3月 01 2021
傲慢な心と謙虚な心 神理の有難さ
だから、怒ってばかりいても仕方ないでしょう、といっているのです。
前回のようなブログを書けば、まあ、この辺り、怒っている人ばかりです。怒って天罰が止まればいいのですが、よけい起きて来ますからね。
怒れば怒るだけ天罰はくだります。だから神理を散々知ってしまった以上です。(ずいぶん考え方も変わったでしょうし。神理によってです)感謝の布施くらいすればいいのです。
少しの報恩の行為で天罰など起きなくなるからです。
しかし、それを頑なに拒むなら、こういうことになるのです。すさまじいまでの天罰がくだるというこのようなことにです。
それをどれだけ私のせいにしていたところで災いを食らうのは自分たちなのです。(私ではありません)
では、もう少し真剣に考えてはどうでしょう。自分たちの行いをです。その行いを少し変えればそれですむ話であるからです。
だって少しでしょう。私に対し、ただ怒っているのではなく感謝の布施をすれば、そうすれば少なくともこの辺りで起きている災いは止まるのです。それをしないからいつまでも起きてくるのです。その災いはです。
よく考えてみればそれだけの話なんですから少し行いを変えるだけの話でしょう。(どこかの会社の皆さんもお分かりですか? 今日もずいぶんお怒りのようですが、そのような態度を少し変えればそれで止まるのです。その毎日起きている災いはです)
それがなぜ出来ないのか? それをなぜいつまでも私のせいにし続けているのか?
それは自分たちが傲慢であるからです。だから自分たちの考えを変えることが出来ない。どれだけ災いが自分たちに起きてもです。それでも自分たちの考えを変えることが出来ない。
傲慢な人たちばかりであるからです。だから自分の考えを変えることが出来ないのです。
その傲慢な心が自分の考えを変えることじゃましているからです。
園頭先生が正法誌に次のようなことを書いていられます。
<昭和四十八年五月、東京のあるところで「人間・釈迦」の著者高橋信次先生の下で、私は自分の過去世を思い出していた。その時、初対面のK氏が、私の前にパッと両手を差し出し、五体を伸べて挨拶したのが、五体投地(ごたいとうち)の礼であった。突然、目の前に身体を投げ出されたのでびっくりしたが、それは奴隷階級の人たちが、目上の人に対する絶対服従の心の表現であったのである。私たちがたとえばお釈迦さまの前に出たとすれば、どんな礼の仕方をするかといえば、静かにひれ伏すだけということになる。自分より少し目上の人に対する場合、初対面の場合は、その方の周囲を三べん回って、左ひざを立て、右ひざは地について合掌するのである。それがインドの昔の礼の仕方であった。それが今は五体投地が正式の礼になってきたのは、お釈迦さまの法に絶対に帰依随順(ずいじゅん・従って逆らわないこと)する真心をあらわすものとしてされているのである>
五体投地の礼は比叡山でも行われていますが、インドの人たちは法の前ではこれほどの(五体投地の礼をするほどの)態度で相対しているそうです。
つまりそれほど法というものを大事にされているのです。インドの人たちなどです。
そうであるなら日本の人たちは、そのお釈迦の本当の法に(もちろんこの正法神理のことですが)なんと日本で巡り合っているのですから、そこまでの態度を取れとはいいませんが、せめてそれくらいの心で(五体投地の礼をするくらいの)この正法神理に相対されてはどうでしょう。
そうすればいま災いが起きているどれだけ多くの人たちが救われるか知れないからです。
だから要はその心なのです。
そんなお前のいうことなどきけるか、というそのような傲慢な心が災いを呼んでいるのであり、そうではなく、そんな有難い教えを教えていただきありがとうございます、なのです。
そういう謙虚な心がないといけないのです。そのような謙虚な心が自分を救うからです。
しかし、今の人たちは、傲慢さはあっても(人一倍です。〔苦笑〕)謙虚さはまるでありません。そのような心が多くの災いを呼んでいるのです。
傲慢な心では悪いことしか現れては来ないからです。
それが証拠に、もはやこの辺りで起きているような災いだけではなく日本全体を見るなら大変な数の災いが起きています。(最近は震度3以上の地震が多いですし全然火が消えない山火事などもそうです。ここまで火が消えなくてはもはや災い以外の何ものでもありません)
なんでこれだけ多くの災いが起きているのですか? しかも次から次へとです。
それはいま現在の日本に傲慢な人が多いからです。だからこれだけ多くの災いも現れるのです。
何度も書きますが、傲慢な心のままでは悪いことしか起きて来ないからです。
だから、これほどの現象が現れる神理を知っていても鼻にもかけない、傲慢な人が多いからです。
普通であるなら、これほどの現象が現れて来たのなら、恐れ入って(自分たちにはまるで起きないのですから、そんな現象などです)こちらの話を真剣にきけばいいのに、絶対にきこうとはしない。
傲慢だから人の話に素直に耳を傾けるなどということをしないのです。多くの人がです。
だから災いも全然止まらない。止まらないどころかドンドン増えていく。傲慢なままで、その心を変えない人が多いからです。
だから何でこんなことが起きてくるのか訳が分からないため(傲慢で真剣にこちらの話をきかないから)全部それを人のせいにして、その考えを変えようとしない。
それで益々、災いが起きてくる、そのような考えは間違っているからです。
しかし、そのような自分が間違った考えでいることも分からない。すべてそれは傲慢な心が原因であるからです。
だから持たないといけないのです。謙虚な心をです。インドの人たちの何分の一でもいいからです。法に(神理に)対してはです。
別に私に五体投地の礼までして、そうしてこの神理をきけとはいいませんが、そのくらいの謙虚な心は持たないといけないのです。
これほどの現象が起きているからです。これほどの現象が現れる有難い教えは他に存在しないからです。
傲慢な心のままでは何も入って来ないし、何も心に入れなくては何も変わらないのです。だから起きてくることも変わらない。
心が傲慢なまま、まったく変わらないからです。
その傲慢な心がすべての原因なのです。災いが現れてくるです。
だから少しくらい謙虚になってこの正法神理に耳を傾けてみませんかといっているのです。そうれば救われる道もついてくるからです。
園頭先生がいわれていますように、インドの人たちは(お釈迦さまの)法の前には五体投地の礼までして従うことを誓うのです。
いま現在の日本には、そのお釈迦様の本当の教えが現れています。(だからすさまじい現象が現れてくる)
そうであるなら少しは謙虚な心で、そのお釈迦さまの御教えであるこの正法神理に耳を傾けてみてはどうでしょう。そうすれば必ず救われるからです。
そうしないともったいないでしょう。これほどの教えなど早々現れるものではないのですから。この地上にもです。
しかし、そのような有難さも分からない。傲慢なままではです。傲慢ということは自分の目や耳を自分でふさいでいることであり、それではどれだけ有難い教えが近くにあっても分からないのです。
自分の目と耳を自分でふさいでいてはです。それだけ傲慢な心は自分に害をなすのです。
だから、謙虚さが大事なのです。謙虚な心は逆に自分の目と耳を大きく開かせることになるからです。
このような有難い教えが世に出ている時は、謙虚でなければ、その教えをきくことは出来ません。
いつまでも傲慢な心のままでは絶対に災いは止まりません。謙虚な心になることです。謙虚さこそ自分自身が本当に救われていく道であるからです。
これほど有難い教えに巡り合うことは稀なのです。
その神理の有難さをもう少し理解されませんか。謙虚な心になってです。



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