12月 16 2020
止まらない天罰 陋習(ろうしゅう)をやぶる時
もう感謝して布施されてはどうでしょう。この辺りの人たちなどはです。
ずいぶん出てるようだからです。天罰が(癌が)です。
昨日も堀川から六番町の辺りを回っていましたが、前にも書きましたが六番町の辺りはずいぶんうるさかったのです。しかし、昨日もまた(先週に引き続き)ドン引きしていましたからね。あの辺りのどこの工事現場も会社もです。
私が通ると大きな音を立て続けていた工事現場など、昨日はその現場の横を歩いていると何か小さな音がきこえてきたようでした。(カンカンカンカンカンみたいなです)しかし、残念ではありますがもうほとんどきこえないのです。その音はです。
少し前までは町中にきこえるくらいの大きな音がきこえてきたのにです。そこの現場からはです。しかし今はもう見る影もありません。
そういうところばかりです。あの辺りはです。
別にそこら辺りばかりでなく、そういうところがたくさんあります。激しく怒っているところでも、もうその激しい怒りが続かない。次に通るとドン引きしているか、怒っていてもずいぶん元気がない。
なぜでしょうか?
それはどれだけ怒っても、すぐに天罰が現れてきて同じような怒り方が出来なくなるからです。
もうこの辺りは止まらないのです。天罰がです。
大きな会社など(人がたくさんいるところなど)次から次に天罰が現れてくるので同じように怒ってはいられない。また同じようにドン引きもしていられない。
天罰が止まらないからです。
だから私が通ると毎回態度を変えるところが多いのでしょう。それだけ多くの天罰が、多くのところで現れているからです。
はっきり書くなら、そんなところばかりなのでしょう。この辺りで私によく嫌がらせをしていたところはです。(どこかの会社などその典型でしょう。今日などドン引きしています。さっきカーンとかしていましたのでまた誰かに癌が出たのでしょう)
それほどのことが起きているのです。もう認めませんか。この正法神理をです。
これほどの教えは他にないからです。
そうではないでしょうか。この辺りの体験者の皆さん(天罰を食らったです…変な言い方ですが)これまでこんなことが起きたことがありますか? 人に嫌がらせをしていたら病気になったなどということがです。
まずないと思います。しかし、そんな起きないことが起きるのです。この教えはです。それも頻繁にです。
そればかりではありません。この教えを実践し続ければ、歩いていれば鳥が寄ってくるようになり、川で呼びかければ魚が寄ってきて、他の動物からも多くの愛がもらえます。
祈れば願いが叶えられ、様々な奇跡も起きてくるのです。
そうして知らないことも次々に教えられ(神のことやあの世のこと)それに伴った不思議な体験も出来ます。(例えば、神やあの世があるということが分かるような夢を観たり、体験をしたりです)
もういたれりつくせりです。これまでの信仰とは全然違うのです。どれだけ祈ろうがどれだけ厳しい修行をしようが何も起きてこない、これまでの信仰などとはです。
まったく違うのですよ。(実際私は、そんな激しい修行などしたことありませんから。私世活の中でやれる範囲の神理の勉強と祈りと反省の禅定をしているだけですから。それで十分奇跡など起きてきます)
これだけ楽で(そういう言い方も変ですが)有難い教えもないのです。簡単に神の教えが分かり奇跡も現れてくるからです。
それなのに何でやらないのですか? これだけ災いがあふれ出しているこのような時にです。
逆にやらない手はないでしょう。こういう時にこの教えを実践するなら、様々な災いから守られ、奇跡も次々に起きて、正しい(幸せの)道に導かれてもいくからです。
それなのに頑なにこの教えを拒否し反発している、まったく不思議ですね。
なんでそんな頑なな態度をいつまでも取り続けているのかがです。それで不幸になっている人がごまんといるのにです。
しかし、この教えを実践するならいくらでも幸せになれるのにです。
それなのに何でわざわざ確実に幸福が現れる教えに逆らって不幸になっているのですか? 無視しているのでしょう。
まったくもって不思議ですね。この教えをやれば誰も幸せになれるのにです。そういう道筋を私は示しているのにです。(私に起きていることがその道筋です)
私並みにこの教えを実践するなら、私並みのことが、私以上に実践できるなら、それこそ釈尊やキリストの域近くまでいくことも出来るのです。
この教えは、その釈尊やキリストが説かれていた教えと同じ教えであるからです。(だから同じような奇跡も起きてくる。同じ教えだからです)
それなのに頑なにこの教えを拒否してわざわざ不幸になっている。これだけバカげた行いもありません。
ソロソロそういう発想を持ちませんか。この教えを無視していることくらいもったいない話もないというそのような発想をです。そうすれば考え方も全然変わってくるからです。
それを、そういう進歩的な発想をまったく持とうとせず、自分の殻にジッと閉じこもって同じ考えでいつまでもいるから、そこから一歩も進めないのです。堂々巡りしているのです。
だからいいことも起きない。進歩がないからです。
実際、そのような人たちばかりなのではないですか。特にこの辺りの人たちなどはです。
だから不幸が止まらない。同じ位置にずっといるからです。
先に進んでいる人たちにはもう様々な奇跡も現れています。(ウナッシーさんや他の布施してくれている人たち)しかし、同じこのブログを見ている人たちでも、いつまでも同じところにいる人たちには逆に次々に災いが現れて来ているのです。
それらもすべて神の恩恵なのです。そういうことが起きるからこの教えの(神理の)有難さも分かる。奇跡も災いも現れてくるからです。
何も現れてこないなら何も分からない。それは正しい信仰ではないからです。
何も起きてこないものを信仰だと思い込み、それで分かったようなふりをしている人はたくさんいますが(これまでの信仰をしている人など皆そうでしょう。どこかでお参りでもすればパワーをもらえたような気がする、運気が上がったような気がする、その後、何の奇跡も起きないのにです。〔笑〕)そういうものを信仰とはいわないのです。
それはただの観念の遊戯に過ぎないからです。そう思い込んでいるだけ何も起きない。そんな祈って何も起きて来ないものなど(神のご加護がないものなど)信仰でもなんでもないのです。
本当の信仰とはそういうものだからです。祈れば確実に具体的な現象が現れる、それが正真正銘の正しい信仰であるからです。
その正しい信仰が出来るのが、唯一この正法神理であるということです。
だから、神理を読んでいるのに、それをしないからよいことも起きてこない、それをするなら確実に救われるのにです。
それがいつ分かるのですか? 分からない間は起きている不幸は止まらないのです。
すぐにやればすぐに幸運が現れてきます。(この辺りなど特にそれが分かります。この教えに従い感謝の布施をするなら、少なくともこの辺りで次々に起きている天罰は、そのような実践をした人には現れては来ないからです)
もう目覚め行う時がきています。これまでの陋習にいつまでも縛られていてはいけないのです。それでは不幸になるのです。もう時代が変わっているからです。(そういうこともこの神理を知ったから分かることですが)
立ち上がりませんか。少し立つだけでも、その景色はずいぶん変わってくるからです。
同じところにいては同じことしか分かりません。少し進んでみることです。そうすればまったく違う景色も観えてくるからです。



人目の訪問者です。
