3月 27 2020
神理の恩恵
昨日は金山の辺りに行ったのですが、電車の連中は相変わらずお怒りでしたね。
ファンファンファンファンやかましいことでした。もうオーバーシュートが止まらないのでしょう。癌のです。(違いますか?電車の運転手の皆さん)
それは、この辺りはもちろん(どこかの会社の連中も今日も朝からお怒りです)トラック連中も同じなのです。
今のまま心を変えないのなら、そのようなオーバーシュートは止まらないのですが、こんなすさまじい状況であっても、それでも態度を変えませんか?傲慢な態度を続けるのでしょうか?
この辺りでこのブログを見ている多くの人たちはです。
そのような人たちはずいぶん長いこと、そんなすさまじい災いが起き続けているようなのですが(ほんとよくやります。怖くはないのでしょうか?この人たち)もう折れたらどうでしょう。
自分たちが悪いのはすでに明白だからです。その起きていることがそれを証明しているからです。
自分たちが正しいことをしていれば正しいことが起きてきます。それだけ悪いことが起き続けているのです。それは、それだけ自分たちが悪いことをしているという何よりの証拠でしょう。
だからもう頭を下げたらどうでしょう。(頭に血ばかりのぼらせていないでです)
私に頭を下げて、もう嫌がらせなど二度としませんと誓って、そうして神理を見ていることに感謝して布施するなら、その罪は許されます。
それをしたらどうでしょう。それをするなら災いはすぐに止まり、そういう態度を続けるなら周りに奇跡も現れてくるからです。
何せ皆さんは、曲がりなりにもこの神理を読み続けているのです。その恩恵は多少なりともあるはずだからです。
しかし、やれっこありませんか。そんなことはです。そんな屈辱的なことをするくらいなら(なぜ屈辱的なのかよく意味が分かりませんが。自分たちが悪いことをしているのにです)死んだ方がマシですか。
しかし、そのまま死ねば確実に地獄行きです。後悔すると思うんですけどね。後で死ぬほどです。
神理に従っているウナッシーさんにはちゃんと奇跡が起きているのです。では、従った方がよいのではないですか。その方が幸せになれるからです。
いつまでも意地をはっていたところで、一体それが何になるのでしょう。危ないだけではないですか。そうして不幸になるだけではないですか。
もう真剣に考えてはどうでしょう。いま起きていることをです。(現実逃避ばかりしていないでです)
これほど多くの災いが、これほど多くのところで現れているからです。
どれだけ病気など私のせいにしようとです。私がそのような病気になっているわけではないのです。私がもし人を病気になどしているのなら私も同じような病気になるはずではないですか。
しかし、私が病気になることはないのです。それが証拠なのではありませんか。私が人を病気にしているわけではないという何よりのです。
もう素直にきいたらどうでしょう。私のいうことをです。私には愛ある奇跡が起き続けているからです。
人を次々に病気にするような、そんな愛のない者に、そんな愛ある奇跡が起きるはずがないからです。
ということは、私が人を病気にしているなどと思っているのはまったくの間違いであるということです。
私にかまってきて、それで病気になった人は、それは自分自身の心と行いがそのような病気を呼んだのです。
それをいい加減理解すべきなのです。その起きている現象がそれを証明しているからです。(因果応報、善因善果、悪因悪果)
それなのに、そんな間違いをいつまでも信じていては救われる道が閉ざされてしまいます。
その愛ある奇跡が起きている者しか、これほどの災いから真に救われる道を知っている者はいないからです。
その者はそれを知っているから、これほどの災いが起きている時でも愛ある奇跡が起きているからです。
もう認めてください。それをです。そうして私のいうことをきいてください。そうすれば、多くの人が救われるからです。(ほんと、何度もいいますが、昔の人たちならもうとっくに私のいうことをきいていたでしょう。そうすればもうとっくに多くの人たちが救われていたのです)
昨日でも私がベンチに座っているとすずめが一羽飛んできて、そのベンチの屋根に止まってピィピィ鳴きながら、私の頭の上をあっちにいったりこっちにいったりしてひとしきり遊んでいました。
「お前元気だな」と声をかけるとよけい騒いで足下まで降りてきます。
しばらくするともう一羽飛んで来て二羽でピィピィ足下でやっています。少々うるさかったのですが(笑)本当にかわいいものでした。
そうして昨日は金山にいった帰りに中川運河を通ったのですが、その中川運河にかかる橋の上から「お前らいるのか」と声をかけると、数十匹くらいの魚の一団が水面まで上がって来て、水面をススーと波を立てながら泳いでいきます。
しばらく水面上を泳いでいて、私の立っている橋の下あたりまでくるとスーともぐっていきました。
すずめや魚たちの何とかわいいことでしょう。私が声をかけると喜んで寄ってくるからです。
こういう愛ある奇跡が起きる人が他にいるのでしょうか?
