4月 28 2010
園頭広周師⑤
昭和十五年六月、その頃園頭先生は第六中隊長として、湖北省通城県から長沙へ通ずる道路上の徐家という所の陣地にいました。時々銃声が遠くに聞こえるだけで平穏な毎日でした。園頭先生の日課は、午前五時におき神想観(「生命の実相」の中に書かれてあった観法)をすると、あとは特別な要件がないかぎり「生命の実相」を読んでは思索する毎日でした。
園頭広周先生著「宇宙即我に至る道」より抜粋します。
<中隊長室は敵側とは反対斜面の山の中腹に東面して造られ、簡素な床の間も作ってあった。その朝、私は山の斜面に生えていた野菊を一輪手折って一輪差しに差し、身の廻りを清潔にした。
そうして『生命の実相』に書いてあるように坐り、神想観に入った。腹式呼吸、深い深い呼吸、息を吸っているのか吐いているのかわからない位の呼吸になったとき、私の背骨がぐぐーっと伸びた。「あーっ」ともう一つの心は思った。
坐っている自分の上にもう一人の自分がいて、坐っている自分を見下ろしている。その自分が天井の辺りにいたかと思うと、もはやもう一人の自分は屋根を突き抜けて辺(あた)りの山や川や田畑も陣地もずっと下に小さく見ている。その間、背骨がずーっと伸びてゆく感じがする。と同時に腹がぐっと横にひろがり出して、太陽も地球も月もみな自分の腹の中にある。それを自分がのぞいている。
折りしも長沙方面へ爆撃に行く三機編隊が上空を通る。上空を通るといっても爆音は頭上から下の方へ肉体の耳に入るのであるが、しかしその編隊は自分の腹の中を飛んでいるのが小さく見える。地上から見た飛行機の速度は物凄く速いのに腹の中に上からのぞいている飛行機は一定の所に止まっているようにしか見えず、爆音はずっと下の方から上にいる自分に聞こえてくるのである。中隊長室にいる肉体の自分を自分が上から見ているのである。その状態を冷静にふしぎなことだ、これはどういうことだろうと思っている自分がいるのである。
陣地交代のために行く兵隊の話し声も、夜明けととともに鳴き出した鳥の声も、全部腹の中から上の方へ聞こえてくる。すべてを自分が上から見ているのである。
地球が小さく見える。私は太陽の中にいる。太陽には太陽神殿があってその神殿の中央には光の座があってまぶしくて、また光の権威の前には頭を上げられない。ぬかずくしかない。私は中央のその光の座の前にこちら向きに坐って地球を見下(みお)ろしている。太陽の光が放射されているその光の波動が見える。太陽も地球も、すべての星も自転しながら公転しているその音が「オオー」と聞こえてくる。
宇宙と自分が一つになったのである。宇宙はすべて調和されているのである。神がつくられた世界は既に調和している。戦争などというものは、人間のこざかしい我欲の産物でしかない。
肉体は肉体でありながら肉体の感覚がない。呼吸はしているのかしていないのかわからない。人間は肉体ではない。肉体ではないというのは肉体だけではないということである。もう一つの自分がいるのである。肉体の自分というのは極(ご)く小さな細胞みたいなものである。もう一人の自分、肉体でない意識即ち霊の自分は無限である。宇宙いっぱいにひろがっている。宇宙と一つなのである。
そのふしぎな感覚にどれ位浸っていたかわからない。
突然「パーン」という音がした。ハッと眼をあけた。一瞬この音が「天地の発(ひら)ける音だな」と思った。見ると、辺(あた)りに見えるもの、木も草も石ころからも、すべてのものが黄金の光にゆらゆら輝いている。すべてが神の生命の現われなのである。「物、物に非ず、これ物という」。物を単に物体だと見るのは物の一面にしか過ぎない。物として現れているのもすべてはみな神の生命なのであった。すべての物から発する黄金の光を見ているうちに次第に私の意識は肉体に戻って、坐っている自分が自分だと思えるようになった。私はしばらく動くことができなかった。そのふしぎな現象を改めて心の中で考えていた。>
園頭先生の悟りの境地が具体的に書かれてあります。
ある大教団の教祖が「インドに行って東の空を見上げると、明けの明星が輝いていた。するとその明けの明星の上にお釈迦様の顔がみえ、そのお釈迦様に私の考えは間違いはありませんねと聞いたら、それでいいとお釈迦様が答えられた。私はそのとき悟りを得たのである」といっている人がいますが、園頭先生の悟り(宇宙即我)と比べると、かなりレベルが違います。
お釈迦様の悟りは宇宙即我の境地であり、悟られたお釈迦様は大宇宙一杯に広がった霊体で、腹の中にある明けの明星を上から見下ろされたのであり、下から見上げられたわけではありません。
この教祖は、下から明けの明星を見上げて悟ったといっておりますが、下から見上げているようでは、まだ悟りを得たとはいえません。つまり、この教祖は悟りを得ていないのに悟ったと、嘘をついているということになります。
高橋先生や園頭先生という、本当に悟られた如来がこの世に出てこられ、悟りの境地を文字で表し、その教えが残っていることで、このような本当の悟りの意味も知らない、ニセ教祖の嘘が分かるのですが、高橋先生や園頭先生の書かれたものが残っていなければ、ニセ教祖の嘘も、悟りとはこういうものかと信じてしまうかも知れません。
まことに「如来に会い、その法に出あうことまことに難し」といわれますが、よい時代に私たちは生を受けたものです。
先のような教祖の下に、多くの信者が集まり教えを受けています。するとそのような信者たちは幸福になるのでしょうか?不幸になるのでしょうか?答えは簡単です。悟りを得ていないのに悟りを得ている、という嘘をついている詐欺師のような教祖の下で、教えを受けている信者たちは皆不幸になります。
おかしな宗教にだまされ不幸(本人はそれに気づいておりませんが)になっている人が多いのは、こういう詐欺師のような教祖が多いのに、それに気づかない人が大勢いるからです。
だからこそ高橋先生や園頭先生のような、本当に悟られた方の教えを広げなければならないのです。
園頭先生が宇宙即我の境地になられ、分かられたことは、キリストが言われた“愛”ということの真の意味でした。



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