よれば文殊の知恵”といわれます。
しかしこの言葉は、釈尊の教えがインドからシルクロードを通って中国にわたり、日本に伝わるまでのあいだの一つの弊害であり、このような言い方は明らかに間違いである、ということを、これから説明したいと思います。
釈尊在世当時(今より約二千五百年前)釈尊の一番の弟子であり、右腕と呼ばれていたのはシャリー・プトラー(舎利弗)でした。
もちろん、そう呼ばれるだけの智慧と実力が当時の舎利弗にはあり、釈尊の信頼はもちろんのこと、釈尊の他の弟子たちや周りの人々も舎利弗の実力を認め、舎利弗は釈尊の弟子たちの中でも一目置かれる存在でありました。
それは舎利弗を上根(上等の素質)の弟子、目蓮・迦葉(もくれん・かしょう)を中根(中等の素質)の弟子と、仏典に記されてあることでもその事実が分かります。(目蓮は舎利弗と並び釈尊の二大弟子といわれた人ですし、迦葉は釈尊入滅後の釈迦教団を率いた人です)
当時の釈尊の弟子たちのトップ3の中でも、舎利弗は飛びぬけた資質であったのです。
この舎利弗を筆頭に目蓮、迦葉、阿那律、須菩堤(モンガラナー、カシャパー、アニルダ、スブティーという古代のインドの人々の名を、中国に釈尊の教えが伝わった時、漢字で当て字にしたのです、シャリー・プトラー〔舎利弗〕も同じです)といわれる人々は、インド当時の釈尊の弟子たちの中でも、特によく釈尊の教えを学び、その教えを多くの人々に拡げられたのでしょう、それが後に釈尊の十大弟子という呼び方をされるようになり、尊称を持って後世に伝わることになります。
この十大弟子は当時の釈尊の弟子たちの中でも特に秀でた人々であったのです。
ところがこの十大弟子の中に文殊は入っていません。(もちろん普賢もです)
現在の日本で“三人よれば文殊の知恵”といわれるほどの人物が、なぜ十大弟子の中に入っていないのでしょうか?
理由は簡単です。文殊はそれほどの弟子ではなかったからです。
その証拠に釈尊入滅後の九十日目に行われた、第一次の結集(けつじゅう・釈尊の弟子たちの中でも、よくその教えを実践し何らかの霊能力〔霊視、霊聴などの霊力を持ち阿羅漢の心を得た人たち〕を得た者ばかりを集めて、釈尊の教えを正しく守り、正しく後世に残そうと話し合った集まり、約五百人の人が集まったといわれますが、この方々が後に五百羅漢という呼び方をされるようになるのです)に文殊は参加していません。
文殊は阿羅漢の境地にまだ達していなかったからです。(阿羅漢とは心の高さを言葉で表したものです。阿羅漢、菩薩、その上が如来であり、如来になればもう慈悲と愛の塊の心しかありませんが、菩薩は慈悲と愛の心を持ってはいますが、如来ほどの深さ広さはなく、阿羅漢の境地はそのもっと下です。しかし、この阿羅漢の境地まで達するといくつかの霊能力が与えられます。普通はこの阿羅漢の境地に達するだけでも大変なのです)
では、何で阿羅漢の境地にまでも達していなかった程度の弟子が、後世に名が残ったのかということですが、それは釈尊が入滅された後、五百羅漢の弟子たち以上に、文殊は大言壮語を言いまわったということです。
当時は現在のようにテレビもなければ新聞もありません、ただ人々に話して聞かせるほかないのです。五百羅漢の弟子たちのいないところで「あの人たちはああ言っているが、私は釈尊からこう聞いた」「本当の禅定はこうするのです」などという口からでまかせを、あちこちで言いまわったのです。(普賢も同じです。この普賢も「普賢三昧」〔ふげんざんまい〕と言われ、いわゆる行者の代表のように見られていますが、十大弟子でもなければ第一次結集にも参加していません。文殊と同じように「我こそは仏法の本流を説く者である」と、でかいことをあちこちで言いまわり、それが後世に伝わり、後に普賢のお経までつくられることになったのです)
当時のインドの人たちは、釈尊の弟子といえば、皆よく法を理解している人たちばかりであろうと思っています。弟子の誰が正しくて誰が正しくないかなど分かりません。それで五百羅漢の人たちの言うことも後世に残ったのですが、こんな文殊のような程度の低い弟子の言ったことも後世に残ることになったのです。(普賢も同じ理由です)
しかし、五百羅漢と文殊(あるいは普賢)を比べれば明らかに文殊が下であり、同じ釈尊の教えを話しても、五百羅漢の人たちの言う釈尊の教えの方がより正しいものであり、文殊が言う釈尊の教えなど、自分の考えも入れたでたらめなものであったのですが、当時のインドの人たちはその判別がつきませんでした。
それで五百羅漢の弟子たちも偉いが文殊も偉いということになり、後世には十大弟子よりも文殊の方が上である、という言われ方までするようになります。
それが次のような話となって伝わっているのです。



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