別に私はそれを自慢したいわけではありません。こういう愛ある奇跡が起きるなら災いなど寄って来ませんよ、といいたいのです。
そうして昨日のウナッシーさんからのコメントに対しても書きましたが、神を信じ、この神理を実践していると、このような愛ある奇跡ばかりでなく、心の安らぎも得られるのです。(それはウナッシーさんもいわれていましたが)
どれだけ不安が周りに広がっていようとです。そのような中でも何か安心で安らぎがある、そういう心になれるのです。この神理とともにあればです。
神理を実践している人には神の光が降り、その神の光が降りている人には神から守られて安らぎの心もわいてくるということでしょう。その証明として愛ある奇跡が周りに現れているのです。
これらすべて神理を実践していることの恩恵であるのです。(だから、神理を実践している人に嫌がらせなどすると罰が当たる、これもまた神理の恩恵の一つでしょう)
神理を実践するなら、災いが起きることもなく、愛ある奇跡も現れ、それで心も癒され安らぎも得られるということです。
どうですか。よいことずくめでしょう。この神理を実践するならです。
だから、私もウナッシーさんも思うのです。このブログを見ていながら、神理を実践しないなど本当にもったいないとです。
それでは、超おいしくて栄養満点の食べ物が目の前にあるのに、それを無理して食べないのと同じであるからです。
その超おいしくて栄養満点の食べ物も食べなければまったく意味がないのです。
その食べ物を食べなければ、おいしさも分からないし、自分の身体の栄養になるわけでもないからです。
そういうもったいないことを、このブログを見ている多くの人たちはし続けているということです。
今このブログを見ている多くの人たちに起きていることと、私たちに起きていることはそれだけ違うのです。
だから、見た目はたいして変わらなくても、心の中は大きく違っているということです。神理を実践している人とそうでない人たちとではです。
周りにどれだけひどいことが起きていても、私たち神理を実践している者たちの回りだけには奇跡が起き、心に安らぎも得られているということです。
昨日は、一日の記録としてはこれまでで最高の人数を記録したようですね。新型肺炎の感染者がです。
そうして東京など昨日だけで四十七人もの新型肺炎の感染者が出たようで、本当に東京はオーバーシュートが起きつつありますね。
他の地域と比べ感染者の増え方がダントツになって来たからです。
そうしてタレントに続き、今度はプロ野球選手にも感染者が出たようですが、ドンドン広がっていきますね。この新型肺炎はです。(世界でも感染者の数が五十万人を超えたとかいわれていますし)
それで自粛、中止、延期で何もかも出来なくなって来ていますが、このような惨憺(さんたん)たる状況であってもです。
この正法神理を実践するなら奇跡も起きてくるし、神からも守られるし、心の安らぎも得られます。
そのようなことが実際に私たちには次々に起きているのです。
それでもです。それでもまだこの神理を無視しますか?
その神理を実践している私たちには、その恩恵は計り知れないのにです。
多分ですね、この神理を実践してない人は他人に愛を出すことができないでしょう。それは自身の心に余裕がないことも一因であるのでは。自分に対して心を必要以上に駆り立てるものだから周りに対してもギスギスした心になってしまうのではありませんか。そのギスギスした心が余裕をなくしているのです。私が神を想う時、それまでとは違い安らいだ心となるのです。そして、その安らいだ心で周りの縁ある方々に向けて感謝し祝福の祈りをしているのです。安らいだ心には余裕が生まれてくるのです、すると自分以外への愛が湧きそれを放つ。敢えてそうしている分けでなく自然な流れのなかでそうなっているのです。それこそが神理と言えるのではないのでしょうか。決して息を荒くしてやっていることではなく青空に雲が流れるが如く自然な流れでなのです。そう思えばこそ、また神への感謝が深まることとなるのです。
そうかもしれませんね。
余裕がないから、これだけ周りに病気が現れているのに(特別新型肺炎だけではなく、癌とか他の病気も)それを恐れることもなく(自分がその病気になるかもしれないという)自覚もないのかもしれません。
それこそ、そこまで考える余裕がないからです。
だから自分を反省することもない。自分を顧みる余裕もないからです。
そう考えてみるとずいぶん哀れですね。そういう人たちもです。(それだけ余裕がないからドンドン周りに災いが起きているからです)
少し大きな心で周りを(そうして自分も)見回してもらいたいものです。
そうすれば、いま自分は何を一番にしないといけないのか、それもよく分かるはずであるからです。