4月 22 2010
園頭広周師①
園頭広周先生著「現代の釈尊 高橋信次師」より抜粋します。
<高橋先生から電話がありまして、こういう所に園頭(そのがしら)という人がおられる。この方は私にとっては非常に大事な人であるから、電話などでいってはいけません。一人で行ってもいけません。誰かと二人で行って、私がぜひ会いたいといったと伝えてくださいということでした。高橋先生は三月十三日、GLA関西本部で講演されます」
来てくださったのは、当時のGLA関西本部事務局長中村勇氏夫妻であった。GLA関西本部というのは、霊友会の分派であった瑞法会(ずいほうかい)が、教団を挙げて帰依(きえ)してGLA関西本部となっていたのであった。
当日、私は少し早目に行って待っていた。「お手紙差上げました園頭です」と挨拶すると、高橋先生は随行(ずいこう)の人に顔を向けて、「園頭さん、あなたが私の所に来るということは、僕は五年前から東京の人たちに予言していたのです。ね、そうでしたね」といわれた。随行の人は「そうでした」とうなずいていた。
五年前というと昭和四十三年で私はまだ「生長の家」本部にいた頃である。しかし、すでに「生長の家」をやめる腹は決めていたが、ただやめる時を選ぼうと思っていた時であった。
やめて高橋先生の下に来るということはすでに目の見えない世界で決まっていたのだ。過去・現在・未来のすべてがわかるというこの先生について、これからもっと多くのことを学びたいと、よき師にめぐり会えたことを喜んだ。
「園頭さん、あなたは宇宙即我を体験したことがありますね」
それまで誰に話しても理解してくれなかった昭和十五年六月の中支の第一線陣地で体験したことを、高橋先生はすでに知っておられた。
私がどういう体験をし、「生長の家」でどのようなことをして来たか、私が話したわけではないのにすでにすべてを知っておられた。>
高橋先生の弟子の中で、高橋先生がわざわざ二人も人をやって、「ぜひ会いたい」と託(ことづ)けされたのは、この園頭先生以外ではいません。高橋先生の弟子の中でも、やはり別格であったということが、このような高橋先生の態度でも分かります。しかし、それが分かっていたのは、高橋先生お一人であったということが、後の悲劇へとつながっていくのですが……。
園頭先生は、大正七年鹿児島に生まれられます。
園頭先生は十歳の頃からある疑問を持つようになります。それは「人は何のために生まれてきたのか」ということです。
近所の大人たちに聞いたのですが「生まれてきた以上死ぬわけにはいかないし、なぜだろうね」というような要領を得ない答えばかりで、十歳の子供でも考える人生の意義を、しっかり考えもしない大人が多いことが、園頭先生には不思議でならなかったそうです。
園頭先生は、小学校を卒業するとき「学術優等」の賞状をもらい、鹿児島商業にトップの成績で入学します。園頭先生は当時から大変な勉強家で、授業の合間の休み時間でさえ無駄話などせず、勉強していたといいます。そればかりか学校の行き帰りも本を読みながら歩いてたそうで、この当時、園頭先生は「本ばかり読んでいる子」として有名でした。



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