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6月 11 2020

神理に布施する有難さ

11:03 AM ブログ

さすがに昨日は少なかったですね。ブシュブシュや嫌がらせもです。(苦笑)

いくらこちらの人とはいえ、神理を教えてもらっていながら悪いことの罪を私に全部擦り付け平気でいられる人もそうはいないのでしょう。(昨日は〔雨も降っていたし〕たまたま少なかった、ではなくそう思いたいです。〔苦笑〕)

昨日のようなブログを書いても、それでもまだ悪いのはお前などとやっている、そういう人としての恥も知らなければ恩も知らない、そのような飛びぬけてレベルの低い人はともかくです。(多少はいましたが、昨日でもです。そういう人はです)

少しは自分の自己中さが分かった人たちは、神理に感謝して布施してみませんか。そうすれば周りに起きてくることは必ず変わってくるからです。

神理などそう簡単に巡り合えるものではないのです。幸運にもその神理に巡り合って布施するチャンスまであるのです。

これだけ幸運なこともないのです。やらない手はないのではないですか。神理に布施出来るというそれほどの幸運もないからです。

だってよく考えてみてください。

私は何度もいっていますが、神理にこの世で出会うことなど、何度も生まれ変わって一度あるかどうかのどれだけ稀有なことか知れないのです。

それは嘘ではないのです。例えば自分の爺ちゃんや婆ちゃんにきいてもらっても分かると思います。

その爺さん婆さんに自分が生きてきた中で、それを行えば奇跡が起きるなどという教えに出会ったことがあるのかとです。

七十、八十すぎの爺さん婆さんであろうと、あるいは百を超えている爺さん婆さんであろうとです。そんな教えに出会った人はいないと思いますよ。

今の信仰といわれているものはいくらしたところで、それで奇跡的なことが一度でも起きればいい方なのではないですか。それくらいのレベルなのではないでしょうか。いま現在の信仰といわれているものなどです。

今の信仰など奇跡が起きるものではなく、ただお参りやお経をあげるだけのものとなっているからです。

奇跡などとは無縁なものになっているのです。

そういうことを考えても分かるはずです。神理と出会うことの難しさがです。

そのような年寄りでも、そんな次々に奇跡が現れる教えなどとは出会ったことがないのです。

それは今だけではなく、百年前も、二百年前も同じなのです。そんな教えと出会った人はいないのです。

百年、二百年前にはまだこの世に神理は出現していないからです。前回神理がこの世に出現したのは、二千年前のイエス・キリストがイスラエルに出世された、その時までさかのぼらないと神理はこの世に出ていないからです。

その時はキリストだけではなく、キリストの弟子たちにも多くの奇跡が現れました。神理を実践するなら誰でも奇跡は起きるからです。

その前に神理がこの世に出現したのは釈尊がこの世に出世された時ですが、つまり、この世に神理が出現するのは数千年から数百年に一度であるということです。

つまりちょうどその時に、この世に生まれていないと神理と巡り合うことは出来ないということです。

それを考えても神理とこの世で出会うことの難しさは分かるはずです。

ということは、神理をきくだけではなく、神理に布施するチャンスがある人など、その時に近くにいる人でないと(神理を説いている人の近くにいる人でないと)出来ないのですから、もっと貴重であるということです。

神理と出会っても、布施する人ばかりではないからです。しかし、神理と出会っても布施しなければ大きな徳を得ることは出来ないのです。

これほど貴重な神理に布施出来るなら、一体どれだけ大きな徳を得られるか知れないのです。

だから、いっているのです。神理と巡り合うことは貴重ですが、その神理に布施することはもっと貴重で幸運であるとです。

その神理と巡り合って、神理を説いている者に布施出来るなら、その人は破格の徳を得られるからです。それだけ神理に布施するという行為は、後に自分が得られる何倍もの(人によっては何十倍もの)徳を得られるチャンスであるからです。

神理をきいて実践すれば心は向上しますが、徳をどれだけ得られるかは別問題です。神理は徳を得られるようなことばかりをするものではないからです。自分の心の修行という部分もあるからです。

だから、その徳を大きく得られるチャンスがあるのが神理を説いている人に対する布施なのです。

だから、釈尊や(釈尊など大きな精舎をいくつも布施されています。今の価値でいえば数千、数万、数億円という金額になるでしょう)キリストはもちろん、その弟子たちも多くの布施が集まったのです。

それだけ自分たちが(神理をきいている者たちが)徳を得られるチャンスもなかったからです。

それだけ神理を説いている者に布施するなら自分が救われるということです。その得られた徳が、その後の自分たちをどれだけ救うか知れないからです。

そうして、その徳が深い人と浅い人とでは、その評価もまったく違ってきます。(この世の評価もそうしてあの世での評価もです)

だからこれだけ有難いこともないといっているのです。神理を説いている者に対する布施など、そのどれだけ自分の価値も評価も上げる(そうしてどれだけ救われか知れない)有難い徳をたくさん得ることが出来るまたとないチャンスであるからです。

それなのに、その数百、数千年に一度あるかどうか分からないチャンスを、ほんとこのブログを見ている多くの人たちはどれだけ(平気で)逃しているのでしょう。

そういうバカな(そうしてもったない)ことをしているから、これだけ災いも現れるのです。

今このブログを見ている人たちがしているような、私に(神理を説いている者に)対する態度は、徳を得るどころか、その逆の徳をドンドン減らしている態度であるからです。

徳をドンドン減らしているのなら災いはドンドン現れて来ます。

その典型がどこかの会社でしょう。もうこの会社、毎日災いが起きているからです。(今日もすでに凄そうです。何百年、何千年に一度、現れるかどうかの教えの流布のじゃまを平気でしているからです。本当に恐ろしいことです)

こういうところは、それこそ、その徳をたくさん得ないことにはもうその起きている災いは止まらないのですが、いかんせん。この会社の誰もきく耳を持ちません。

これではこの会社に起きている災いは止まらないでしょう。それこそ、この会社の人が一人もいなくなるまでです。

このような恐ろしいことが現実に起きているのです。あまりに徳を得る人が少ないからです。(減らしている人は多くてもです)そうしてそれはいま現在の日本全体を見てもそうなのです。(そうして世界全体を見てもです)

徳を得る人が少ないからこれだけ多くの災いが現れているのです。徳がある人がたくさんいるのなら、奇跡は現れても災いが現れることはないからです。

徳を得るなら自分の人格も向上しますし多くの奇跡も現れて来ます。

ではされませんか。(神理を説いている私がいる)今ほど徳を得るチャンスもないからです。

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